"少女――フェイリス"の誕生
あなたは、あなたが生まれた瞬間のことを覚えているだろうか?
いや、そんなことを覚えている人間はいない。
産声を上げたばかりの魂は、自分というものを認識することさえ不慣れのためにできなくて、誰しもが体験しているはずのそれは遠い忘却の彼方に埋もれてしまう。
それは、生物の中で最も洗練された自我を持つヒトでさえ脱することのできない限界で、誰しもが逃れられない宿命であるはずだった。
だが――その少女は違っていた。
彼女は覚えている。振り返れば鮮明に思い出すことができる。
自分の誕生の瞬間を。
最初に目が開いた時に、その無垢な瞳に映ったものの全てを。
* * * * *
無しかない空間にぼっ、と淡い炎が灯るように意識が生まれたのが、少女の記憶の最初であり――それは同時に誕生の瞬間だった。
完全なる無と、完全なる闇。
その二つは同じのようであって、同じではない。
なにもない世界から、なにも見えない世界への移行。
春の風に雪が溶ける速度でおぼろげに触覚が起ち上がり、まだ鈍く這い始めたばかりの意識が自分の存在を知覚し始める。
「…………いる」
まだ唇も動かずその喉はさえずることかなわないが、少女は初めて言葉を自分の中で出力していた。
いる。
わたし、いる。
自分、いる、ここに。
無という世界が深く長いまどろみに変わり、重たい安らかさがもたらす重力と、目覚めなければという微かな意思が浮力となって釣り合いを保つ。
と……その最初の認識は早くも次の疑問を呼んでいる。
……自分?
「……わたし?」
自分って、なに?
わたしとは……だれ?
「なに……だれ……わたし……」
まだ全く慣れないその認識に戸惑いが消えぬうちに、少女のまぶたが震えその目がゆっくり……ゆっくりと開いていった。
潮がすぅぅぅ……と引くように闇は払われていき、代わりに今まで感じたこともないものが意識の全てを占領する。
色も輪郭もぼんやりと霞んだまま、優しく神経を刺激してくれる光を瞳孔が受け止めるのを、少女は半ば自分のことでないように感じていた。
――光。
意識の深い霧がゆっくりと晴れていき、動き始めた視覚に刺激されて他の感覚も動き出していく。
自分が今見ているものは……光。
「……ひ……かり……?」
唇から自然と漏れ出た声が耳をくすぐり、失われていた輪郭と色が緩やかにあらわになっていく。
光……ひかり。
それは、存在するものに存在の根拠を与えてくれるもの。
「ひ……か……り……」
その響きから言葉の意味を咀嚼するように、少女は呟く。
「……ひかり……」
知っている。
自分は確かにそれを知っている。
知っている……知っている……が、よくわからない。
よくはわからないが、自分は確かに知っている――。
ふしゅ、と風が漏れる音が鳴って目の前で何かが開いた。
それと同時に少女の全身を沈めていた透明の液体が、その水面をゆっくりと下げていった。
少女のやわらかい髪と一糸もまとわぬ肌が、優しく降り注いでくる光にきらきらと輝く。
今まで少女の全身を沈めていた液体は全て抜かれて、浮力を失った体は背中から固い床に着いた。
体を固定してくる重力を実感したと同時に、少女の目は完全に開いていた。
「…………」
まだ焦点が定まり切らぬ瞳が、その網膜に映る色の感触をぼんやりと受け止める。
遠く……遠く高く向こうに見えるのは、天窓の向こうに透けて広がる真っ青な空。
意識するよりも先に手足が自然に動き、たっぷりの時間をかけて少女はその体を起こしていった。
下から吹き上がってくる風がなめらかな柔肌に触って髪を揺らし、新たな情報として意識に刻まれていく。
髪の隙間から流れた水滴が、あどけなさを十分に残した少女の顔の輪郭を伝って首に落ち、集まって大きくなった水玉が胸の淡い膨らみを滑っていく。
うつむくように視線を上から横に下げて少女は、自分がいる「ここ」を見た。
「――――――――」
そこは、巨大な〈擂り鉢〉の底だった。
千人は優に収容できるほどの広い空間が底から広がるように円形の段を何十段と連ね、その段の一つ一つを、人一人が十分に入ることのできる大きさの卵に似た物体が埋めている。
逆の引力に引かれるように少女は二本の脚で立ち上がり、周囲を見渡した。
百……二百……五百、いやもっとはあるだろうか?
