アオゾラノート〜シンジケート〜
俺、いつからこんなになったんだろう……
思えば、「俺」を天気に例えると生まれてからずっと【雨】だった。
物心ついて見た景色は絶えず夫婦喧嘩で、劈くような親父の怒号と怯える母の声に幼心に気を揉んでいた。
10歳の頃に酒豪が祟って父が逝き、永く居座った雷雲が退いてようやく俺たちの人生に太陽が登ってきた……
はずなのに……
それなのに……
今、母さんが亡くなる。
「秦さんは、たくさんの人に囲まれて、愛されてお空に行きなさいね……約束できる……?」
そう言いながら頭を撫ぜられた。
「……余裕。それより名前で呼んでよ、他人行儀だからさ。」
嗚呼、何でこの時に時間が止まれなんてガキくさいこと願わなかったんだろう……何で逝かないでと泣き噦らなかったんだろう……
「じゃあ……そろそろ逝くからね。頑張ってね…逝ってきます、秦司……」
「……逝ってらっしゃい、母さん。」
声が聞こえなくなるのにつけてぼやく。
「もう帰って来ないくせに……」
山を作っていたモニターが急に地面に着いて煩い電子音を鳴らしている。
その傍らで悔やむように俺は母の熱を探していた。
どこに触れても冷蔵庫の中みたいになった後で、緑の球を引く。
「向田さん、どうなさいました?」
俺はしばらく黙っていた。
『死』に繋がることにはどうしても歯が浮かなくて。
「今まで……お世話になりました……」
俺がスピーカーに向けた言葉はこれだけで、頬が微かに熱かった。
それから6年、俺は義務教育が終わるまでは児相で暮らし、母さんが死んだ頃ぐらいの歳のガキの扱いが上手く本職も舌を巻くレベルだったらしく、下の奴らからだけじゃなく寮母さんからも「お父さん」と呼ばれていた。父という言葉にはいい思い出はないんだけど……
そして高校進学を機に寮を出て一人暮らしをすることに。もちろん家賃は安いが。
「秦さん、気をつけてね……」
「なんか……いろいろあざっした。暇な時帰ってきます」
「1人でも頑張るのよ」
「うす」
自分でもこの受け答えはちょっとあんまりなんじゃないかと思ったけど、なぜか知らぬがこれしか出てこなかった。
「やっと着いた……だりぃ……」
たった7年で口調が様変わりしてしまった。記憶の中の自分は怠いなんて吐いていない。
しかし、変わっていたのはそれだけではなかった。いや、これに比べたら口調の変化なんて可愛いものかもしれない。
「ウソだろ……」
備え付けの鏡で見た自分の像に俺は愕然とした。
零れそうな一重の眼、それに貼りついたみたいな小さい黒目、猫背にボサ髪……褒められたのは長身と筋肉質なことだけで若者らしいハリもないという散々な容姿である。まぁ、ケツから言えばとても16歳には見えないほど老け込んでいた。
若くても23〜4だろこりゃ……
「ぶはっ……どー見てもオッさんじゃねぇか……そんなに人生つまんねーんだな俺……」
俺は一人で爆笑していた。泣くでもなく喉から音が出ない程に落胆するでもなく真っ先に自分へ嘲いがこみ上げてくるあたり、自分が生い立ちでどんなに醜く派手に荒んだのが見て取れてさらに笑えてくる。
酷いなぁ、俺。
高校生になっても、荒んだ心は人との芯からの付き合いをよしとせず、己の不幸や畜生さを肴に、気持ち良くなったり沈んで自分をさらに凍てつかせたりする日々が続いた。
上辺では、前と似た「大人びた頼りがいのある同級生」という評価を受けているが、俺からしたらその日を食いつなぐのに必死で周りが鬱陶しかった。
周りの「何不自由なく青春を謳歌する」様が忌々しかったのだ
この時の俺は「他人の日常」に自分を重ねて勝手に落ちぶれて、愚かなことに嫉妬ていたらしい。その想いが募るたびに俺の【嵐】は酷くなっていった。
