悔いたらバチあたり
あなたの人生を肯定してください
私は半世紀を生きてきた。子供の頃、といえば日本経済成長期の真っ只中。3人兄弟が平均的で父親は働く、とにかく働く。母親はまだ専業主婦が当たり前の時代。
社宅に住んでいたのだが、遊び友達は今とは比べられないほど、困ることなんてなかった。上も下も男も女もごちゃ混ぜだ。喧嘩でもして気まずくなれば勝手に家に帰り、また落ち着いたら飛び出す、そんな毎日。でも日曜だけは様子が違う。そこに父親という大人が交ざり、いつものようには子供同士で遊べなくなる。たまに「一緒にどうだ」と誘われたりもしたが、なんだか恥ずかしくて、やはりつまらなくなり家に帰るのだった。
建設業に携わっていた父親は青森から上京してきた田舎者だ。母親と出会ってから、そのいわゆる「俺についてきて欲しい」と伝える事自体を、北海道出身の母親へ当時の青函連絡船の出航間際に言い、オッケーだったらそのまま連れていくという、なんとも強引なプロポーズをしたらしい。母親は、自他共に認める美人の姉をもつ妹でかなりのコンプレックスがあり、誰でもいいからもらっておくれ、みそめられたのなら、ついていけと言われていた。その運命の場所へは少しの着替えと、商売をしていた両親からの選別を携え、田舎を捨てる覚悟を決めてむかったのだ。もう待てない時間ギリギリに彼女の姿を見つけ、崩れ、立ち上がり、抱きしめて「よく来てくれた」と、小さな細い体を包み、吹雪のなかの感動的なシーンは今では決して味わえない熱いものが溢れていた。
社宅住まいは、収入を得る旦那さんにとってはありがたいものだが母親の立場はかなり窮屈だったようだ。筒抜けのようでよそよそしさも持ち合わせており、役職がそのまま夫人のランクになるのだ。これがとにかく面倒くさい。少し前まで対等だった奥様が上から目線になり、母親は病んだ。父親が横浜の商店街の改修工事をしていて、当然だが夜中の仕事になり朝帰りが続いた時は「浮気している」と噂になり父親も「誰も引き受けたがらないキツい仕事を俺は請けた」とプライドがありながらも、やりきった後には引っ越しを決意していた。
毎週のように新築マンションのモデルルームや一戸建てを見に行った記憶がある。私は「一軒家」「階段のあるおうち」が気に入った。場所も辻堂だ。いまは駅前にショッピングモールやその他の複合施設、総合病院が集結しており、海も近い。ここに住んでいれば近所のスーパーがショッピングモールになるはずだった。惜しい、非常に惜しい。後で聞いた話、父親はそこが良かったらしいが母親は「鷄フンのにおいがする」といい、反対だったと。いまは全然風の強い日ですら漂ってはこないのに。結局は神奈川県内でも大きめな相模原市で無口な学生時代を過ごし、私は高卒で合併したての都市銀行へ就職した。研修は大手町。夢のようなOLライフが待ち受けていると思ったら配属先は東林間。近所すぎて、張り合いがない。結婚相手も見つけることなく、吸収された側の先輩からのイジメにも耐えられず2年で退職してしまった。そこからは一人暮らしをはじめ、派遣で食い繋いでいった。私が娘ひとりだったので安全に配慮し、バス停の目の前にと分譲マンションを選んでくれたのに、親の思いも知らずにとっとと家をでてしまった。兄も留学をし、さらに編入までして長いこと日本におらず、弟も地方の大学にいき、そのまま都内へ就職。子供部屋だった3つの個室は、あっという間に母親がハマった通販と百円ショップの小物で一杯になり、いつでも戻れる実家の様子は微塵もなくなっていた。
そして私が23歳の頃父親のツテで実家近くの設計事務所に腰を据える事になった。初めての職種だったがタダの電話番、役所への書類提出から最終的には見様見真似で設計図まで書けるようになっていた。そして27歳で別れ婚期を逃すと、中古だがマンションを手に入れシングルライフまっしぐらの予定だった。
