#09「ヴァルキュリーランス・チャージ!」
リアクターの稼働による微弱な震動が何重にも重なってバイク本体を小さく震えさせ、人の鼓膜の奥を妙に刺激する独特の甲高い高周波の音を唸らせていた。
直径80センチはある巨大な前後輪タイヤ。そのフォルムはスポーツオートバイの洗練されたそれとはほど遠く、装甲車めいた直線で構成されたフォルムがいかにも軍用であることを訴えている。
少女がまたがるボディの左右に張り出した〈肩〉を思わせる大型のブロック。
そこから後方に伸びる二つの太い支柱。
普通のバイクとしては明らかに不必要に見える部品構成でそれはまとめられており、初めてそれを見る人間からすれば異形、という感想しか抱かないだろう。
まさに間一髪のタイミングで飛び込んで来、ボディから伸びた補助腕で少女を炎の嵐から救い出した白い二輪の〈馬〉。
その背にまたがり、下から突き上げてくる震動に闘志を奮わされながら少女は感慨深げに呟いた。
「これが――〈馬〉。――ううん、〈スレイプニール〉……」
フェイリスの支援兵器〈スレイプニール〉。
フェイリスの機動力を支え戦場を駆け巡る足として、そのサイズの小ささから携行できる武装の量に著しい制限が加えられるフェイリスのために、大量の武装を運搬するキャリアーとして運用される機械の〈馬〉。
〈フェイリス〉と〈スレイプニール〉。一人と一機で基本の戦闘単位を成す人機一体、現代に蘇る電装騎士。
監視ドローンの映像でその勇姿を確認したクレイと助手が、二人一緒に脱力してその場に座り込む。
「スレイプニールの投入、なんとか間に合いました」
「……やっと〈馬〉を送り込むことができたか」
ギリギリのタイミングだった。あと数秒遅ければ文字通り全てが灰燼と帰すというまさに崖っぷちの。
「あとは〈馬上槍〉に期待するだけだ……聞こえるか!」
『なに!?』
元気な声が帰って来る。
少女のフレーム内で莫大な量の電気エネルギーを発生させるアインシュタインリアクターも再起動を完了したようだ。
「お待ちかねのスレイプニールだ。右にマウントされている〈馬上槍〉はわかるな!」
『これでしょ!?』
スレイプニールのボディの右、ハードポイントに接続されていた〈馬上槍〉を少女が手にする。
鋭く長い円錐と短い柄の全長二メートルの槍。
中世の甲冑騎士が全盛を誇っていた時代、騎馬にまたがりそれを構え颯爽と駆ける様で、多くの人々のロマンをかき立て数々の伝説を残した馬上槍――ランス。
それが、外宇宙金属アルケミウム鋼で作られた電子と機械の馬上槍となって今、ここにある。
「これが〈ヴァルキュリーランス〉……」
知識としては知っていたが、それを実際に抱えることになれば震えるような実感があった。
電子の甲冑〈バージンシェル〉に身を包み、機械の馬である〈スレイプニール〉にまたがって機械の馬上槍〈ヴァルキュリーランス〉を突き出して戦場を駆ける少女――〈フェイリス〉。
それこそが、この地獄の行き着いた果てのような世界で、たった一つ信じられる希望だった。
『そうだ。お前も教範ビデオで見ただろう。……やることはいわずともわかってるな!』
「わかってる」
騎士が馬に乗りランスを構えたとなれば――やることはたった一つだ。
「わかってるよ」
自分にいい聞かせるようにもう一度呟いて、少女は視線を真っ直ぐに前に向ける。
いくらかの起伏と障害物を超えた向こうに火龍の姿があった。双方の距離は……一キロメートルと少しといったところだろうか。
今度こそはこの煩わしい獲物にトドメを刺してやろうと怒りに身を震わせて、火龍が吠えた。その咆哮は音の砲弾となって少女が乗るスレイプニールのボディを叩く。
決着の予感は少女も同じことだった。ヴァルキュリーランスを右手に抱え、その穂先を真っ直ぐに火龍に定めた。
あとは、あの火龍に向かって突撃するだけでいい。
風よりも速く、稲妻よりも鋭く走ればいい。ただそれだけのことだった。
「もう突撃するよ。いいよね?」
『少し待て』