そんな俺の腐りきった心が少し和らいだ、雨続きの空模様が変わったのは高2の時、ある転校生との出会いだった。
「森嶋圭斗です、見ての通りこんなナリですがやれることは積極的にやってきますんでよろしくお願いします!」
そう言いながらニカッと笑うのは車椅子の上。
担任が「森嶋は生まれつき脚に障碍があるんだ。みんな、彼が困ってたら優しくしてやれな。」と付け加えた。
続いて「誰かついてやれるやつは……」と目玉を動かし始めて俺を指差した。
「向田!無理じゃなければ、身の回りのこと手伝ってあげてくれないか?お前面倒見いいし、お互い1人でいるのも疲れるだろ。」
先生のハラとしては、自分が積極的にサポートに回んのは無理だししたくもなくて、2人に総合利益な関係を構築しようとしてたんだろう。
要約すると足の悪いヤツの世話をしろということなのでヒトが嫌いな俺は断ろうと思ったが、再考してみると、親はいるけど半径1キロの生活もままならない俺より哀れな人間だということに帰結した。そんなこと思うのは至極失礼で、今なら謝り倒したいんだが、似た身の上の仲間を見つけたと内心浮き足立っていた。
「俺に務まるならやらせてください!」
「言ってくれると思った!じゃあ森嶋、向田の隣に座れるか?」
「よろしく向田くん」
「俺のことは秦さんって呼べ、急に名字は変な気分になる。」
「わかった、よろしくね。秦さん!」
それからその1日だけでもいろんなことをやってやった。
ただし気がかりなことが……
「車椅子使わなくていいのかよ?」
「大丈夫!オレ、そのままでも結構歩けるから!……アレは一応持ってけって言われただけだし。」
「そーかよ……」
「でも、気にかけてくれてありがと。今日のもいろいろと助かった。」
「おう……」
こいつ、どうなってんだ……
俺の圭斗への第一印象はそんな感じだった。
その後も圭斗は『出来ること』を存分に実行した。
そう、まるで普通のヤツとなんら変わらずに。移動が遅いのと手が不器用なの以外はお茶の子さいさいなのだ。
人並みにできることがあるんなら……こいつも周りと一緒だなぁ……なんて思ってると変な気を起こしてしまった。
こいつを依存させて、何もできないようにさせてしまえば俺より下の存在になる……こいつより上に立てるんだ……!
気が狂った俺はどうにか自分を望ませようとあれこれ画策するようになった。
「それ自分でできるから!」
「無理すんなって。……怪我でもしたらどうすんだ。」
「……」
多少不服そうだったが、これから思い通りに行くと思っていた。
ある日のこと……
「秦さんってなんでもできるし、イケオジって感じがする、羨ましいよ!」
「オジって……そんなことねぇよ。」
「なんでそんな大人びてるの?」
「そんなこと気にしてねぇけど、人は……何か大切なものを失ったら大人になるんじゃないかな」
「へぇ……」
含みのある言い方に気がかかったが、やつが俺に興味を持ち始めたことに感触があった。
「秦さんの家行きたい!」
「べ、別にいいけど……」
予想外の申し出にたじろいたがとりあえず承諾した。
「じゃあ、俺バイト行ってくっから。適当にくつろいでくれ、泊まんだろ?」
「うん。」
言い方は悪いが、彼を置くだけ置いて俺は扉を開けた。
秦さんが出てって暇だったから、部屋を散策してみることにした。
ベットのシーツも乱雑に引き剥がされてるし、服も脱いだまま積み重なってる……酷いまでにズボラだった。
こんなんじゃゴキブリとかも沸いてんだろうな……なんて思いながらTVをつけようと立ち上がった矢先に、椅子に置かれた大学ノートに目がいった。
「……青空ノート……?」
乱雑な字で彩られた題字の下にシールで【東京都新宿児童相談所 々有品】と貼ってあった。
(ウソでしょ……なんかやらかしたとか……?)