今では婚活・アプリ・出会い系なんて当たり前だが当時はまだマイナーだった婚活パーティーに、本気の友人の付き添いで参加し図らずとも30歳で人気No.1なり、その中のひとりとなんとなくお付き合いしてみる事になり、デキ婚をした。支払いが出来ないからとマンションを引き払い、間借りをして義母と同居することになってしまったので、週1回、実家に我が子と共に遊びに・息抜きにいっていた。2人目を授かる頃には母の余命がわずかとなり、動ける限りは「梅の花」の個室で毎週のように外食をした。下の子を産み、膝に抱く事はできたが日に日に弱り、入院を余儀なくされた母親は、研修医の若者に恋をした。「やめてくれ」と「好きにして」の苛立ちで恥ずかしさから見舞いもそこそこになったが、父親は最後に口に含ませたトマトが美味しいと喜んでいた母親に、心から「今までありがとう」と言いながら手を握り、一度帰宅したその晩がヤマとなり、朝方兄1人が見守る中、息を引き取った。乳がんからの転移はリンパや骨を素早く蝕みわずか62歳。私はあと干支を一周したらその歳を迎える。
そして献身的に介助してきた父親に休む間もなく家の片付けという仕事が残り、ぼちぼち私も週一で手伝いながら、残業廃棄物処理業者に何度往復してもらったからわからないほどの母親にとっては宝物だったゴミを処分した。そのなかで、過去の手紙や母親の若かりし頃の写真などが出てきて、興味ばかりで読みまくった。自分を姉に劣るブスだと言ってたが、全くそんな事はなく、昭和女優のブロマイドのようなショットがいくつもあった。それを見るまでは私の母親は太っていたという印象しかなかったのだけれど、今の私がまあまあなのは、なるほどなと思った。そして衝撃だったのが手紙だ。正式には父親との文通。母親に聞いた事はあったが、出会いなどは、忘れたとはぐらかされていたが、確かに惹かれあっていた痕跡はあった。そして父親はキチンとそんな大昔の事を覚えていたのだ。感傷に浸れていたのは束の間、色違いの何組もの羽毛布団や毛布、台所から出土してくるサビた缶詰。賞味期限が10年以上前がゴロゴロ。瓶詰めの珍味はこげ茶色になり、泡が浮き、通販のうたい文句に踊らされて購入したお買い得価格の高級品は、無残な結末を迎えることになってしまった。
父親が温泉療養という名目で生まれ故郷の青森に滞在する事がもう何年も前からあった。キッカケは葬式だ。そんなもんである。家出同然のように田舎を捨て、本家の権限を弟に譲ったのだから。ただ父親はキチンと向き合い供養をしたいと申し出て兄弟の家を巡りながら長旅をしていた。そんな中で出会ったのであろう、おそらくは母親がまだ病気である頃から、親しい女性だったと思われる10ほども下の彼女とのケジメをつけたいとした結婚には「アンタもか」と少しホッとしてしまった自分がいた。
青森に引っ越してしまった父親には年に1、2度しか会わず、ゴミ屋敷のような実家もなくなってしまった。「母親だと思って」とチャキチャキ動くお嫁さんは、やっぱり私にとってはお母さんでもなく友達のようにもなれない。なんだか、こちらが「残り少ない人生、勝手に生きてくれ」と放棄でないエールは送る。が、寄り添いたいとは思えないのは、彼女がまだ現役で家族を取り仕切る立場にあるからだろう。父親は90歳越えの彼女の母親と同居だが、それが数年だとみこんでいたのだけど10年近く経とうとしていて「俺が先にくたばりそうだ」と、その生活にさらなる前途多難を想像せざるを得ないなか、コロナ渦も相まって、自重の毎日が苦しみにならないかと、たまに連絡をとりあってはいるが、顔や老いぼれた様子はいつになったら目にする事ができるのか。次に会う時が危篤では寂しすぎるから早く仙台あたりで一泊、思い出話でもしたいもんだと考えてはいる。