水を差すような意外な言葉に少女は驚いた。このまま勢いで突撃を敢行させられるものだと思っていたのだ。
『慌てるな。今、あいつに勝つ必勝法を教えてやる』
「必勝法? 必ず勝てる方法ってこと?」
『ああ、必ず勝てる方法だ。手短に話す……よく聞け』
無線の向こうで息を整えるような音が聞こえた。
本当に手短な説明がされて、それを聞いているうちに少女の表情が疑義に歪んでいく。
「……そんなもんなの?」
『これが最も確実に勝てる方法なんだ。俺の経験からすれば、いうとおりにすれば勝てる……六割くらいの確率で』
「必勝法っていったじゃない! 必ず勝てるんじゃないの!」
『こうすりゃ絶対に成功するなんてことは現実にはそんなにないんだ。六割あれば分のいい勝負だぞ』
「実際に命を賭けるのはあたしでしょ!」
『俺たちだって人生がかかってる、頼むぞ……その気になったら行け。通信終わり』
「あっ、こら」
ブチッ、とノイズが響いて通信が切られる。もう結果が出るまで話す気はないらしかった。
そのぞんざいとも取れる扱いが少女の気性に火を点ける。
「やればいいんでしょ……やってやるわよ……やるしかないんだから……!」
感情の高まりがスレイプニールに伝わり、心の昂ぶりに連動するように機体の共鳴音が波を作る。
フェイリスの思考で操縦できるスレイプニールにはフェイリスの心理状態も多分に反応する性質があった。
スレイプニール本体にも出力を得るためのリアクターが搭載されているが、それはあくまで補助的なものに過ぎない。
汎用リアクターと比較しても桁外れの出力を弾き出す、フェイリスのアインシュタインリアクター。スレイプニールの全力稼働はそのアインシュタインリアクターからのエネルギー供給を前提としている。
この人機一体の最低限の戦闘単位が力を最大限に発揮しようとすれば、スレイプニールにフェイリスが接続されている――つまりは搭乗している必要があった。
『突撃を開始したら全速でまっすぐ行け、決して避けるな――ビビッたらそれが針路をブレさせるぞ。針路がブレればやられるしかない。恐れるな。恐れたら、お前の負けだ』
火龍との距離を詰める間、火龍がじっとしていてくれるなんて都合のいいことがあるわけはない。最も可能性が高いのがプラズマビームによる迎撃だ。
今からしようとしているのはつまり、正面から吐かれるプラズマビームの洪水に自ら突撃するということなのだ。
火龍の首がわずかに浮き上がり、その口が小さく開いて息を大きく吸い始める。
プラズマビームを励起するための酸素を取り入れているのだろうか。少女がやろうとしていることを予想しているのか、既にプラズマビームを最大出力で発射する準備を行っているようだ。
火龍の首の根元が赤く輝き出す。その下、心臓とおぼしき位置の装甲までもが鈍い赤の色を示し始めて、硬い鱗がまるで脈を打つように波打ちだした。
「貫くべきは、あの心臓……!」
ソードにエネルギーを送った感覚を思い出す。同じように自分の中を流れるエネルギーとの回路をヴァルキュリーランスにつなげるイメージを思い描く。
ヴァルキュリーランスの円錐全体が青白い光に包まれる。
表面に張られたプラズマフィールド内で圧縮されたプラズマが限界まで縮退することで、プラズマを超える物質の第五形態――プラズマの高熱を帯びた個体として振る舞うフレイエネルギーに変貌する。
火龍の脚が音を立てて土壌深くめり込む。その尻尾が地面に叩きつけられ、背の翼がいっぱいに広がった。全力で吐き出すプラズマビームの反動に体を支えようとしているのがわかる。
自分はどれくらいの火炎の激流をまさしく逆流しなければならないのか――そうちらと考えて、少女はそれを捨てた。
クレイはいっていた。『恐れるな』と。
覚悟を決めて顎を引き、前をにらみつける。
少女と火龍の距離は一キロと少し。スレイプニールの全速ならばそれを埋めるのに十秒とかからない。
つまり――そのたった十秒足らずの短い時間で、勝負が決まる!