白い底面に透明の蓋を被されたその〈カプセル〉は整然と並べられ、心に迫ってくるような偉容を誇っていた。
自分もその〈カプセル〉の一つに入っていることを知り、二歩進めば手を触れられる距離にある隣の〈カプセル〉に少女は視線を移した。
その透明の殻の向こうに見えたものに――少女の大きな瞳が、わずかにその膨らみを増した。
〈カプセル〉の中には、少女が横たわっていた。
手足を真っ直ぐに伸ばし、目と口を閉ざして満たされた透明の液体の中にその裸体を浮かべていた。
そこにいる――誰なのか、何故いるのか、そもそも生きているのか死んでいるのかという疑問を浮かべるまでには意識は動いていない。
反射的に、反対の〈カプセル〉目を向ける。
そこにも同じように、裸の少女が人工の卵の中で眠りについていた。
肩まで垂れた髪を揺らし、少女は周囲を見渡す。
この広大な空間を形成している〈すり鉢〉のほぼ全てを埋めている卵の中身全てに、眠る少女が一人ずつ入って音のない寝息を立てていた。
眠る少女、少女、少女……その全てがそれぞれ違う顔立ちをしているはずなのに、殻の向こうに見える顔は全員がほぼ同じに見えた。
違う顔、違う髪、違う体の少女達がみなみな全員、同じように眠りについている。
それはいったい、どういう意味を持っているのか?
思考はまだ巡り始まらず、何をしたいのかもわからず……いや、何をしたいのか考えることもできない空っぽに近い心を抱いたまま、少女はその場に立ち尽くしていた
突然、空間内に鳴り響いたけたたましいサイレンの音が少女の耳を叩いた。
同時に〈カプセル〉と〈カプセル〉の間に据え付けられた無数の黄色い照明が激しく明滅し、空間全体を光の狂乱に染め上げる。
正視できない光量と皮膚に響くほどの大音量が無遠慮に暴れるのにも関わらず、〈カプセル〉の中に横たわる少女たちのまぶたは震えもしなかった。
光と音の洪水に少女が身じろぎすらできない中、何人かの人影が気配も感じさせずに姿を現した。
〈擂り鉢〉のそこかしこに開いている通用口から現れた、一様に白い服を着たその人々。
数人と見えた白衣の人々はすぐに十何人、何十人とその数を増していき、〈カプセル〉の中で立ち尽くす少女を遠巻きに囲むようにして見下ろしている。
自分と違う第三者たちがいるという認識が、少女の中でまだはっきりとしたシルエットを結ばないうちにやがて光と音はやみ――その空白を埋めるように、無数の乾いた音が鳴り響き出した。
少女の〈起動〉を目の当たりにした白衣の人々が、それぞれに両の手をぶつけて音の渦を生み出していた。
いつまでも鳴り止まぬ拍手の嵐に身をさらして、少女は自分の胸を満たしている思考の霞が少しずつ晴れていくのを知覚する。
自分は誰なのか。
自分は何故ここにいるのか。
自分は何処に行くべきなのか。
自分が生まれたことさえ、無垢というには白すぎる今の心ははっきりとは認識できない、産声の上がらない誕生。
その目が初めて外界に向けて開かれたこの瞬間……定められた宿命の道が音を立てて目の前に拓かれたことを、まだ目覚めきらぬ少女はまだ知ることはなかった。
* * * * *
太陽系第三惑星、地球。
かつてこの星には旧い文明があった。
その、何万年もの時間をかけて人類が営々と築いてきたものの全てを滅ぼした〈大崩壊〉。
四つの古い大陸が沈み、五つの新しい大陸が浮上してきたこの星で、西暦はその命脈を絶たれ……文明と共に世界は一度死んだ。
災厄は地上だけに留まらない。
天上において時には赤く時には青白く輝いていた月は、無残に砕かれ散って姿を消した。
その代わりに、毒々しい色を放って輝く二つの月――〈赤い月〉と〈青い月〉が現出し、その新たな衛星は宇宙にそして地球に小さくない阻害をまき散らし始める。
かろうじて……本当にかろうじて生き残った人々は、破壊されて荒涼と化した大地を前に絶望し、しかし生き残るために再び立ち上がった。
それは、暦を刻む余力すらないほどの苦闘の連続だった。
混乱と困難が幾度となくその前に立ち上がり、打ちのめされる度に人々は涙を流しながらその体を起こす。
ほんのわずかに残された旧文明のかけらを手がかりに、人々は新たな世界の建設に汗と血を流して従事し、膨大な時間をかけて再びの文明を築き直していった。
やがて、途絶した西暦に代わって〈悠暦〉という暦が定められ、人類はその手にもう一度歴史と世界を取り戻した。
……取り戻した、そのはずだった。
新たな世界を侵食しようとする旧世紀の愚行の残骸。
過去の痛みを忘れたがためにまたも繰り返される人間同士の争い。
新しい暦が二世紀に届こうとしても混乱は収まらず、人々が命を繋いでいくことに疲れを感じ始めていた、そんな時代。
そんな時代においても、人々はその手に一縷の望みを握りしめていた。
その名は〈フェイリス〉。
そは人の姿を与えられ、人とは違う力を持ち、人と同じ道を歩もうとするもの。
彼の人は人類と寄り添うもの。
そして、人類と共に歩んでいくもの。
たった一つの希望と歩を同じにして、今――新しい歴史と物語が回り始める。