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少女が愛した千の恋と万の嘘 -電装騎士フェイリス-  作者: 更科悠乃
第2話「クラスメートと秘密基地」
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#05「〈ヒト―蟷螂《カマキリ》―蜘蛛複合体〉」

 白昼の住宅地に連続した銃撃音が響き渡っていた。


 住宅密集地であることを考慮し、発砲は極力控えよ。周辺住民に被害が及ばぬよう最大限配慮せよ――という通達が出ていたが、現場の現場、実際に〈クトゥルフ〉と対峙している警官たちの頭からはそんなものはとうの昔に吹き飛んでいた。


 高層マンションが建ち並ぶ人口密集地。その一角に甲高い悲鳴が轟き続け、マンションとマンションの壁面の間で反響してこだまとなって響く。


「う、うわわあああ――!!」


 またも警官の一人が大きく宙に投げ出され、文字通りの弧を描いて空を飛んだ。


 頭から地面に激突させるのだけは食い止めようと、二人の同僚が弾切れのライフルを投げ捨てて必死に駆け寄り、落ちる寸前の同僚を抱き留めるのに成功する――成功するが、次の瞬間には抱き留めたその手が大量の血で真っ赤に染まったのを見て腰を抜かしかけた。


 口から赤い泡を噴き、剥いた目が今にも裏返りそうになっている同僚を抱きかかえ、自分も泣き喚きながらその体を引きずって二人の警官は後方に下がった。


「撃て! 撃て撃て撃て!」


 前線指揮官が口から唾をまき散らして喚く。もはや統率からはほど遠い命令しか出てはいない。


 ライフルの銃声は既に途絶え――持っている弾丸を全て撃ち尽くしたのだ――拳銃の発砲音がそれに代わるが、〈目標〉に対しては豆鉄砲程度の効果しかなかった。


 頭部をすっぽりと覆う青いヘルメットに、これも青い防弾服を装着した十数人の部隊。その一人である警官が目の前に迫った〈目標〉に拳銃を撃ち続ける。


 しかしその弾丸は固い外骨格の前にことごとく弾かれ、蚊ほどのダメージを与えることもない。それどころかこちらに接近してくる速度を遅らせることさえできない。


「止まれ――こいつ、止まれ、止まれ、来るな、来るんじゃない!!」


 撃って撃って撃ちまくり、その発砲のほとんどが当たっているのが確信できるのに、相手の接近が止まらないというのは、恐怖以外のなにものでもなかった。


 奥歯が割れるほどに食いしばり、筋肉の全部が硬直するくらいの緊張があった。


「こ、こいつ――――!!」


 拳銃から弾が出なくなったのに気づいたのは、トリガーを無駄に十回も引いてからのことだ。


 弾が切れた拳銃を投げつけ、後を向こうと体を引き掛けた警官に――それは、もう腕を伸ばせば届くところまで肉薄していた。


「っ!?」


 二十メートルの距離を二秒もかからず詰めてきたその怪物の速度を理解できずに、隊員は思考と体を硬直させる。振りかぶられた腕――カマキリのそれそのものの形をした鎌に首がはねられるまではコンマ何秒だったろうか。


 そのほんのわずかな瞬間、一秒にとても満たない刹那の時間の中でその警官は、自分の命を刈り取りにきたものの姿を見ていた。


 それは、まさしく怪物だった。


 細くしかし強靱な鋭い八本足、それが生えている胴体は蜘蛛に酷似――いや、蜘蛛そのものだといっていいかもしれない。ただ、それが普通の蜘蛛と決定的に違っているのは、その胴体にカマキリの体が生えていることだった。


 いや、ただのカマキリでもない。細く長い腹部、腕部の巨大な鎌は確かにカマキリのそれであったが――外骨格に覆われているはずの胸部は、むき出しになった乳房の膨らみが人間の女の裸を連想させた。


