#11「再会・二人の少女」(LAST)
「クレイ・ランチェスターです」
ホワイトボードに几帳面な文字で名前が記される。
「個人的な都合で色々ありまして着任が遅れ申し訳ありません。私の仕事はエジェット先生のサポートです。みなさんのよき相談役になりたいとも思っています」
腰がきっかり三十度に折れて折り目正しい礼をする。背筋の伸びた姿勢が実際の身長よりもずっとその印象をスマートに見せていて、それがまた女子生徒たちの好感度を押し上げる。
この時点で既に女の子たちの六割ほどは、クレイに対して『好青年教師』という評価をつけているようだった。
「私も今日初めてこの学校に来たばかりで、慣れていないのは新入生のみなさんと同じです。みなさんと色々なことを私自身も学んでいきたいと思いますので、以後よろしくお願いします」
トドメの一礼がなされて、よどみのない自己紹介に拍手が自然に湧き上がった。その爽やかな――爽やかすぎとも思える態度にいくらか作っているものを感じながらもクリスはその拍手に参加している。
「――そして、もう一人このクラスに私たちの仲間が増えます」
マリーの言葉に、副担任の紹介だけで終わるのかと思い込んでいた教室内の空気が揺れる。
「ランチェスター先生と同じく遅れましたが、新しいお友達が加わることになりました。それは――」
マリーの体が流れるように教室の入口の方に向き、その細い腕が指し示した先に――誰もいなかった。
教室中の生徒がきっかり五秒、全部の動きを止めてマリーの腕が示す先に注目していた。
「……あら?」
段取りを崩されたマリーの首がかくんと傾げられると、教室のドアにこそこそと指がかかる。
隠れながら教室の中をうかがうように、ドアの陰から一人の少女がのっそりと顔をのぞかせた。
胸の中に涼しい風か吹き抜けたような感覚を覚えて、クリスは思わず大きな息を吐いている。
「え……?」
心を冷やしていった風のような予感にクリスの膝がほんの数センチ、椅子から浮き上がる。
「なに、今の……」
妙なざわめきが心臓の表面を這い回る不可解さにクリスは小さく慌てた。
いつか同じような感覚に襲われた気がする……気がするが、それがいつだったかはすぐには思い出せない。
ドアの陰から教室内の様子をうかがっていた少女が、全員の注目が自分に注がれているのに気づいてかその頭を引っ込めかけ、そのまま逃げられてはマズいとさすがにマリーが声をかけていた。
「さあ、いらっしゃい」
「う……うんっ」
マリーの呼びかけにうなずいて隠れていたドアから離れて、早足で少女は教室に踏み込んだ。
お下げにした二本の黒髪を背中に垂らした、やや背が低めの小柄といえないでもないその少女。
やはり最初に印象が強く残るのは赤く太いフレームの眼鏡だろう。重たげに見える円いフレームの向こうで幼げに見える二つの大きな瞳がキラキラと輝いている。
可愛いは可愛いが、誰もが目を引くほどの美少女ではない――ともすれば地味にも見えるイメージのその少女に、何故かクリスの目は釘付けになっていた。
その早足のままに少女は教壇に上がろうとして――その縁に爪先が引っかかった。
「あ」
少女の体が一瞬、宙に浮いたと思った時にはべちゃっ、とつぶれるように真正面から受け身なしで教壇の上に倒れている。
そのあまりに清々しいくらいの倒れっぷりに、側にいたマリーでさえも反応できなかった。
「……ふええ……いたた……」
教壇から自分で顔を引き剥がし、涙目で少女は体を起こそうとする。
「あああ……またやったな」
クレイが少女の元にすっと歩み寄り、その体を抱き起こしてホコリで汚れた制服を手ではたき出した。
「もう着崩れてるじゃないか。最初の最初なんだからそれくらいしっかりやらないと――ほら、顔見せて」
「痛かった……鼻、つぶれてない?」
