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少女が愛した千の恋と万の嘘 -電装騎士フェイリス-  作者: 更科悠乃
第2話「クラスメートと秘密基地」
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#02「茶番と猿芝居」

「エジェット先生!」


 廊下にハイヒールの音をリズムも小気味よく響かせ、自分の受け持ちクラスである一年F組に向かっていたマリー・エジェットは、背中から投げられてきたその声に立ち止まった。


 タイトスカートの中で窮屈そうに左右に揺れていた大きなお尻が止まって、その体が振り返る。


「あら、ランチェスター先生」


 厚いプリントの束がその腕に抱えられ、そのラインをくっきり浮かび上げさせるくらいにスーツを下から押し上げている胸にサンドイッチにされて悲鳴を上げているようだった。


 その主張の激しい胸の膨らみが放つ強力な引力に視線が引かれるのに抵抗を示しながら、クレイはできるだけ動揺を悟られまいと努めて姿勢を正した。


「すみませんエジェット先生。副担任なのになにもお手伝いしないで」

「いえ、次の授業の準備はそんなに手間じゃありませんでしたから。先生は今までどちらに?」

「ええ、その……生徒の相談を受けていたもので」


 嘘はいっていない。クレイは心の中でそう拳を握りしめた。


「先生は生徒たちの人気者になりそうですね。みんな目をキラキラさせて先生を見ていたようですよ。やっぱり若い男性となると反応が違いますよね」

「いや、それは素直に嬉しいことですが……。それでエジェット先生、少しご相談が」

「相談ですか?」


 二人の頭の上で二時間目の開始のチャイムが鳴り響いた。廊下に溢れていた生徒たちが慌ただしく教室の中に入っていく。


 このチャイムが鳴り終わるまでには教室に入っておきたかったが、クレイの真剣に見える様子がそれを困難にさせていた。


「今でなくてはいけませんか?」


 まだF組への距離は遠い。待っている生徒のことを考えれば、油を売っていていい状況ではないだろう。


 それでも、クレイには食い下がらなければならない事情があった。


「実は、班編制の件なんですが、この時間にやれないものかと思いまして」

「この授業時間にですか?」


 本来なら政治経済の授業が枠に嵌められていて、マリーはわざわざその準備をしているのだ。


 その準備が全くの無駄になるということはなかったろうが、急がねばならない理由が不可解すぎた。


 予定されていた午後いちばんまでには、班編制が必要な授業はないはずだったからだ。


「やろうと思えばできないでもないですが。でも、どうしてそんなに急がれる必要が?」

「それは」


 頬を掻きたくなる指をなんとか抑える。これ以上( のぞみ)とクリスを隣同士の席にしておきたくはなかった。


 普通にしていればバレる心配はないだろうが、あの望に普通にしているのを期待するのは少し酷なところがあった。


 むしろ自分から積極的にボロを出しかねない不安があった。


「その、また理由としては少し説明しにくくて」

「特別な理由がないのでしたら、予定通り午後いちばんにしても問題ないと思うのですが……あら」


 髪に手をやろうとマリーが腕を動かした途端に、その胸に抱えられていたプリントの一部がこぼれて廊下の床に落ちる。


 それを拾おうと反射的にクレイとマリーが同時にしゃがみ、プリントを拾おうとして――その指と指が触れた。


 触り心地のいい綺麗な指だとクレイの心が素直に感嘆するが、そのまま触っていたい欲求を飲み込んで可及的速やかにそれを引き剥がす。


「あ、失礼、エジェット先生」

「い、いえ」


 マリーの方が指を引っ込めてしまったのでクレイが散らばったプリントを拾い集める形になった。手早く再び束にし直し、きちんと揃えてマリーの方に手渡す。


「申し訳ない、どうもすみませんでした」

「そんな、これくらいなんでもないです……」


 妙な声の上ずりと微かに上気した頬を隠すようにマリーはクレイから顔を背ける。その態度のおかしさに、クレイはある可能性に感づいた。


『ははぁん、これは……』


 一瞬で考えをまとめる。この状況は使えるかも知れない。


 この朝から自分についたであろう評価・イメージを客観的に分析すると衝動的に走り出したくなるものがあった。


 今し方遭遇した女子生徒三十人がどれだけの情報量を外に向けてまき散らすかと思うと、〈赤い月〉〈青い月〉が放出するワームナノマシンより恐ろしいものがあった。


 悪いイメージをどうにかしたい時はどうするか?