 そして人間のものとほぼ変わらない形の頭部の中で、人間にはあり得ない巨大な目が昆虫そのものの複眼の格子を見せて輝いている。


 頭から胸までは人間の女、腕と腹部はカマキリ、そしてそれらを下で支えている脚は丸ごと八本脚の蜘蛛という、まさに怪物としかいいようのない姿。


 強引に名付けるとすれば、〈ヒト―蟷螂(カマキリ)―蜘蛛複合体〉というべきその存在。


 いったい、何がどう間違ったらこんな怪物が生まれ出てくるのだ――そんな思いが脳をよぎった瞬間、その警官の意識は永遠に途切れた。


「ひっ……!」


 路上の真ん中で真っ赤な噴水が噴き出す。


 首から上を綺麗さっぱり失った体がどうと地面に倒れ伏し、空高く跳ね飛ばされたものが側に落ちてきたのを見て、残された警官たちの戦意が音を立てて崩れた。


 ケタケタケタ、と人間の女の形をした怪物の頭部が、笑った。


 皮肉とも思えるくらいに美しい人間の姿をしているだけ、それはおぞましい笑いだった。


 そして――まだ十数人は自分の足で立てている警官隊の士気を完全に崩壊させたのは、そんな怪物が四体も目の前にいるという事実だった。


「て――撤退! 撤退しろ!!」


 青いヘルメットに白い線を二つ巻いた前線指揮官が、口の中にたまっていた唾と一緒に命令を吐き出す。


「撤退って……撤退したらどうなるんです! 奴等の思うままじゃないですか! 誰があいつらを止めるんですか!?」

「どうせ俺たちが全滅したらその後で奴等の思うままだ! そんなに死にたいか!」

「死、死にたくはないですけど……!」

「俺が責任を取る! 全員下がれ!」


 その命令を合図にし、隊員たちが算を乱して怪物たちに背中を見せて逃げ出し始め――同時に、さらなる一方的な狩りが始まった。 


 * * * * *


「伝令……伝令!」


 厚い防護服に身を固めた隊員が息を切らしながら数百メートルの距離を全力疾走し、マンションの駐車場の一角に止められた大型バンに飛び込んで敬礼も省略してまくし立てた。


「け……警部! 我々の装備ではあいつを倒せません! ライフル弾ではやつの体を貫通できないんです!」


 前線指揮をとるための移動指揮車として改造された車内では、クトゥルフ出現の報を受けて出動してきた〈対クトゥルフ特殊部隊〉の指揮官が三人、全く埒があきそうにない状況にそのストレスを加速度的に増やしていた。


 警部と呼ばれたこの場での最高指揮官が、息も絶え絶えになりながら次の声を絞り出そうとする伝令の隊員に先ほどからずっと剥かれている大きな目を向ける。


「死傷者が続出しています! このままでは隊が全滅してしまいます!」

「警部、これ以上は前線はもちません……」


 外の仮設テントの下に寝かされた負傷者の数を思い出しながら、その補佐役の警部補はこの上官の感情の地雷を踏むまいと慎重に言葉を選ぶ。


「ここは、軍の出動要請を上申して下さい」

「寝惚けたことをいうな!」


 その補佐の言葉に、上級指揮官である警部の目が危険な角度に吊り上がった。


「我々の隊が組織された意義を忘れたのか! 軍に出張らせないために、軍隊なみの装備と訓練でこの部隊を作り上げたんだ! その我々が早々に音を上げてどうする! それなら最初から軍に任せておけということになるだろうが!」


