#04「出撃シークエンスのマーチ」
全校放送で流された〈クトゥルフ〉出現の報は一年F組を――いや、ユーラスト第十三高校全体をパニックの渦に叩き込んだ。
全員の頭の中に八日前の惨状のビジョンが蘇る。崩れるビル、燃える街角、逃げ惑う人々の悲鳴の渦――。
それが十日もしない短い時間で人々の頭から消え去るなどということがあるはずもなく、クトゥルフという単語を聞いただけで泣き喚く生徒が出るのも希ではない。
教室が、校舎の全部が人々のざわめく声で揺れ、教師の誘導を待たずに生徒が廊下に飛び出し、それが堰を切る合図となって制御の利かない人の流れの洪水が始まった。
統率など最初の放送だけで吹っ飛んだ他のクラスに比べれば、まだ一年F組は十分冷静な部類に入るだろう。取りあえず廊下に飛び出そうとする生徒がいないだけでも上出来だったかも知れない。
「ク……ク、ク、クレイ先生!」
恐怖に顔を歪めたマリーの突進をクレイは回避することができず、その両手を奪われるようにつかまれていた。
「クトゥルフですって……! わ、私、いったいどうすれば……」
「マリー先生、まずは落ち着いて」
クレイはマリーの手をほどこうとするがなかなかほどけない。恐怖に力のストッパーが弾け飛んだのか、細い指のどこにそんな力があるのかと思えるくらいの強さでクレイの手は締め上げられていた。
「え……え、ええ……」
生徒たちが比較的落ち着けていたのは、主担任が率先してパニクっていたからに違いない。誰かが真っ先にパニックを起こしていると周りは冷静になるものだ。
「深呼吸して、ゆっくり息を整えて下さい」
「ああ……クレイ先生……お願いします、背中をさすって下さい……」
クレイはなるべく当たり障りなくマリーを諭そうと言葉を探した。
一刻も早くこの場を離れなければならない。
「私は校長の補佐に回ります。有事の際は校長の側につくようにいわれていますので」
「い、行ってしまうんですか?」
私を置いて? とマリーが言葉を継がなかったのは教師としての最後の良心だったかも知れない。
「すぐ生徒たちをシェルターに誘導して下さい。後は頼みます」
勢いよくマリーの手を振り解くと、有無をいう間も与えず身を翻してクレイは廊下に飛び出していた。
そのクレイを追おうとマリーの足が駆け出しかけるが、目の前で勢いよく閉まったドアの前にそれは止まった。
「そんな……クレイ先生……」
教師として一人残されたマリーは異様なほどの心細さにその場で涙ぐみ始めてしまう。その思考の片隅では、校長を恨むという今まで想像すらしなかった感情が根を広げ芽を開きだしていた。
余計な感情にまごついて無為な時間を消費しているようにしか見えなかったそのマリーに、クリスが稲妻のような声を落としている。
「先生! 早く避難の指示を!」
「あ……そ、そうね! ……みなさん直ちに教室から出て避難しましょう! 班単位で逃げ遅れる人が出ないように……」
最後のマリーの言葉は、八割以上の生徒が聞いていなかった。
この教室から出てもいいという言葉が出た時点で、生徒たちの半分以上がドアに文字通り殺到する。生徒たちを先導するというよりその流れにほとんど巻き込まれて、自分で脚を使うことなくマリーは教室の外に放り出されていた。
結果、いちばん冷静だったクリスたちの班が最後に取り残された形になった。
「私たちの班も避難を開始するわ。みんな、はぐれないように気をつけて」
「はい、はぐれないようにいたします……けれど……」
「けれど?」
こんな事態でも完全に冷静を保っているリューネは、そのか細い見た目の割に豪胆なのだろうか。
リューネの発言の意図を読み切れなかったクリスの反応を受けて、こちらもパニックとは縁遠いのか相変わらずの無表情のミオがレシーブに回る。