「スレイプニール――行くよ!」
少女の決意に反応して、スレイプニールが前に出た。
平坦な直線の路面ならば時速六百キロを叩き出す戦闘バイク。
ボディ背部のスペクトルスラスターが稼働して七色の光の帯を引き、高速で回転するタイヤが土砂を後方に吹き飛ばしてわずか二秒で機体がトップスピードに乗る。
わずかに首を後方に反らした火龍が、次の瞬間にはそれを前に振ってその口を開いた。
ほとばしる炎の渦が次には収束された太い柱となって、息を飲む間もなく少女に向かって伸びる。
一直線に直撃してくるプラズマビームの流れを視界の真正面に捉えても、少女の意志は揺らがなかった。
その熱線の奔流の正面から少女はスレイプニールを突っ込ませ――スレイプニールの正面装甲に内蔵された見えない盾・インヴィジブルシールドを起動する。
激流が岩にぶつかって砕けるのに似た轟音が辺りに轟いた。
戦闘バイクごと少女を灼き尽くそうとした――灼き尽くすはずの炎がまたも見えない壁に阻まれて蹴散らされる。
が、その速度が急速に落ちる。熱ははねのけることはできても運動エネルギーは無効化できない。
目の前が炎の色一色に染め上げられ、世界の全部が燃えているような錯覚に襲われながらスレイプニールを駆る。
「エネルギーが……!」
ヘルメットのゴーグル裏に小さく投影される表示に少女がうめく。
バージンシェルとスレイプニールの装甲に内蔵されたエネルギーコンデンサの電力残量が見る間に減っていく。
満充電だったものが既に半分を切り、それも次の瞬間にはさらに減るのは炎にさらされた氷塊を思わせた。
火龍の強力な熱線を対消滅させるほどに高出力のプラズマフィールドを展開しているのだ。貯蔵されていたエネルギーなどはあっという間に削られ――枯渇した果てには破滅が待っている。
エネルギーが尽きるのが早いか、このプラズマビームの濁流を溯りきって火龍に達するのが先か。
結果は二つに一つしかない。
「――――ッ!」
少女が吠えた。声にならない叫びが全てを震わせた。
少女のフレームの中に封じ込められたアインシュタインリアクターがその出力を増す。鞭打たれた騎馬のようにスレイプニールが加速する。
「…………!!」
火龍の脚が、下がった。
意識的なものではない。最大出力のプラズマビームの直撃を受けながらそれを突破しようと――今まさに突破してくる気配を見せた目の前の相手に、本能的な恐れを抱いたのだ。
それが決定的な要因だった。
「あああぁぁぁ――――!」
プラズマの濁流をくぐり貫ききって、スレイプニールが跳んだ。
その前輪も後輪も地から浮いて、光輝くひとすじの矢となって火龍の首の下に飛び出した。
己に流れる全ての力とエネルギーをその穂先に注ぎ込み、渾身の力を込めて少女は右手のヴァルキュリーランスを突き出す。
ランスの先端が火龍の鱗に触れた瞬間、凝縮された超高熱が瞬時に装甲を溶かし蒸発させて真円のクレーターを穿った。
次には殺されぬ勢いのまま突き立てられたランスの円錐が全て火龍の肉の中に食い込み、装甲の下に隠された火龍の心臓――リアクターコアの中心にランスの穂先が突き刺さった。
乾燥重量約八百キログラムの機体そのものを運動エネルギーの塊とし、この世のあらゆるものを穿つ最強の槍となって少女が火龍の心臓を貫いたのだ。
「ガァァァァァァァァァァァァァ!!」
火龍が吠えた。巨大な工場の設備が一斉に軋んだよりも重く鈍い音がその喉から吐き出される。
巨体が仰け反り、今の今まで無限の生命力に満ちていたその体から……ふっと、生気が途切れた。
心臓に直撃弾を受けて倒れる人のように、もはやなんの抵抗も示せずその巨体が傾いでいく。
赤く煮えたぎっていた瞳が急速に冷めていき――獰猛に輝いていた光が失われていく。
それを見つめる全ての人々が固唾を飲んで見守る中、最後の地響きを立てて火龍は地に沈んだ。
空と大地とを揺るがした音の響きが消え、やがて奇妙なまでの静寂が訪れる。
仰向けに倒れ、もはや身じろぎ一つしなくなった火龍の脈動が途切れたのを時間をかけて確かめ――少女は、今まで突き立て続けていたランスを引き抜いた。
ランスを包んでいた青い光が溶けるように消える。今まで握りしめていたそれを放して、少女は自らが倒した火龍の腹の上で膝をついた。
「はぁ……っ」
