藤野屋
そうこうしている間にも二人は川原の土手を上がり、いくつか通りを抜け、塀で囲まれた大きな屋敷の前に来ていた。門の奥に赤い提灯が見えた。門には看板も表札もない。
二人は門を抜けて玄関に向かった。玄関に辿り着く前に中から女将らしき年配の女が現れて二人を迎えた。
「藤野屋はここか?」
「はい、これはこれはいらっしゃいませ。お約束のお客様でしょうか?」
「賭場の親方の紹介で来た。これで一晩だせるだけの物を出せ。」
男が重そうな袋を懐から取り出し、女将の手の上に乗せた。ジャラッと金属の擦れる音がした。
「ああ、親方の紹介の方ですね。お待ちしておりました。どうぞどうぞこちらへ。」
ほくほく顔の女将が二人を奥へ奥へと案内する。
複雑に曲がりくねった廊下を通り抜けているうちに暁はもう出口がどちらか分からなくなってしまった。二人は渡り廊下を渡って離れらしき一室に通された。
暁は緊張して体がガチガチだった。
あまりに手抜きな男装で、すぐに女だとばれはしないかとか、今まで縁もゆかりも無かった世界に飛び込んだ様で、無事にここを出られるのかとか、すっかり不安になっていた。
二人が席に着くと程なく豪華な料理を乗せた膳が運ばれ、着飾った艶かしい仕草の女達が入って来て、二人に酒を勧めたり、音楽を奏でて舞を舞ったりし始めた。
暁は自分が余りにも場違いな場所にいる事に気付いていたたまれず、折角のご馳走もあまり喉を通らなかった。
隣の男はというと、料理には手を付けず酒ばかり飲んでいる。ギクシャクしながら女の酌を手振りで断っている暁を横目で見てニヤッと笑うと、暁に追い討ちを掛けるように傍の女に、
「そいつはこういう場になれてなくてな。女の扱いというものがまるで分かってない。手取り足取り色々教えてやってくれ。」
などと言うものだから暁の傍にいた女達はそれまで以上に暁にかまってきた。
男は暁をからかって楽しんでいる様だった。
『何てこと言うのよ!』
いたたまれなくなった暁はたまりかねて小声で男に声を掛けた。
「ちょっと!」
が、無視された。
思い切って男が名乗っていた名を呼ぶ。
「那由他。」
「うん?」
やっと男が振り向いた。
「少し気分が悪い。外の風に当たってくる。」
「ああ。」
返事はそれだけだった。人をからかって楽しんでいる割に暁の事をあまり気に掛けていない様子だ。暁は少しほっとして席を立った。
「すぐに戻ってらしてね。」
横にいた女が声を掛けた。
それを無視して暁が部屋を出ると、入れ違いに部屋にいる女達より明らかに格上そうな、豪華に着飾った女が部屋に入って行った。
「芙蓉にございます。」
甘く涼やかな声が聞こえた。
部屋を出た暁は、
「はぁ…。」
と大きく息をつき、やっと人心地ついて、置いてあった草履を履いて縁側から庭に出ると、何とはなしにうろうろと歩き始めた。
その頃、宿の玄関に新たな客が現れていた。
「まあ。これはこれは安部様。いらっしゃいませ。」
「急に芙蓉に会いたくなってな。部屋は空いているか?」
「勿論でございます。安部様のお越しとあらば他の客など追い出してでもご用意致します。どうぞどうぞ奥へ。三輪様も、十和田様も。」
女将は常連の三人を案内した。
「芙蓉を呼んで参りますが、急なお越し故、準備に少々時間が掛かるやも知れませぬ。暫くお待ち下さいませ。」
そう言うと、別の客の相手をしている芙蓉を呼びにやらせた。
「一見さんなんだけどなかなかの上客の様だから手厚く頼むね。」
女将にそう言われてしぶしぶ来たのだが、部屋にいたのはなかなか見目の良い男で、芙蓉も『これなら少し位相手してもいいわね。』と思っていた。だが、部屋に入るときにすれ違ったもう一人がどうも気に掛かる。『あれって女じゃなかったのかしら?』女連れでこんな所に女遊びに来るなど通常考えられない。『気のせいかしら?』そんな事を考えながら一通りの舞を舞い終わったところへ新しい膳が運ばれて来て、手付かずの膳の横に据えられる。それは、別の客が来たからこの部屋を下がれという内々の合図だった。確認するように膳を運んできた女中が芙蓉に目配せをする。