 無論、その指揮官も補佐の発言の正当性は理解していた。しかし――立場上からいえることといえないことがある。


「増援を要請する! なんとか前線を支えろ!」


 もうこの時点でその支えるべき前線が崩壊しかかっていることを指揮所は知らない。


 ワームナノマシンの電波妨害で無線が使えず、伝令が走らなければならない状況では無理のないことだ。


「しかし、対クトゥルフ装備を施された部隊はこの周辺では今ここにいるのが全てで……」


 補佐役の指揮官が口にした言葉を、完全に血が頭に上っている上級指揮官が遮る。


「対テロ特殊部隊は待機している! 出動を要請しろ! ありったけの銃器を持ってこいと!」

「狙撃銃や短機関銃でなにができるっていうんです! 警察の火力じゃ奴等には通じませんよ!」

「じゃあ、他に方法があるのか!? 撤退など許さんぞ……あのクトゥルフを我々がどうにかするかしかないんだからな!」


 上級指揮官の言葉を受けても、補佐官はその命令を伝えるために有線電話の受話器を持ち上げることはできなかった。


 命令を伝えたが最後、犠牲者を無用に増やす展開しか考えられなかったからだ。そしてその一因に自分が絡むことには強烈な抵抗があった。


 上級指揮官は上級指揮官で、無茶とわかっている自分の命令をそれ以上無理押しするには気力が欠けていた。


 今この状況が絶望的な結末しか迎えないのではないかという認識では、この場にいる全員が一致していたのか知れない。


 奇妙な緊張の均衡が張り詰めて――それは、外部からの一撃によって破壊されていた。


「失礼、どうもお困りのようですが」


 バンの入口から聞こえてきた聞き覚えのないその声に、その場の全員の注目が向けられた。


 どう見ても警察の装備ではない迷彩の戦闘服に身を包み、大ぶりなサングラスを目に嵌めた男がそこに立っていた。


「誰だぁ、貴様ぁ!」

「ゼファート陸軍特殊戦術部所属、クレイ・ランチェスター大尉」


 身分証を突き出してクレイは名乗る。明らかに歓迎されていない空気が車内に充満しているのを感じて、挨拶から敬意は省略されていた。


「特殊戦術部……フェイリス運用部隊か。お人形遊びがご専門の部隊だな」

「これはいきなりのご挨拶で」


 いい顔はされないとは思ってはいたが、想像以上の先制パンチを食らってクレイは怒りを通り越して逆に笑ってしまっていた。


「これは警察の管轄だぞ! 軍の出てくる幕じゃあない! 貴様いったい誰にいわれてここにきた!」

「たまたま訓練のために近くにいたから緊急対処に協力するんだ。軍・警察協力要綱の第五条第二項適用ってやつだ」

「それは……」


 一応は法的な根拠を持ち出されて、幹部連中が黙り込む。


 どうせ対等な立場で交渉しようとしても、この頭の固い番犬どもは素直に納得するはずがない――そう考えてクレイは早々に折れてやることにした。元々体面に対する意識も薄いのだ。


「あんたらの指揮下に収まってやる。偶然だがこちらはクトゥルフに対抗できるだけの戦力は用意できてる。こっちからあんたらに指示を出すことは一切ない」

「む……」

「苦労するのは俺たち、手柄はそっち。なにか文句があるか」


 その苦労の大半は俺じゃないんだけどな、とはいわなかった。それはこちらの問題だった。


「……その言葉に嘘はないんだろうな!」

「どうせ俺の発言も録音してるんだろう。詐欺に遭ったと思ったら訴えてくれ。あんたらの指揮下に入って勝手にやるぞ」


 返事がないのを了解と受け取り、クレイは身を翻してそのバンから離れた。


 さほど離れていない場所に駐められている自分の指揮車に乗り込む。


「おかえり」


 運転席で待っていたミッチェル・レバートが、この状況におおよそ似合わない明るい声で迎えくれた。


 指揮車といってもクレイを乗せるのだけが目的の小さなミニバンだ。作戦図を広げる台さえない普通の乗用車に過ぎない。


「話は付けてきた。向こうも上に対する体裁があるから面倒だ……素直に頼ればいいのに」

「みんなどうすればいちばんいいのか、頭ではわかっていてもねぇ。いやあ、宮仕えってつらいなぁ」

「宮仕えは俺たちも同じだろう」

「ヴァネット女史に叱られるのはクトゥルフより怖いね」


 他人事のようにいうその言葉も、ミッチェルの口から出れば可笑しいものに聞こえてしまう。


「まったくだ」


 わずかに肩を震わせて笑いに返ると、クレイはコンソールにかけられたマイクを手にして送信ボタンをオンにした。


「じゃあ、これからそのいちばんいいことをするぞ……(のぞみ )、聞こえるか!」


 * * * * *


 凄惨な殺戮劇は終幕を迎えようとしていた。


 同僚たちが一人も立っていない凄惨な現場で、最後に息をしていたその若い隊員は今、怪物に拘束され、自分の身長を軽く超える高さにその体を高く吊り上げられていた。


「ぐぅぅ……うう……」


 逃げようとした際に背中を突き飛ばされ、ヘルメット越しに地面に強打された頭が脳しんとうを起こしてもうほとんど思考が働かない。


 自分が怪物の腕に――巨大な鎌に挟まれていることはわかるのだが、脳にその恐ろしさが染みこんでこない。自分がもう何秒後には殺されるだろうという事実も、どこか他人事のようにしか考えられず、ただ目の前の怪物を眺めることしかできなかった。