「……もうはぐれている場合は、どうするの?」
「もうはぐれているって……」
はっ、と気づく。そういえば……。
「――望は?」
クリスは自分の周囲を見回すが、今さっき、ほんの数十秒前にいた少女の姿がなかった。
「望ならとっくに慌てて出て行っちゃったけど」
「えっ……一人で!?」
シルヴィーが教室の扉を指差すが、もうそこに望の姿があるはずもない。
できたばかりの班で集団意識を持てというのも酷だったかも知れないが、自らはぐれて行動するその軽率さにクリスは憤った。
「あの子ったら……!」
「先に逃げたのならいいじゃない。あたしたちもまごまごしてられないよ」
「そう……そうね。アルクリットは……」
念のためにとクリスはアルクリットの姿を教室の中に求めるが、席にも教室のどこにも見つからなかった。
「あの子もとっくに姿が消えてたし、真っ先に逃げたのと違うかな?」
「あの子くらいになれば心配することはないと思うけど……」
あれだけの元気と威勢、体格があるのならこの教室の生徒の中でいちばん生存する可能性が高い少女だろう。手を差し伸べなくても大丈夫だと思えた。
それより問題は……。
「クリス!」
「ええ、わかってるわ。シルヴィー! リューネ、ミオ! 今から避難するわ。私にはぐれないでついてきて!」
檄を飛ばすようにクリスは声を張り上げていた。今は避難に集中しなければならない、そう思いつつも懸念は頭から剥がれない。
「望のバカ……なんで勝手に行っちゃうのよ……!」
* * * * *
望が勝手に教室を飛び出したのには理由があった。
無論、それは避難のためではない。
廊下を濁流のように押し寄せては流れる人の波。喚き声と怒声と悲鳴がぐっちゃぐちゃになって響き渡り、要所要所で避難誘導をしている教師たちの声を完全にかき消していた。
一人が転倒すれば波の最後が去るまで背中を踏まれかねない、統制もへったくれもなにもないただ混乱だけの避難だった。
最初は人の流れに逆らわないように走っていた望だったが、緊急用シェルターが設置されている体育館の方には向かわず、途中巧妙に人の流れの中から抜け出して、校舎の中でも人気のない区域に入り込んでいた。
もう使用する目的のなくなった廃教室、物置と化している部屋――そんな部屋が集まった区域の奥まった角地に、『使用禁止』と張り紙が貼られた消火栓の大きな扉があった。
振り返って人気がないことを確認し――その消火栓の扉に近づいて右腕手首を軽く当てる。
手首に嵌められた無地の白く細いブレスレットがカツンと扉に触れると、イタズラを防止するために鍵がかけられていたはずの扉が、ほとんどなんの抵抗もなくあっさりと開いた。
開いたその扉の中には、消火設備などはなかった。あるはずのまとめられたホースや放水口もない。ただ、人一人が潜り込めるくらいの小さな穴があっただけだ。
一瞬のためらいもなく、望がその中に飛び込む。
少女一人をあっさりと飲み込んだ消火栓もどきの扉はそのまま自動で閉ざされ――そして、誰にも開けられないように厳重な鍵が勝手にかかった。
* * * * *
ほんの三十秒間のうちに、望の中で世界は百回は回転した。
いや、実際にそんなに回転したかは自分では把握できない。ただ真っ暗な闇の中で、自分の丸くなった体がボールのように面白いくらい転がり落ちているだろうというのがわかっただけだ。
斜めにきつい角度が付けられた幾多のカーブが儲けられた真っ暗闇のトンネルを転がり抜け、オモチャのカプセルが排出されるように望の体が壁の穴から飛び出して――。
「きゃあああああっ!!」
そのまま殺されない勢いのまま部屋の床を転がり、摩擦によってようやく止まった。
「う、うくー……」
まだ自分の中で世界が回転している感覚を振り払えないまま立ち上がって望は、自分の悲惨な姿に気づいて慌てる。