私の兄は独身貴族で、弟は工務店社長の娘のところへ婿に行く予定が破談になり、体を一時期壊して実家療養後に再就職したが、無断欠勤でクビになり、学生時代にブラックリストに載るような汚点を抱え、父親に多額の借金をし、返済したものの、今はどこで何をしているやら。まともなのは私だけだと言われ、残念ながら叶わないであろう「甥っ子・姪っ子」は、夫の亡き義理の妹が残してくれた2人が、今でもウチの子と年は離れているが交流してくれているから、幸せかなとは思う。
義理の父親はすでに70歳をこえているが、まだ必要とされている会社に残り大阪で働いている。数年前まで両親と住んでいだが、認知が進み、故郷の高知の施設で順番に息をひきとり、そこからはやっと、夫婦だけのことを考えて余生をいきていこうとした矢先に、ちょいちょい病気のデパートだった義理の母親が痛みに耐えきれず、その生涯を終えてしまった。
この家は呪われているのではないかと思うほどの不幸続きだと実感してしまう。私の母親は何年も前からあった病巣だから仕方ないとして、まだ36歳で義理の妹を、大往生だが曾祖父・曾祖母、義理の母をわずか数年であの世に送る事を自然の摂理と捉えようもない。最近は金縛りのような体験に霊感のない私や娘がハマり、気胸くそ悪い。息子は重症ではないが怪我が絶えない、幸せだと思っていた家庭はこのまま大惨事なくゆきすぎていってくれるのだろうか。
家相診断やお祓いもやってはみたいが、沼地で水害の危険を避けられないこの地に住み続けることを既に嫌だと感じている私が相談などしたら思うツボだ。でも、駅前に素敵なマンションがいくつも建ち、コンパクトでいいから独り身になったら住みたいと、今から願っていることは黙っていなければならない。
もう一つ夢はある。若かりし頃、女優を夢見た。付き人をしていた時、その息子さんに大変なご迷惑をかけ、肝っ玉の小さい私は呆気なくその世界を退いた。まだ片足のつま先の爪くらいしか突っ込んでなかったのに。その大女優の息子さんは今ではやんちゃな大御所となり、当時の荒れていた様子はすっかり削ぎ落とされ、出演している作品は「観たくなる!」そんな方になっているからこそ、余計にその迷惑な話をしたくて、向こうが忘れていても言いたくて、はやく下積みをはじめて「遅咲きのバイブレイヤー」とキャッチコピーを提げて、老人役をそのままで謳歌したいと野望をいだいているのだ。だが、思いのほか外見の老いが緩やかで60歳ではまだ、理想の老女になれる気がしない。残念ではあるが生まれ変わりで子役デビュー、いっとき学業優先でセーブし、20歳少し前で再ブレイク、地道にキャリアを積み、結婚・出産をし主婦業を優先して、40歳でまたポツポツ仕事を始め、生涯現役の俳優。そんな人がこれから私が亡くなって七回忌をすぎた頃に現れたら、それは私だ。来世を楽しみに、今は与えられる試練をひとつひとつ糧にして人間をやっていこうと思う。
私は私の人生を流されるままも、切り開くもやってきた。両親はどうだろう?夫の家族はどうだろう?子供達はこれからをどう生きるだろう?私はいま、亡き人がいるからこうやって振り返る事が出来る。色々な思いを想像したり、いいようにも解釈できる。自分の人生は、生きているうちに、一度振り返ると良い。最近は残される家族が遺品整理に追われないようにと暇さえあれば断捨離をする。いつか使うだろう、着れるだろうの年齢にはリミットがあることを知った。今はいつ何が起きても後悔はない。
子供達はもうすぐ巣立っていく。現在18歳の上の娘はゴキブリと暮らせないから、ずっとこの家にいると言う。中3の下の息子は綺麗に一人暮らしの家を満喫したいが、1人じゃ寝れないかもと、離れがたい様子。ありがたいことに「ママなしじゃ生活が成り立たない」と現在プチ入院している私にあなたが必要と推してくれる。そんな私は華のある人生だと誰かに自慢しなければならない。
前向きこそが後ろ向きの余韻