 そのイメージが消えるように努力する? いや、人についたイメージを消すなどというのは不可能だ。


 可能でいちばん手っ取り早い手段は、新しいイメージで上書きしてしまうことだった。


「エジェット先生」


 すっ、とクレイはマリーとの間合いを詰めた。


 今まではお互いに手を伸ばせばようやく指が触れるくらいの距離が、今ではクレイがそうしようと思えば肩を抱き寄せられるくらいの距離に収まっている。


 心の壁を突破されかねない距離に踏み込まれ、心に湧いた熱を必死に放熱するようにマリーの耳までが真っ赤に色を染める。


「ランチェスター先生、その、す、少し近すぎませんか?」


 注意を送っているはずのマリーの声には拒絶の色は薄い――いや、ほとんどなかったといっていい。ただ建前だけがそんな台詞をいわせているようなものだった。


「私たちは業務連絡をしているんです。なにかやましいことがありますか?」

「でも、やっばり、その、こんなに近いのは」

「身を寄せて業務連絡を行ってはいけない。そんな校則は我が校にはないはずです。ありましたか?」

「そう……そうですね、なかったと思います……」


 そんなことをいっているうちにさらにクレイはマリーとの距離を詰めていた。


 マリーは本能的に後ずさっているが、あっという間に背後にあった教室の窓に背中がつき、いつの間にかお互いの体がようやく触れあわない程度の隙間しか二人の間には空いていない。


 トドメとばかりにクレイの両腕が、マリーの頭を挟み込むように窓枠につかれた。


 背を壁に両側をクレイの腕に遮られてそれ以上マリーは退避する場所を喪失し、完全に拘束が完成してしまう。


「せ、先生!?」

「いえ、申し訳ない。さっきしゃがんだ時に足を少しひねりまして。こうしないと体を支えられないんです。少しだけ我慢してください、エジェット先生」

「そ、それなら仕方ないですね、ランチェスター先生……」

「クレイ、で結構です」

「で、では、私もどうか、マリーとお呼びください……」

「ええ、マリー先生」


 もう完全に少女の顔に戻ってすっかりうつむいてしまったマリーを見下ろし――クレイはそのまま視線を少し右にずらした。


 窓の向こうの教室の中、窓際に座っている女子生徒とまともに目が合った。


 1メートルも離れていない距離で睦言まがいの会話を繰り広げている二人の様子を、余すところなく目撃していた女子生徒の頬が林檎よりも赤くなる。


「――今までの話、聞いてたかな?」

「は、はい」

「私たちはなんの話をしていたのかわかるかい?」

「ぎょ、業務連絡の話、です……」


 爽やかな笑みを浮かべてクレイが頷き、女子生徒も曖昧さがうかがえる笑顔で応じた。


「申し訳ないけれど、向こうを向いていてもらえないかな。すぐ終わるから」

「い、いいえっ、どうぞごゆっくりっ」


 女子生徒が立てた教科書で顔をかぶせるようにして目をつむる。別に無関心でいようとしているのではない。視覚を封じている分聴覚を研ぎ澄まさせているだけだ。


 教室の中で授業が始まっているのか、教壇の上では熊が――いや、背広を着ている熊にしか見えない顔中毛むくじゃらの教師が、遊んでいるのか仕事をしているのかわからない同僚に対して無言で非難の視線を向けている。


 注目を浴びているのにも関わらず、いや、敢えてこの注目を浴びてしまうステージをセッティングして、クレイは今日いちばんの即席芝居を打つつもりだった。


「この際包み隠さないようにしますが、実は、望のことなんです」

「……望さんの?」

「ええ。マリー先生は、私が望に対して過保護であるとお思いですよね?」

「まあ、その……確かに、そんな感じに見えます……」

「無理もないでしょう。ですが、それには事情があるんです」


 事情、と聞いてマリーが、そして授業そっちのけで二人の話し声に全身を聞き耳にして聞き入っていた女子生徒たちがさらに身を乗り出すのがわかった。


 教壇の熊教師はそんな教室の様子を把握していても注意すらしない。女子生徒よりも教師の方が好奇心にそのつぶらな瞳を輝かせていた。


「私と望、歳が離れている兄妹ですよね」

「クレイ先生が二十八歳でいらっしゃるから、十三歳差ですか?」

「私が十九、望が六つの時に両親を事故で亡くしているんです」

「まあ……!」

「私も大学に入ったばかりでやめるわけにもいかず……さりとて他に頼れる親族もおらずで、ようやく望が手がかからなくなった時期とはいえ、面倒をまるで見ないでいいというわけにもいかず……」


 言葉のリズムの間を絶妙に取って、クレイはその顔を曇らせた。


「朝は望に対してできる限りの用意をし、昼は大学、夕方にまた望の世話をして夜はアルバイト。そんな生活が卒業するまで何年も続いたんです」

「それは、クレイ先生も本当にご苦労なされて」


 いつの間にかマリーの目の端に涙の粒がたまっている。その手がポケットのハンカチを探り出そうと動いたタイミングを突くように、クレイのハンカチが差し出されていた。


 完全無欠にアイロンがかけられ折りたたまれた――なにせこの用途専用なのだから――ハンカチがマリーの涙を拭った。その拍子に手がマリーの前髪にかかる。


「失礼、手が偶然髪に」

「ええ、偶然なら仕方ないですものね……」

「ああ、また偶然手が肩に……」

「偶然ですものね……」


 正気なら白々しいという言葉すら生ぬるく思える会話も、特殊なムードで半分溶けかかった心には甘美なメロディーにしか感じられないようだった。


「教職に就いた頃には、望も十歳を越えて世話もほとんどしなくてよくなったんですが……しかし世話をしなくなった分、望を一人にし過ぎました。あの子も引っ込み思案なところがあって友達を作るのが本当に苦手で、親身になってやれるのは結局私一人だけで……」