「わぁっ……服とかホコリだらけじゃない! なんでこんなに汚れてるのよぅ……うわ、髪の毛のこのネバネバしたのなぁに……!」
「それは蜘蛛の糸だな。初めて見たか?」
望に遅れること数秒、このフロアにたどり着く正規のルートであるエレベータが開いて、そこからクレイが姿を現す。
「おー……立派な蜘蛛がいたようだな。ほら、お前の頭で綺麗な巣になってるじゃないか」
エレベータ内で着替えたのかそれは今さっきまでの背広姿ではない。緑を基調とした迷彩パターンが施された戦闘服だった。
「そういう問題じゃないの! ミッチェル! あの緊急進入ルート、全然掃除してないんじゃないの!」
「いやー、ゴメンゴメン。掃除する間がなかなかなくてさぁ。でもこれでだいぶ綺麗になったか。いや助かったよ望ちゃん」
椅子に座っていたツナギ姿のやや痩せ気味の男がのっそりと立ち上がる。歳はクレイと同じくらい。愛想のよさが顔の作りに現れているような柔和な印象の男だ。
いかにもメカ屋、といった風情のその男――ユーラスト市第十三高校の地下に設けられた秘密基地の主であり、望を担当する主任整備員。
「あたしは雑巾かホウキじゃないの! うわあ……服もなんか染みになって汚れちゃって……これ洗濯しないとマズいんじゃない! こんな格好で帰ったら絶対怪しまれるよ!」
「着替えは制服も下着も一式で用意してる。心配はいらないぞ」
髪についた糸くずでも落とす感覚で、クレイはそう口にする。
「お前にかかってる予算の中じゃ服代なんて屁みたいなものなんだ」
「あたしがいいたいのはそういうことじゃなくて! ……あーもうっ、もういいっ! 早く出撃しないといけないんでしょ! どうすればいいのか教えてよ!」
「その意気だよ望ちゃん」
今が緊急事態ということを理解しているのかどうかも怪しい口調でミッチェル――ミッチェル・レバートはそうのたまった。
「いやあ今度のフェイリスっ娘ちゃんは元気がよくて面白いなぁ。オレ感激だよ」
「フェイリスっ娘ちゃん……」
今までもらったことのない奇天烈な呼び方に、望のテンションが一気に下がった。
それがちょうどよく肩の力を抜いてくれたのか、望に周囲の様子を見渡せるくらいの余裕を与えてくれる。
「――――」
こんなフロアがあることは聞いていたが、実際に足を踏み入れるのが初めてな望はその全てが珍しく興味深く視線を滑らせた。
全体は教室を横に二つ並べたくらいの広さ、天井は軽く八メートルはあるというその空間。
そこはとても学校の施設とは思えない部屋だった。
天井にはいくつものクレーンレールが据え付けられて、無数のフックのついた太い鎖がぶら下がっているのが見えた。
壁際には素人には何に使うか全く想像のつかない制御盤がぎっしりと並べられ、無数のモニターや点灯を繰り返すパネルが、それぞれの光を発してまるで脈動しているように見えた。
部屋の中央寄りには、いくつもの作業台にジャッキが装備された整備台などが設けられ、ちょっとした自動車修理工場の様相を呈している。
その中で二つ、特に目を引くものがあるといえば、一つはターンテーブルの上に鎮座しているフェイリス用戦闘支援二輪マシン〈スレイプニール〉がそれだろう。
かなりな大型の車体に対しても大きく見える前輪と後輪。バイクというイメージよりは装甲車などの戦闘車両を思わせる直線的で無骨なシルエット。
外宇宙金属アルケミウムの装甲を施された真っ白なボディを輝かせて、眠りが覚まされるのをただ無言で待っているように見えた。
そして、残りのもう一つ。
これも純白の大理石を思わせる外装をした物体だが、マシンではない。形状は単純でほぼ直方体に近い物体だ。