マスクの中で、大きく、そして熱い息を吐き出す。強力な冷却機構が常時働いているヘルメットでもその熱さを打ち消すことができない。
この場でヘルメットを脱ぎ捨てたい衝動と戦いながら、少女は自分が倒しその足の下にしているものを改めて眺めた。
体の全てを地に倒して、体長四十メートルの巨竜が息絶えていた。
その顎は炎を吐くことはおろか震えることもできない。ユーラスト市の中心街を我が物顔で蹂躙していた魔獣の、それが最期の姿だった。
この巨大なものを自分の手で倒したのか――その事実が不思議に実感として感じられない。
幾多の危機に瀕しそれを必死に乗り越えた反動だろうか。現実を認識する感覚がいくらか麻痺しているようだった。
『やった……やったな!』
スピーカーの向こうで快哉の声が聞こえる。その嬉しそうな声に少女の頬が緩んだが、深い疲れが自然に笑うことも難しくしていた。
「やった……やったよ…………疲れた……」
一時は死をも覚悟した強敵を屠ることのできた嬉しさも大きかったが、全力を尽くしきったという気力の喪失が深刻だった。
途切れることなく無限のエネルギーを供給してくれるアインシュタインリアクターも、精神力までは満たしてはくれない。
「もうここから、動きたくないくらい、疲れた……」
憎んでも飽き足らない敵とはいえ、その亡骸の上に乗ったままでいることには抵抗があったが、体がいうことを利いてくれず……。
『お疲れのところ恐縮だが……』
「なに?」
まるでちょっとした忘れ物でも思い出したような口ぶりに、少女はその目を反射的に開く。
『そこから離脱しろ。なるべく早く』
「どうして?」
『コアリアクターを貫き過ぎたようだ。たぶんそいつはもうすぐ爆発する」
「え」
その予告は一秒後に現実のものとなった。
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倒れた火龍の心臓の部分が光ったと思うと、次には炎を吹き上げて爆発の華を空中に咲かせていた。
眼下に起こっていた全ての事態がようやく落ち着いたと思い込んでいたクリスは、全くの意表を突いて爆発してくれたそれに心臓をひっくり返していた。
「わぁ――――!?」
あの傍若無人な火龍が少女の手によって倒されたという、冷静に考えればあり得ない結果を前に喜んでいた矢先の爆発だった。
ランスを突き立てて穿った穴から猛烈な勢いで噴き上がった炎と爆風に、少女が大型バイクごと吹き飛ばされた全部の光景がクリスの目には映っていた。
大型バイクは数メートルと飛ばずにほぼ横倒しになっただけだが、少女の体は文字通りの弧を描いて地面に叩きつけられていた。
が、先ほどまでの感動も嬉しさも忘れてクリスが金網をつかんで身を乗り出した時には、少女は体を起こしている。
「はぁっ……びっくりした……」
少し足を滑らせて転んだくらいの軽げなその起き上がりように、クリスの心が脱力する。
ここから見た限りでは散々な目に遭っているわりには元気そうなその様子に、ただただ安堵を抱くだけだ。
と、クリスは見た。その立ち上がった少女がこちら――市庁タワー屋上の展望台にいる自分に視線を合わせたのを。
それは数キロの距離を経てのものだったが、目と目があった、という奇妙に確信めいたものがあった。
その不可思議な感覚が何から来ているものかはわからない。ただ、お互いに通じ合うものだけは確かにあったと思う。
それを確かめたい、確かめようとクリスが思った時には、少女が地面を蹴っていた。
「あ…………」
その背中から長く伸びるオーロラの帯が引かれ、少女が緩やかに空を飛んだ。
ひとつひとつがスペクトルの色に輝く粒や破片の流れを川のように引いて少女は数キロの距離を数十秒で埋めた。
軽い足取りでのジャンプで飛び越えたように、ふわり、と少女がフェンスを越えてその爪先を屋上の地面につける。
「あなた……」
何故来てくれたのだろうという疑問よりも、来てくれた嬉しさの方が勝った。あれだけの激闘をくぐり抜けながらもほぼ無傷に見えるその姿に心底の安堵を覚える。
『ありがとう、助けてくれて。お礼がいいたくて来たんだ、あたし』
「――え?」
ヘルメットのマスクのスピーカーから流れてきた変成された声。それが意味することを量りかねてクリスの首が傾げられる。