 その異様に膨らんだ複眼とこめかみから伸びる触角以外は、ほとんど人間の女そっくりの顔が面白そうにこちらをのぞき込んでくる。


 取りあえずは最後になったこの獲物をどういう方法で殺そうか、四方を取り囲んだ仲間たちと相談しているようにも見えた。


 その薄い唇と尖った顎の形が恋人のものにそっくりなのを、ぼやけた思考の中で不思議なものとして感じていた。


 何人の同僚がやられたかは、道端いっぱいに倒れている死体を数えることでは正確にはわからない。手足や胴体が切り離されていない死体は一つもなかった。中には手足の一本もついていないものさえあった。


 自分も次の瞬間にはその仲間入りをするのだろうか?


「キキキキキ……」


 やたらエロチックな薄い唇が目の前で本当に嬉しそうに笑う。自分を始末する方法が決まったのだな、と遠い国のニュースを見るような心境でその事実を素直に受け入れている。


 隊員を抱える腕が勢いよく下がり、次の瞬間にはそれに数倍する速度で上に振り上げられた。


 脳に血が押し上げられ、次にはそれが一気に爪先までガッと下がる衝撃に人間が耐えられるはずもなく、若い隊員は文字通りの一瞬で気絶した。


 その体は十五階建てのマンションの屋上の高さまで一秒と経たず到達し――空中でのほんのわずかな瞬間、停止した。


 後は重力に引かれて落下に転じ、地面に叩きつけられて死ぬまでの数秒の命。


 自分の命のカウントダウンが刻まれていることも知らずに意識を失った隊員には、彼方から響いてくるその音は聞こえなかったろう。


 空を蹴り、風を切って走るその馬蹄の響きを。


 魂を貫く高周波のいななきを。


「――っ!」


 上昇するエネルギーを使い果たして今まさに落下に転じようとしていたその若い隊員の体を、スレイプニールにまたがった(のぞみ)が右腕の全部で抱え込んでいた。


 重装備の大人一人を片腕で抱え込むには腕の長さが十分ではなかったが、フェイリスの力はそんな少々の無理などものともしない。


「間に合ったぁっ!」


 スペクトルスラスターが噴き上げる飛行機雲に似たオーロラの破片を輝かせ、スレイプニールがマンションの屋上に着地する。


 気絶した隊員をやや乱暴に転がすようにしてそこに寝かせ、望は再びスレイプニールを加速させて屋上フェンスを突き破らせた。


「――――!!」


 宙に躍り出たスレイプニールの上から、望は見ていた。


 二車線道路に広がる、人、人、人――いや、どれもまともな人の形は保っていない。明らかに面白がって解体したとしか思えないくらいにバラバラにばらまかれた無数の人体のパーツ。


 数は……二十人を超えるだろうか? 黒いアスファルトが鮮血で塗装されて、黒と赤の比率が逆転しそうになっていた。


「こ……こ、こ……」


 今までに見たことのない凄惨な光景に、望の心が瞬間、凍結する。


 火龍がもたらした人的被害はこれを遙かに超えるものではあったが、それを超えるインパクトが目の前の惨状にはあった。


 許せないと素直に心が吠え――そして烈火の怒りに燃えた。


「こいつらぁぁぁっ!」


 スレイプニールが着地する衝撃に耐え、望は進行方向の直線上にいるクトゥルフに向かって機体を突進させた。


 怒りに任せてまっすぐに突っ込んでくる電装の少女騎士に対して、四体のクトゥルフの集団はただ手をこまねいているわけではなかった。


「っ!?」


 望がターゲットと定めた〈ヒト―蟷螂(カマキリ)―蜘蛛複合体〉がやや身を掲げたと思った時には、空高く跳ね上がっていた。


「速いっ!?」


 一秒前までそのクトゥルフがいた空間をスレイプニールが駆け抜ける。おそらくは一トン近くはある巨体を持つ生物の動きと思えない敏捷性。

 躱されたと理解した瞬間にはほとんど横倒しに近い角度にまで倒され、前輪をロックし後輪を大きく滑らせたスレイプニールがアスファルトの地面を削りながら横方向に流れて制動する。