無意識に1番最初のページを開いた。
【7.4(月):母さんが死んできょうからここが俺の家だ。】
単調な1・2行の日記が続いて面白みがなかった。でも3冊目だろうか。眼を引く文言があった。
【12.22(木):なんかみんな満ち足りた表情をしてる。親がいないことを5年経って引きずってるのは俺だけだった。なんでここにいるんだ?…なんで孤児院じゃなくて児相なんだろう。他人の笑顔を見ると最近自分が嬲られてる気がして気分が悪い。】
低学年用に絵を描くスペースには女と男で【俺】の字を挟んだような字がデカデカと書いてあった。
「嬲る…?この字どっかで……」
思い当たるのをスマホで調べてみた。
【なぶ‐る【嬲る】《五他》
困らせたりいじめたりして面白がる。「浦島太郎は子供の―亀を助けた」。もっと軽くは、からかう。】
「身寄りのない自分が同じような境遇の子たちが笑ってる姿を見てるうちに嫌になったのか……それで女俺男るってことね……」
「たでーまぁ……」
目頭が熱くなってきた頃、彼が帰ってきてしまった。
「たでーまぁ……」
そう言った瞬間に1番みたくないものを見ていた気がする。
「見たのか……それ」
圭斗が俺の過去を持っていたのだ。知られたんだ。
「ごめ……」
「なぁ!どこまで見た!……答えろ、森嶋ぁ!」
彼の謝罪を聞き入れる前に俺は胸ぐらを掴んだ。
「さい……ごまで」
あぁ、もう少し早く帰っていたら……
「何でそこまで歪んだ!」
は?
「ただ親が死んだだけで嬲られたって書くぐらい腐ったんだって聞いてんだよ!」
死んだ『だけ』……?
「うるせぇ!親がいるお前にわかるか!俺はずっと耐えてきたんだよ……何もできねぇお前が偉そうに説教垂れてんじゃねぇ……!」
「辛いの3文字も言えないのか?……言いたくないんだよな?……自分が憐れるのが後追いより嫌だったから!」
「……!」
「これ以上かわいそうだと思われたくなかった……自分が一番わかってるから。」
……全部見透かされてる。こんな奴にまで……
「ウゼェんだよ、何もわかんねぇのにさぁ!」
俺はハサミを突き立てた。
「刺せば?……早く刺せ!」
ムカつくから刺したい。けど刺したらこいつは多分死ぬ。死んだらいずれバレてしまう。バレたら俺のこの先は?それより前にこいつの親は?……子供を失った親の心境は?……俺よりずっと憎むに決まってる。息子の不運を憂うに決まってる……その侮蔑の矛先は……俺だ……自分が一日先を生きるので精一杯なのに、その闇夜より深い感情を背負い込むのか……?生きる希望を奪うのか?……俺がされたように。俺に罪を償えるのか……?
分からない
わからない
ワカラナイ……
わかんねぇよ……!
「……出来ない……」
「そっか…やっぱ今日帰るね。また明日。」
「ひと、りで帰れるのか……?」
「うん、近いし。」
森嶋が帰った後、俺は布団に蹲っていた。
言われようのないような罪悪感に襲われたからだ。
重怠い気分のまま、起き上がって越してきた時に作った即席の仏壇の前に座る。
なぁ、母さん……さっき友達に怒られた……もう友達でもないかもしれないけど。
「おかしいよな、俺。自分より下の存在にしよう、依存させようなんてさ……」
不意にこみ上げてくるものは……自分に向けた嘲笑だけだった。
本当に今すべき表情はこんなんじゃないはずなのに……もっとすべき行動が、……『出来ていたはずの』ものが……
「母さん……何でだろ、笑えてしかこない。こういう気分のときにやるのってこんなんじゃなかったよなぁ……」
ねぇ、母さん…でもそれの名前だけは憶えてるんだ……
……『泣く』って、どうやるか憶えてる?————
次の日、俺は森嶋とは話す心持ちにはなれなかった。申し訳なくて、恥ずかしくて……
放課後、案の定彼に呼び出された。
「きょう全然喋んないじゃん。もしかして、昨日のこと引きずってる?」
「そ、それは……」
正直にはい、引きずってます。なんて言えるわけないだろ……なのに目の前の相手はそれをわかってやってる……
ズルい。それだから俺に心のゆとりがなくなるんだ……謝りたくても謝れなくなる……って、またヒトのせいにしてんなぁ……
二の句が告げなくて、俯いた。きっと顔は絵の具塗ったくったみたいに真っ赤なんだろう。変な自尊心の仕業で更に暑くなって口が重くなる。
はやく……早く謝んなきゃいけないのに……
「ほんと酷いよね……オレのこと依存させようとしてたなんて……まさか障害者より自分が充実してたから嫉妬したの?ダサ……」
「わかっ…てるよ、そんなの……」
まだ強がってしまう、もうこれで納得してくれ……もう俺に塩塗って貶さないでくれ……虚しいのはもう腹いっぱいなんだよ……!