「助けた……私が?」
クリスの頭の中で混乱が転がる。確かに助けられはしたが、助けたといわれてもまるで心当たりはない。
『うん。あの時――あたしがあのクトゥルフに殴られる前、逃げて、っていったよね?』
「あの時……?」
それがどの時を差すのかは容易に思い起こせた。あの火龍に踏み潰される直前、火龍の肩に剣を突き立てた時のことだろう。
『逃げて、っていってもらえたからギリギリガードができたんだ。あれがなかったら首が折れてても不思議じゃなかった。本当に助かったよ』
「私が? ……そんなこといった?」
確かに心で念じはした。少女が火龍の肩に剣を突き込んだ時にその動きが止まり、火龍の腕が振りかぶられたのを見て心の中で叫んだ――逃げて、と。
確かに心の中で叫びはした。だが……。
「ここから聞こえるわけないよ。それに私、声には出してなかったと思う」
『だよね……』
二人で中央公園に顔を向ける。息絶えた火龍が横たわっているのが見える……が、遠い。
人一人が声を張り上げてもとても届く距離とは思えなかった。
『でも、確かに聞こえたんだよね……』
「他の人の声とかじゃ?」
『ううん、あなたの声だった。……あなたの声だったと思う』
それはあり得ないことだったが、クリスはその少女の確信を否定する気にもなれなかった。
それで彼女がいいのならば、いいのだろう。
「でも、来てくれたのは本当に嬉しいよ。私は――」
『あ……ちょっと待って』
いいかけたクリスを少女が手で制する。装甲では固められていない、青いスキンで包まれたしなやかな指が広げられてクリスの勢いを止めた。
ヘルメットの耳に手を当て、クリスから目線を外して少女が小さく何かを呟いている。外部に音を伝えるスピーカーは切られているのか、内容は全くわからない。
短いやり取りがあったのだろう。少女の手が下ろされ、その踵が返されて少女がクリスに半分背中を向けていた。
『早く戻ってこいだって……うるさいんだからなぁ、本当に』
「……もう行くの?」
妙に寂しい気持ちがクリスの胸の奥を締め付けた。行かないでほしい、と単純にそう思えた。
『もうすぐ誰かが来ると思うから、ここで待ってて。じゃあ、あたし行くね』
「……ねえ!」
振り向いた少女にクリスが駆け寄る。手を伸ばせば、その髪に触れられる距離。
いいたいこと、聞きたいこと、尋ねたいことはそれこそ山のようにあった。その全てが語り尽かされるまで放したくはなかったが、時間は有限だ。
だから、クリスは選びに選んだ挙げ句――その一言だけを発していた。
「また会いましょう!」
立ち去ろうと体を流していた少女の動きが、止まった。
立ち止まり、投げかけられた言葉の意味を咀嚼するようにクリスの顔をのぞき込む。
細い形の濃いゴーグルの向こうに少女の目が一瞬……ほんの一瞬、のぞけた。
『―うん。また会えるなら……あたしも会いたいな』
猫のそれに似た大きな目の中で、大きな瞳が細められたのをクリスははっきりと見ていた。
少女の片足が地面を打つように蹴って、その体が軽やかに数メートルの高さまで跳び上がる。
『またね!』
その言葉を足跡のように残し、少女はフェンスを越えたと同時に背中から再び七色に輝く光の羽衣を噴き出した。
緩やかな曲線の尾を曳いて少女が飛び去り――その姿が点のように小さくなって、やがてビルの向こうに消える。
残り香のように浮いたオーロラのかけらが溶けるように消滅した後も、クリスは金網に手をかけたまま少女が消えた先を見つめ続けていた。
彼方からヘリのローター音が何重にも重なって聞こえてくる。赤くカラーリングされた大型ヘリ――おそらくは消防署の管轄の機体だろう――の編隊が接近してくるのが遠くに見えた。
「またね……か」
まだ黒煙を上げ続けているこの街にようやく平穏が訪れるのか。
恐怖の時が過ぎ去り、これでようやく落ち着ける――そんな安堵の気持ちと同時に、クリスの中で確かに動き出すものがあった。
胸の中で大きく重いものが斜面をずり落ちていく……言葉では上手く言い表せないが、何かが始まっていた。
「これは……なに?」
自分の心の中の忘れ去られていた鍵が、何かの拍子でその封印を解かれた感覚。
その様々なことに心を震わせながら、クリスはもう一度あの少女の瞳を思い出していた。