 惰性で流れる機体が停止し加速に転じる一瞬を狙って、三体のクトゥルフがその口から白い筋を吐き出した。


「うわぁっ!?」


 速度がゼロになった文字通りの瞬間を狙われ、三体の口から吐かれた筋――白く光る糸で編まれた帯が望の首と両腕に巻き付く。間髪を入れず引き寄せられた力にあらがえず、望はそのままスレイプニールから引き剥がされて地面に叩きつけられていた。


「なんでカマキリが口から蜘蛛の糸を吐くのよ! っていうか、頭はほとんど人間じゃない!」

『それがクトゥルフだ、諦めろ』


 冷静かつ、なんの参考にもならない声が耳元から伝わってくる。とはいえ、音声のみではあるが通信が成立する状況はありがたい。


『望、状況を伝えろ。こっちからは建物が邪魔で視認できない』

「クトゥルフ三体に両手と首に糸かなんかを巻き付けられて、スレイプニールから剥がされた! 引っ張られて地面を滑ってる!」

『……いきなりピンチかよ!』

『望ちゃん!』


 ミッチェルの声がクレイに替わる。何か有望なアドバイスでも聞けるのかと望の心は微かに明るくなった。

 が、


『がんばって!』

「それだけ!?」


 スペクトルスラスターを短く噴射する。地面に倒された体を起き上がらせ、なんとか二本の脚で道路に立った。


「なんかメカ担当として、技術的にどうとかこうとかないの!?」

『…………技術的にがんばって!』

「頼りにならないなぁもう!」


 もう大人に頼るのは諦め、自分でなんとかするしかないと望は決意した。

 三体のクトゥルフに三本の帯に絡め取られて引き寄せられるのに対抗しようと、右の足を振り上げる。い装甲のブーツの底から鋭いクロースパイクが展開し、次の瞬間にはそれがアスファルトの道路に突き刺さる。間髪入れず左の足も同様にクローを打ち込んだ。

 自分自身を強固な杭にして、望は腕ごと上半身を全力で仰け反らせる。

 俊足で走っていたはずの三体のクトゥルフが、自分たちが引いていた帯に引っ張られてつんのめった。前進が完全に停止した。

 更に右腕を引く。引いた分クトゥルフがたぐり寄せられてこちらに近づく。次は左腕。同じだ。望がたぐり寄せる分、確実に怪物たちがこちらに近づいた。


「こんな奴ら……大したこと、ないよね!」


 三体の巨大な怪物よりも一人の少女――フェイリスの方が明らかにパワーが上なのだ。

 今までこの状況を楽しんでいる風さえあったクトゥルフたちの表情に緊張が走る。

 両腕と首に巻き付いたこの白い帯をどう払おうか――望が考えるよりも前に、クトゥルフたちは戦法を変えていた。


「えっ!?」


 二体のクトゥルフか望を中心にして半円を描くように動いた。ちょうどYの字を取るように三方から望を取り囲む位置に移動し、そしてその三方から望を引き寄せて来たのだ。

 手首に帯が絡まった両腕が両側から引っ張られる。左右の腕がいっぱいに広げさせられた上にさらに力がかけられて、両肩にすさまじい荷重がかかってきた。


「くっ……このぉっ!」


 三方からの力が釣り合い、望はその中心で動けなくなった。


 いや、移動はできる。できるが、望が移動したのに合わせてクトゥルフも同じ分だけ移動すれば状況は変わらないのだ。


『望! どうした!』

「三方向から引っ張られて動けない! どうすればいい……あっ!」


 望の正面から四体目――スレイプニールの突進をジャンプで躱したクトゥルフが猛スピードで接近してくる。八本の足でアスファルトを削るようにしながら向かってくるその様に望の心が恐怖に冷えた。


 その振り上げられた鎌が相手の間合いに入った時にどう動くかは、考えないでもわかる。


「四体目が前から来る! 鎌で斬られる! 避けられない!」

『直前でスペクトルスラスターを全開にしろ!』


 まさにその直前のタイミングで飛び込んできたアドバイスに、望は反射的に従っていた。


 バックパックのスペクトルスラスターに全部の出力を回す。


 一瞬で形成された斥力フィールドが望の周囲にあるものを吹き飛ばし、その作用は今まさにその鎌を振り落とそうとしたクトゥルフにも働いていた。


「っ!」


 突進の軌道を狂わされたクトゥルフが叩き込んだ斬撃は望の脳天を正確に――捉えられず、身を大きくよじった望の脇をすり抜け、ピンと張られた帯の一本を切断していた。


 望の右腕が解放される。間髪を入れず、必殺の一撃を躱されたことに動揺したクトゥルフの腹に右の鉄拳が叩き込まれた。


「ググゥゥ!」


 クトゥルフの口から、女のものとも怪物のものともつかない悲鳴が絞り出される。


 外骨格を砕いた拳の一撃がクトゥルフの腹にめり込んでその巨体を吹き飛ばす――いや、クトゥルフは自分で後方に飛んでそのダメージをいくらかは受け流すことに成功していた。