それがなんと呼ばれているか――初めてその名を聞いた時のインパクトが忘れられず、二度とその名は忘れることはないと望は思った。
「――〈棺〉……か……」
〈棺〉と呼ばれる――それは俗称に過ぎないのだが――その機器。いや、実際に人の遺体が納められる棺桶よりは一回りは大きかった。
長さは二メートル半弱、幅は一メートルと少し。
横に並べば望くらいなら二人は楽に入れるだろうが、この〈棺〉――〈ドレッサー〉と呼ばれる機器は厳然として一人専用の機器だった。
望の目の前でドレッサーの上蓋がオートで競り上がり、望に入れと促すように縦方向に開いていく。
「あ、望ちゃん、それに入る時は気をつけて。前に注意したよね」
「あ……えっと、確か」
ドレッサーのステップに足をかけようと身を乗り出した望が、ミッチェルの指摘を受けて動きを止めた。
「セカンドスキンを装着する時は、肌着や下着より厚いものを身につけてはならない……だっけ」
理想としては何も着けていないのが最も好ましいのだが、なかなか難しい場合があるだろう。
望はその場で靴を脱ぎ捨て、一気にスカートを下ろしてジャケットを脱ぎ捨てる。
お下げをくくっていたゴム紐を解くと、背中を覆うように黒い髪が広がった。
薄手のブラウスも着たままなのはマズいだろう。袖のボタンを外して首から下までのボタンももどかしい気持ちを抱えながら一つずつ外していく。
そのブラウスを脱ごうと前の全部を開き――開いたままふと横を見ると、仲良く並んでこちらを眺めているクレイとミッチェルと視線が交錯した。
「見るなぁぁぁっ!」
靴やスカートにジャケットと、脱いだものを全てぶつけられてクレイとミッチェルが逃げ出す。
「女の子が服を脱いでるんだからっ! 向こうくらい向いててよ!」
本気で投げつけられた靴の直撃をそれぞれ頭に受けながらドレッサーの陰に隠れた二人は、望の憤る声を聞きながら声を落としてひそひそと囁きあった。
「――いやぁ、おたくのフェイリスちゃんはなかなかいい情緒反応示しますなぁ」
「自分自身でパンツ穿かせる所までが大変なんだよ……毎回毎回、な。そこをクリアすれば後は楽なんだが……」
「……ふんっ!」
耳の先まで真っ赤にさせて下着姿になった望がドレッサーのステップを駆け上がり、蓋が開いたその中に背中から文字通り飛び込んだ。
ドレッサーの底面からそれこそ無数に伸びている軟質性のアームが少女の体を受け止め、その体をまっすぐな仰向けの姿勢に誘導する。
「そうそう、一つ忘れてるぞ」
「だからどうしてのぞき込んでくるのっ!」
ドレッサーに収まった望を見下ろすように、ひょっこりとクレイが顔を見せる。
「眼鏡、外してないだろ」
「……もうっ!」
投げつけられた眼鏡を器用に受け取ったクレイがステップから下りると同時に、細いシリンダーに支えられたドレッサーの蓋も下りてくる。
蓋が閉まった瞬間、狭い閉所となったドレッサーの中が全くの闇になるが次の瞬間にはほのかに明るく青白い照明がラインを作るように点灯した。
前にここへ入れられた時よりは緊張を感じなくなっている。今回は二回目なのだ。一回目の時は、本当に何から何まで混乱と焦燥の中にあって――。
「なんでこうみんな気を遣ってくれないのかなぁ……!」
『――望、心配するな』
スピーカーを通じて聞こえてきたクレイの言葉が望の心に火を付けた。
『俺は〈擂り鉢〉でお前の裸なんか散々見慣れているから、今更恥ずかしがることもないぞ』
「覚えてなさいよっっ!!」
心底の本気、本音の全部をぶつけるように望は吠えた。
「クトゥルフをやっつけたら、次はクレイをやっつけるからね!」
『期待してる』
ギリギリギリと音を立てて歯を食いしばった望の体に向けて、ドレッサー内部の至る所に設けられた噴霧口から青い気体が勢いよく噴出された。