「まだつぶれてないけど、今度またやったらつぶれるかも知れないぞ。気をつけろよ」
「ううう……」
少女の汚れた顔をクレイがハンカチで拭おうとすると、目の縁に涙を溜められるだけ溜めた少女がクレスの胸に顔を埋めるようにして抱きつく。
「あー……髪にまでホコリつけちゃったな。ほら、とってやるから離れろ。まったくお前は――」
少女の肩を抱くようにして手を乗せ、胸に納まったその顔を離そうとして――クレイは六十個近くの視線を感じてその心臓を凍らせた。
カチカチと歯車が鳴る音を立てて真横を向くと、約三十人の女子生徒が向ける冷め切った目たちが自分を見つめていた。
『ロリコン教師』と異口同音に言葉を投げつけてくるその目の圧に押されて、救いを求めるようにクレイはマリーの方に目を向ける。
「……あー、おほん」
冷凍庫より冷え切った場の空気に危険を察して、きょとんとしたまま固まった少女にマリーは口を寄せて何かを耳打ちした。
事態がまるでつかめていない少女はマリーの耳打ちを受けてもまだ理解が及んでいないようだったが、やらなければならないことはわかったのかホワイトボードの前に立った。
「みなさん、ご説明しますね。彼女は……」
キュキュキュ、と音を立てて少女がホワイトボードにゆっくりと文字を書いていく。
三十秒ほどかかってようやくそれは書き終えられ、少女が正面を向いたのを確かめてからマリーは安堵の表情を浮かべながらいった。
「つまり、こういうことです」
「…………」
教室中は沈黙を保っていた。その全員の顔に漏れなく疑問符が張り付いていた。
反応のなさにマリーがホワイトボードの方を振り返ると、そこにはのたくった文字のように見える黒い線が描かれていた。
数年前、庭が大雨に浸かったあとに土の中にいた数十匹のミミズが浮いてきた様子をクリスは思い出していた。
「あー……」
業を煮やしたクレイが素早くその歪んだ線の行列を消し去り、先ほど書いた自分の名前の下に赤いペンで調子良く文字を書き込んでいく。
今度は流麗とも見えるタッチで『望・ランチェスター』という名前が記されていた。
「……と、いうわけで、ランチェスター先生と望さんは、ご兄妹でいらっしゃるわけです」
あぁ、という息づかいが波のように広がっていった。女子生徒たちの氷のごとく冷たかった目に春の陽射しが見る間に戻ってきて、教室内の室温もいくらか上がったと実感で感じられた。
「そういうわけなので、みなさんそこの所を了解して……まあ、誤解のなきようお願いします」
はぁい、と気の抜けた返事があちこちで上がる。クレイの評価を一転させた生徒もその九割が元に戻し、残りの一割は『シスコン教師』という評価に改めていた。
「はーい、しつもーん」
元気のいい女子生徒の一人が手を上げ、指名されるのを待たずに立ち上がる。
「なんて読むんですか? そのチャイニーズ・キャラクターは」
「チャイニーズ・キャラクターってなによ。カンジでしょ」
「別に漢字くらい珍しくないだろ。お前たち中学校までの国語の授業で寝てたのか?」
「でも名前に漢字使う子はレアよ? このクラスで一人もいなかったよ」
「のぞみ」
少女――望という名の少女が今度ははっきりとそう口にした。
それだけは強く主張しなければならないという意志を込めて、いっていた。
「あたしの名前は望・ランチェスターです。ええとその………………よろしくお願いします!」
勢いよく頭を下げて――勢いよく下げすぎてその額が教壇にぶつかって教室中に響く音を立てる。ウケ狙いのわざとか、と何人かは思ったようだが、また額を赤く腫らして涙目になった望の顔を見てその認識を改めた。
ぱちぱちぱち……と熱のこもってない拍手がちらほらと聞こえる。妹のデビューがどうも締まらないものになってしまったことに、クレイが表情をわずかに曇らせているのが見て取れた。