 腕を振るうモーションが少なかった分打撃のエネルギーも少なく、一撃必殺のはずのパンチも本来の威力を発揮してはいなかった。


『望ちゃん! 右手で手刀を作って力を集中させるんだ!』


 ミッチェルの指示に考えるよりも早く、望の右手の指が手の平がまっすぐに伸ばされた。全身の力の流れをイメージして、その緊張で張り詰めきった手刀に流れ込ませるように誘導する。


 手を覆うアルケミウム鋼製の装甲が青白い発光に包まれ、同時にその鉄拳を覆うように高熱のフィールドが形成された。


「てぇっ!」


 首に巻き付いている白い帯にその手刀を叩き込むと、装甲が物理的に衝突するまでもなく高熱のフィールドが鋼のような繊維で編まれた帯を簡単に切断していた。返す刀で左腕に絡んでいるものも切り落とす。


 全力で望を引き寄せようと力をかけていたクトゥルフたちが、揃って後に転倒した。


「役に立った!」

『名付けてヒートスラッシュだ! 望ちゃん!』

『名前をつけるなら俺に話を通せ!』


 スピーカーの向こうの言い争いを無視して望は身構える。


 刀に擬した右腕を水平に構え、どの目標から叩くべきかと状況を探ろうとした望の前で、体勢を立て直した四体のクトゥルフたちは意外な行動に出た。


「えっ!?」


 四体が示し合わせたように身を翻し、同じ方向に向かって走り出したのだ。虚を突かれた望は瞬時に対応できず。その間隙を利用してクトゥルフたちは瞬く間に遠ざかっていく。


 あまりに統制が取れたその行動に、それが逃走であると望が理解するのに数秒の時を要した。


「……逃がさない!」


 地を蹴って舞い上がり、二階建ての家屋を飛び越えられる高さでスペクトルスラスターを稼働させる。斥力フィールドの展開が前方への推進力となって、電装の少女騎士に空を駆けさせた。


「クレイ! 逃げたクトゥルフたちを追うから!」


 クレイの手元の端末に表示された周辺地図の真ん中に望の位置を示す光点が表示され、それを中央にして全体の地図がスクロールする。


 そのスクロールされる方向にあるものを認めて、クレイは顔の右半分を歪ませた。


「この方向は、解体されずに放置されたマンション群がある方向だな……」

「ああ、フォレストシティマンションズとかいう」


 十棟もの巨大マンションで構成された高級団地。老朽化のため数年前に建て替え工事が計画されて住民は全て退去したが、解体費を捻出できなかったとかでそのまま放置された高層住宅地だ。


 フォレストの名が示す通り、建物以外の敷地には森を作るように無数の木が植えられていたが、今ではそれを世話するものもおらず枝も葉も広がるに任せているはずだった。


「そこに誘い込まれている感じがするな……」

「望ちゃんが? 罠ってことかい?」

「多分、奴等は何か企んでいる。望をスレイプニールから引き剥がしたのもその一環だろう」

「じゃあ、そのことを望ちゃんに教えないと――」

「いや」


 無線機のマイクの送信スイッチを押そうとしたミッチェルを、クレイが制した。


「教えなくていい。いや、教えない方がいい」

「どうしてだ? 望ちゃんが危ないんじゃないのかい?」

「危ない目に遭う必要があるんだ」


 その言葉の意図を理解できず、目を瞬かせたミッチェルにクレイが続けた。


「今、考えなしに追撃しているあいつに危ない目に遭ってもらわないとあいつは学ばない。ここに罠があると教えて回避しても、あいつの体には刻まれない……次も俺が教えるだろうという期待さえ持ちかねないだろう」