望の足の爪先から吹きかけられたそれは黒いニーソックスを履いていたはずの望の足を瞬く間に青く染め上げ、ほんの数秒で腰、腹、胸や肩までを同じく濃い青一色にして首の半分までを染め上げて止まる。
極めて薄く伸縮自在でありながら耐熱・耐圧・耐衝撃に抜群の性能を示すセカンドスキンに、望の頭部以外の皮膚が覆われた。
それが終わるや否や、今度は望の体を無数の――それぞれが小指の爪にも満たないほどの鱗に似たものが群がるように覆った。望の体があっという間に粗い粒子の砂嵐に包まれ、そして――変貌が始まった。
望の足の全部を覆った銀の鱗の群れがその大きさを収縮させたかと思うと、それは足の――望の足を覆う装甲に変化したのだ。
変化は足だけではない。脚を――腰を、胴を、胸や腕を覆っていた無数の銀色の鱗が望の体にまとわり着き、そのひとつひとつが意思あるもののようにうごめいてそれぞれの装甲の形に変化していく。
視界がぼやけたかと錯覚させるほどに望の全身を包むように取り囲んでいた銀の鱗の大群はいつの間にか消え失せ――いや、本当に消えたのではない、それは意味ある形に変わっていた。
ドレッサーの蓋が再び開き、望の体を支えていたアームが全開にまで伸び、横たわっていた望を直立の姿勢に持っていく。
ベッドになっていたアームが再び収納された後には、銀色の甲冑に身を包んだフェイリス――電装の騎士と化した望の姿があった。
数百万個の破片によって構成され、一瞬のうちに組み上げられる現代科学の立体パズル。
斥力による位置・運動エネルギー制御と外宇宙金属アルケミウムという脅威の素材が織りなす、まさに魔術めいた技術。
それが少女の体を覆う銀色の装甲――バージンシェルの正体だった。
「……ふぅっ」
肺の中の空気を全て入れ替えるように大きな息を一つし――望はスレイプニールに目を移した。
軽やかなステップでドレッサーから飛び下り、スレイプニールのハンドルを握ってそのまままたがった。
「望――モードを3から1に移行するぞ、いいな!」
「了解!」
クレイが懐から一つのコントローラーを取り出す。
銃身のない拳銃――銃のグリップとトリガーだけのその機器を右手で握り、上部の硬いダイアルを力いっぱいに回して表示を「3」から「1」に切り替える。
切り替わった表示の数字をもう一度確認しこれも硬い安全装置を外して――クレイは宣言と共にその重いトリガーを引いていた。
「モード1!」
ガチリと硬い音を鳴らしてトリガーが引かれたのと、望の体が発光したのはまさしく同時だった。
望の体を構成している細胞と細胞の隙間から溢れた金色の光がバージンシェルの装甲の隙間から溢れだし、それが二秒と続かず消え行く前に望の体の中で力の律動が開始される。
望の体を内側から支えているアルケミウム鋼のフレームに内蔵された、アインシュタインリアクターが今までの眠りから一瞬で目覚め、フェイリスの常識外れの戦闘力を支えるだけのエネルギーを生み出し供給し始めた。
ヘルメットの後ろからはみ出している黒い髪が発光したと思った瞬間、その色は燃えるようなクリムゾン・レッドに変わっている。
日常生活の中でのフェイリスの暴走を抑止する――その力の発動に固い拘束をかけ、人間と同じくらいの力しか出せなくしているのが〈モード3〉。
指揮者の承認の元にその制限を取り払いフェイリスの力の全てを解放させるのが〈モード1〉。
そして、〈モード|2《ツー〉は……。
「っ!」
重い音が一つ響いてスレイプニールが――いや、スレイプニールを載せている台車がターンテーブルから離れた。
同時に、その先の壁を閉ざしていたシャッターが開いていき、その先へのリフトエレベータへの道を開く。
スレイプニールがリフトエレベータに格納されたと同時に後方でシャッターが閉鎖され、エレベータが上昇を始めた。