 マリーの涙で染みたハンカチでクレイは自分の目を拭う。それに特別な意味を感じたのか、マリーの開いた口から甘い吐息が漏れた。


 二メートルと離れていない舞台で繰り広げられるメロドラマを見せつけられている一人の女子生徒が、マリーにつられるように連鎖の吐息を漏らす。


「公私混同とはいわれるでしょうが、兄として親代わりとしてかまってやれなかったのを今できるだけ取り戻してやりたかったのです。教師と生徒という立場で一緒の学校にいれるのが嬉しくて、私はついあんな風に……私は未熟者です」


 声が届く範囲の生徒たちのほとんどが、いつしかもらい泣きを始めて自分たちのハンカチを濡らしている。


 教壇の熊教師などはおいおいと声を上げて泣き出し、手近なところにあった雑巾をびしゃびしゃに濡らしている始末だった。


「ですから、マリー先生」

「は、はいっ」


 マリーの両手をクレイの手が包んでいた。拒絶しようとも思わせない手練れの呼吸だ。


 もうマリーの瞳は目の前のクレイしか見ていなくて、今が授業時間の真っ最中だというそんな些細なことはとうの昔に頭から消え去っていた。


「マリー先生には、望のいいお姉さん役になっていただければと思うんです。男の私には気づけないこともマリー先生になら任せられるでしょう。私の勝手なお願いですが、聞いてはいただけないでしょうか」

「私が、望さんのお姉さん……」


 半分うっとりとした声でマリーはその言葉を反芻する。母性本能に突き刺さるものがあったのか、予想以上の化学反応にクレイの心が思わず半歩下がるくらいの強い反応だった。


「わかりました、クレイ先生!」


 マリーがクレイの手を今度は上から握りなおし、その力と声の大きさに今度は本当にクレイが半歩分仰け反った。


「私に任せてください。これもまた――教育者としての使命だとも思います!」

「ありがとうございます、マリー先生!」


 謎の感動が教室を包みこみ、熊教師や女子生徒たちの拍手までもが湧き上がった。調子のいい女子生徒などは甲高い口笛を飛ばす始末だ。


 クレイは勝利を確信した。


 これでロリコンなどという男性教師にとって最も忌避するべき称号は「妹想いのけなげな兄」という勲章に代わり、同時に同年代に色目を使うまともな性癖の男であるというイメージを獲得できたはずだった。


 そしてそれは、クレイ自身が喧伝せずとも、少女たちの口コミネットワークを通じて光よりも速く校内校外に発信されることであろう。


 まさしく勝利だった。


「それでは、望ちゃんのお友達をしっかり決めるために今すぐ班編制をしましょう!」

「ええ、それであのクリスチーナ・フォルクスのことですが……」

「クリスさんですか? あの子は望ちゃんのいいお友達になれると思います。是非とも一緒の班になるようにしないと!」

「えっ」


 いきなりの雲行きの悪さにクレイのこめかみがヒクつく。


「いや、ですから、そこの所はまた違った事情があって」


 クレイの言葉が終わらぬうち校内放送を告げるチャイムが校舎内に響く。


 それはクレイに絶望を告げるチャイムだった。


『クレイ・ランチェスター先生、クレイ・ランチェスター先生。至急校長室までお越し下さい。至急校長室までお越し下さい。繰り返します、クレイ・ランチェスター先生……』


 スピーカーから流れるノイズまみれの音声に、クレイの側頭部でなにかが割れる感触がした。


 校長室に至急の要件となると、普通の学校では想像もできないような案件が発生した可能性が高い。この場合の至急というのは、掛け値なしの至急ということで――。


「さあ、クレイ先生は行ってきて下さい。あとは、私に任せて!」

「いや、ですから、あのクリスは」

「早く!」


 やる気が出た人間は予想外の力を発揮するのか、背中を押されたクレイは校長室への道にほとんど突き飛ばされていた。戻ってマリーを説得することもできず、頭を抱えたまま校長室への道を走る。


 勝利を確信した高揚感などは完全に雲散霧消していた。


 そんなクレイを笑顔で手を振って見送り、マリーはよし、と拳を作って自分を元気づける。


 もう政治経済の授業をやるつもりは毛頭なかった。教室に着いたら即、班編制だ。多分自分だけでやることになるだろうが、不安はない。


「私がしっかり監督して、望ちゃんにはいいお友達を付けてあげないとね」


 友達づきあいが苦手な子がちゃんと友達を持てるようになること。教師が心を燃えさせるには十分なテーマであり――同時にそれはもう一つのモチーフの存在を意味していた。


「――そして、いいお姉さんもね」

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