「わる……」
「でもさ……『頑張ったね、秦司』。」
「っ……!」
何かが顔の上から伝ってきた。シャツが濡れてる。
泣いてんのか……?俺……
そっか……俺ずっと頑張ったねって言われたかったのか。
『頑張れ』じゃなくてこの言葉が欲しかったんだ。
母さんがいつも言ってくれてたから……
圭斗の声が母さんと重なる。
もう止まんねぇなこれ……
「か、あさん……母さんっ!」
違うのに抱きついて泣き噦ってた。
「ごめん……ごめんなさい……」
結局、雨に降られたぐらいに濡れるまで泣いた
それは……【あの日】本当にしたかったこと。夢想してたことだった。相手は違うけど。
雲が晴れた瞬間だった。
そして、現在に至るわけだが……結論からいうと俺たちはマブダチになった。というか、当初の目論見とは真逆の方向に帰着した。俺があいつに依存気味ってわけだ。
「秦さん!」
「あっ、ちょっと待て!化粧水塗ってっから!」
「心はちょっと水を得たけど身体はおっさんのままってことか」
「……うるへぇ……!」
「また潤んでるよ?」
よくいじられるようになった……見た目もちょっと進んじまったし……涙脆くなった……少し遊ばれたらこのザマだ。
「かわいいおじさまだな……」
「まだ未成年だっつの……!」
今すっごい楽しいけど、後一年したらこいつと離れ離れになるのか……?なんか嫌だ……
「なぁ、……お前卒業したらどうすんだ?」
「何急に……秦さんは?」
「大学。でもお前は働こうと思えば働けるんだろ?」
「……また怒られたい?」
「……悪い」
「俺も大学行くよ、秦さんのとこ」
「は?」
「秦さんに嫌だって言われたら、障がい者雇用使うけど?」
嫌?嫌なわけない!……むしろお前とずっと一緒にいたいのに……
「嫌……じゃない。というか、ずっとそばに置いておいて欲しい……軽く圭斗に依存した。俺を1人にしないで…最期に眠るまでお前の顔が見てたい。」
彼はしてやったりみたいな顔で「へぇ、それって告白?前から気に入ってたもんね、オレのこと」とニヤニヤした。
「告ってない!……気に入ってはいるけど…」
「いいよ、看取ってあげる」
また泣きそうだ……
「あんがとなぁ……!」
「うわっ、車椅子ぬれちゃうから……!ステイ!」
「了解!」
「泣き笑いとか……ほんとかわいい。」
「じゃシンジケート結ぼうか」
「シンジケートってなんだっけ……?」
「2人の個性をつなぐためにすること」
繋がってるなら……安心できる。でももう大丈夫だ。
「……でも、作っても作んなくても、2人なら……」
「おう!……俺らなら……」
『大丈夫だな!』
母さん、こいつに友達でいたいって思われてるならなんとなく平気な気がする……少しぐらいの依存なら……いいよね……?
こいつが隣にいれば、正しい道を歩ける自信があるから……
【シンジケート(英語: syndicate、ドイツ語: Syndikat)とは、製品の共同販売に関する独占形態のひとつで、共同販売カルテルの発展した形態[1]。シンジケーション(英語: syndication)。但しカルテルと違い、企業の独自性は保たれている。】