「それでは望さん、席についてください。ええと席は……右の方の空いている席がいいわね」
「あ、は、はいっ」
とてとてとて……とどこかおぼつかない感じのする足取りで望は空いている席――クリスの右隣の席に向かい、机に座ろうとして――固まった。
「あの、これは……」
机の上に飾られている花差しに生けられた白い花。それがまるで結界のように机を守っている。
「ああ、今片付ける」
そつがない身のこなしでクレイが手早くその花を片付け、教室後ろの低いロッカーの上に移す。
背後で大きな舌打ちがしてクレイは振り返ったが、それが誰が発したものかはわからなかった。
「……ふぅぅ」
今日のやらなければならないことの全部を既にやり遂げてしまったように脱力している望に、クリスが身を寄せる。
磁石が吸い付くかのように声をかけたいという欲求が不思議なくらい素直に湧き上がって来て、クリスは微笑みながら呼びかけることができていた。
「ランチェスターさん、ね。私、クリスチーナ・フォルクス」
「え……うん」
何故かあらゆることに慣れていないようにしか見えない少女――望がその呼びかけに椅子の上でお尻を滑らせてクリスの方を向く。
「っ」
――クリスの方を向いて、望の呼吸が止まった。
その顔の全部が緊張に固まり、見開かれた大きな目の奥で瞳が震えていた。
呼吸が止まり、まるで見つけてはいけないものを見つけてしまったようなその表情に、クリスの目が瞬く。
「どうかした?」
「う……ううん、な、なんでもないっ!」
クリスの呼びかけに金縛りが解かれたのか、息をするのを思い出した望がしゃっくりのような音を喉から鳴らした。
「あ、あたし、望・ランチェスター。ええと……よ、よろしくね、フォルクスさん」
「クリスでいいよ、私のことは。その代わり、望って呼んでいい?」
「う……うん、その……よろしく、クリス」
「よろしくね、望……あら?」
今度はクリスの動きが固まった。
のぞき込んだ望の顔に何か、何かはわからないが……引っかかるものがあったからだ。
棘が心に刺さったような感触にクリスの探究心が素直に前を向いている。
「うーん……」
「な……な、な、な?」
顔をさらに近づける。お互いの顔の熱が触れるのではないかという距離にまで間合いが詰まる。
まじまじと真正面から顔をのぞき込まれた望が顔を真っ赤にして思わず身を引くが、その分クリスがさらに身を乗り出した。
やや薄い唇、尖り気味の小さな鼻、赤いフレームの大きな眼鏡、その奥で光を称えている猫のそれに似たぱっちりとした目にこれも大きな瞳。
自分の中で引かれた違和感のトリガーの正体を探るように、目の前にある顔のパーツをひとつひとつ確かめて――結果、挫折した。
「――ううん、なんでもない」
「そ、そう……」
人の顔を無遠慮にのぞき込んでおいてその言い草はなかったろうが、自分でもよくわからないこの違和感を他人に説明できるわけもない。
気にしないで、という勝手な一言を告げてクリスは自分の椅子に深く腰掛けた。
望はほんの数秒赤い顔のままクリスの方を見ていたが、気を取り直したように前を向く。
「はーい、みなさん。それでは初めての授業を開始します。それでは教科書の最初のページを開いてください」
マリーの声をどこか遠くに聞きながら、ぼんやりとした思いを抱えたままクリスは教科書をめくる。
「なんでもない、か……」
自分でいった言葉の空虚さを味わい、クリスは指先でペンを回して弄ぶ。
高校最初の授業はあまり集中して聞けそうにはなかった。
市庁タワーで会ったあのフェイリスに会いたい――今さっきまで渇望のように抱いていたその欲求がまるで霧散してしまったことにクリスが気づくには、あと数ヶ月の時が必要だった。