「でも、それは罠にかかるっていうことだろう?」

「罠にかかれるうちにあっておかないと、取り返しのつかないことになる!」


 語気を荒げた自分を恥じるようにクレイは口に手をやっていた。言葉を整理するように咳払いをする。


「……まともな戦闘訓練を受けずに実戦に放り込まれているんだ。実戦で学ぶしかない……取り返しのつくうちに。次に遭遇する相手がどれだけの強さか想像もできないんだ」

「……厳しいねぇ。望ちゃんが知ったらさぞかし恨むかも知れないよ?」

「あいつが死なないでいいのなら、喜んで恨まれるさ。そういう商売だからな」

「……そういう商売か。嫌な商売だねぇ」

「俺もそう思うよ」


 ダッシュボードに肘をつき、組んだ拳に顎を乗せてクレイは次に送ってくるだろう望の通信を待った。多分、悲鳴に彩られた声が聞こえてくるだろう――そう予感しながら。


 * * * * *


 一方、ユーラスト市第十三高等学校。

 体育館地下の緊急用シェルターには六百人の生徒と数十人の学校関係者が詰め込まれ、肩をぶつけないことには移動することもままならないほどの人口密度が形成されていた。


 天井が高く空調設備が正常に稼働しているので窒息の危険は今のところなかったが、そうでなければ避難している人間の息と体温で蒸し風呂状態になっていただろう。


 必要最低限にまで落とされた照明下では、話し相手の顔を確認することはできたが、それより遠い人間の顔を判別するのは困難を要した。



 シェルターといっても長期の滞在は想定されていない。元々空襲時に緊急的に利用することを想定して作られたものだ。


 日常では校舎が分けられている男子部の生徒たちもこのシェルターに入れられ、通常では交流する機会がない異性同士の接触で浮かれているものもかなりいたが――出現したというクトゥルフの情報が全く入ってこないという不安の方がそれに勝った。


 そして、その不安の上にもう一つ、重大な不安を抱えている四人のグループがいた。


「望、いた?」


 約束していた数分後の集合。シェルターの隅に再び集まった仲間たちにクリスは尋ねていた。


「見当たらないわね」

「ええ、どこにもお姿が見えません」

「……いない」

「ええ……」


 シルヴィー、リューネ、ミオたち三人の報告にクリスの顔色が曇る。先に避難したという望の姿が……このシェルターにはない。


「どうしたのかしら……」

「結構一生懸命探したんだけどね」

「赤い眼鏡をかけている方とか目立ちますし、見落としている可能性は低いと思います」

「……浮きまくり」

「だよね……私もすぐに見つかると思っていたんだけど……」


 心臓がキュッと縮み鼓動が速くなる感覚にクリスは焦った。ここにいないということは、外のどこかにいるということで――。


「どこにいるの、望……」


 不安がかき立てられる。ちゃんと安全な場所にいるのか。それとも逃げる途中で何かあったのか。


 慣れていない校舎の中で迷ったという可能性だって十分にある。もしかしたら途中で怪我をして動けなくなっているのではないか――。


 無数の嫌な想像が胸の裏側からクリスの皮膚を這い上がってきて、それに耐えきれずにクリスは一つの決断を下していた。


「私、探してくるわ」


 その短い言葉にシルヴィーがリューネが、そしてさすがのミオもその目を大きく見開いていた。


「ちょ――ちょっと、外に出るの!? 無茶すぎるんじゃない!?」

「そうですよ……先生方も許可されるはずがありませんわ」

「……危険」

「危ないのは望でしょ!」


 思わず出た大きな声に三人が怯んだのを見て、クリスは声の調子を落とした。


「危ないのはわかってる……でも気になって仕方ないの。みんな、ゴメン」


 三人に向かって頭を下げ、クリスは踵を返していた。肩の上でミディアムボブに揃えられた髪が踊った。


「シルヴィー、後は任せるわね!」

「クリス! 待ちなさいってば!」


 その声を振り切り、クリスはシェルターの入口に向かって駆け出していた。扉の脇にいた教師が注意を他に向けていた隙を突いてシェルターから飛び出している。


 地上に出る階段を駆け上がる。胸の中で膨らむ一方の不安感の正体を把握しきれず――何故ここまで望の存在が自分の心に干渉してくるのかさえもクリスはわからないでいる。


 わからないが、その不安を鎮める方法だけはわかっていた。


「――望、いったいどこにいるの……」

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