『望、聞こえるか』
「聞こえたくなかったけど」
耳元のスピーカーから聞こえてきた声に、唇が尖っているのが見えればいいとばかりに望はできるだけの機嫌の悪い声を作る。
『取りあえず作戦中は機嫌を直せ。文句や不満なら後でたっぷり聞いてやる』
「覚悟してなさいよ……」
『作戦の説明だ。この近傍に出現したクトゥルフは五体らしい』
「五体って!?」
あの火龍が五体揃って街を蹂躙している様を想像して、望はこのエレベータが止まってくれないかと本気で思った。
『慌てるな。あんなデカブツが五体じゃない。サイズは小型――三メートルほどの大きさのクトゥルフだ』
「さ……三メートル……。びっくりしたぁ……でも、それくらいだったら楽勝じゃない。大したことないんでしょ?」
『…………ああ。お前が殴るだけで制圧できる相手だ。だから今回武器は使わない方針で行く』
「武器を使わないって、まるっきり素手でやれってこと!?」
『住宅地だ。近接武器だって危なくて渡せないんだ』
「……本当に素手で倒せるのよね?」
『それは心配するな』
望はクレイのいうことを渋々信じることにする――というより信じる他はなかった。
信じなかったところで、どうせ武器を持たせてくれそうにもなかったからだ。
『小型クトゥルフには現在所轄の警察が対応しているが、警察の装備では歯が立たないらしい。ライフルまで持ち出しているんだが有効打にはならないんだと。というわけで俺たちの出番なんだ』
「殴っても全然効かなかったとか、本当に勘弁してよ……」
火龍の装甲にソードを叩き込んであっさりと跳ね返された時の恐怖は、まだ望の皮膚の裏に残っていた。
『地上に出たら誘導する。まずは外に出ろ』
クレイのその言葉と同時にエレベータリフトが停止し、今度は前方のシャッターが開いてトンネルがその姿を現した。
スレイプニールが二台は併走できないだろうというくらいの幅のトンネルだ。ここからは台車は動くことはないらしい。
右手のアクセルを引いて――その気になれば手放しでも十分運転できるのだが――望はスレイプニールを加速させた。
真っ暗なトンネルを静かに駆けるスレイプニールのライトが照らし出し、緩いカーブをいくつか抜けると目の前で扉のようなものが開き――薄暗い外光が差してくるのが見えた。
扉が閉ざしていたところを抜けると、トンネルは続くのだがむっとした臭気が鼻を差しタイヤが水を蹴散らし出す。
下水道かなにかの支流に出たのだろう。
低く水が張った回廊にスレイプニールは入り、外の光が差してくる方向に向かってタイヤを回転させる。
数秒後には下水道を飛び出し、スレイプニールは両岸をコンクリートで舗装された細い運河に進入した。
機体は左右に水を跳ね飛ばしながらクレイが送ってくる信号の方向に向かってひた走る。
「たった三メートルくらいのクトゥルフが五体? 楽勝じゃない」
自分は四十メートルを超える火龍をたった一人で倒した――その事実が望の胸に見えない勲章となって飾り付けられている。
「さっさと片付けて学校に戻らないと。またクリスに勘ぐられちゃうからなぁ……」
その望の独り言を無線で拾っていたクレイはミッチェルと共に地上に出ていた。
高校の裏手に面している休眠状態の工場――もちろんその正体は軍の施設である――の駐車場から一両のバンが走り出す。
「望ちゃん、あんなこといってるよ」
「ああ……」
「実際のところ、どうなの?」
ハンドルを握るミッチェルの横で顔を曇らせ、クレイは手持ちの端末に刻一刻と送られている情報の山に目を落としていた。
頭の左半分で必要な情報不必要な情報と分けては読み分けては読みする中で、反対の右半分は全く別のことを考えていた。
「今回の戦いは……多分、前回よりずっと苦戦するだろうな」