「粗末な舞で失礼致しました。」
そう言って料理が取り替えられている間に芙蓉は部屋を下がった。
部屋の外で控えていた女が芙蓉に耳打ちする。
「安部様がお越しです。奥座敷の方に。」
『正志朗様もお出でだろうか?』
芙蓉は期待に胸を膨らませた。
阿部は高峯の重臣でここの上顧客だった。その阿部の取り巻きで最近連れて来られた若者を芙蓉は密かに慕っていた。気持ちの悪い年寄り共に愛想を振り撒かねばならない中で、その若者は初々しく清廉で、芙蓉にとっては日照りの後の雨の様に干乾びた心を潤してくれる存在だった。たった一度だけ、阿部が酔い潰れた時、芙蓉は正志朗と一夜を共にするということがあった。正志朗自身も酔い潰れて何も覚えていない様だったが、芙蓉にとっては特別な夜だった。いつか正志朗の心を掴みたいと願ってやまない芙蓉は、正志朗の前に出るときは完璧でありたかった。
「今の舞で髪が少し乱れた。直してから行くから時間を稼いどいてって女将に伝えて。」
そう言って芙蓉は一人自室に向った。
奥座敷に通された阿部、三輪、正志朗は昨夜の鬼騒ぎの一件を酒の肴に盛り上がっていた。
「全く鬼が出たなどと誠でございましょうか?」
「奥方の侍女が鬼を見たと騒いだらしいが。」
「誠にございます。ただ、本当に鬼であったかどうかまでは楓殿も定かではないと申しておりましたが。」
「しかしその後お館様が連れて来たという娘が攫われたのであろう?」
「はい。お館様はしっかり鬼であるのを見たと仰せで、昨夜は大変な騒ぎでございました。」
「鬼は当初奥方を狙ったのだな?」
「それで見付かったので逃げて別の娘を攫ったということか?」
「奥方であれば鬼でなくとも攫いたくはなるがなぁ。」
「その攫われた娘というのも相当の器量だったのか?」
「奥方様には到底及びませぬ。」
答えながら正志朗は居たたまれなくなってきた。
叫び声を聞いて自分が思いを寄せる百合の部屋に駆け付けると、数年前に別れたきりの姉がいたのだ。おまけに百合の前で『春彦』などと元の名を呼ばれ、百合には「曲者じゃ。今すぐ切り捨てよ。」と言われ、咄嗟に姉を縛り上げて牢に連れて行ったが、寿命が数年縮まる思いをした。姉に対しても怒り心頭に達していたが、それでも冷静に機転を利かせて以前から父の金塊の隠し場所ではないかと気に掛かっていた最下層の牢に姉を放り込む事に成功し、父の遺産を探させていたのに、結果を聞く間も無く城主の成頼に助け出された上、その後鬼に攫われてしまったというのだから正志朗はあまりにも心配事が多すぎて気が気でなく、胃に穴があきそうな気分だ。その場の会話も苦痛でしかなかったのだが、目上の二人を前に不機嫌な顔を曝す訳にもいかず、下手な事を口走ってしまわないかと不安と緊張を抱えていたのだ。
阿部と三輪が何やら面白そうに話しているので正志朗は、
「少々用を足して参ります。」
と言って青い顔でその場を離れた。
なるべく部屋に戻りたくない正志朗は、ぐちゃぐちゃの頭の中を整理すべく庭をうろうろと彷徨い歩いた。
庭をうろついていた暁は、『このまま逃げ出そう』と考え、出口を捜していた。
高い塀を乗り越えるのは難しそうで、何とか玄関まで辿り着こうと入り組んで建てられた建物の周囲を歩いていたのだが、角を曲がったところでばったりと人に出くわした。しかもそれはずっと会って話がしたかった弟だった。
「春彦!」
暁の声に一瞬驚きを隠せなかった正志郎だったが、声の主をすぐに見極めた。
「姉上!鬼に攫われたのでは?何故この様な場所に?それにその格好は?」
「やっぱり春彦だったのね!何も言ってくれないからもしかしたら他人の空似かと心配してたのよ!」
「それより一体何があったのです?何故高峯の城に?それに何故上野成頼が姉上を助けたり、鬼が姉上を攫ったり…。何がどうなっているのか説明して下さい!」
久方ぶりの弟は何だか話し方もよそよそしかった。話すべきことは山のようにある。その中で一番に口を突いてでたのは、母のことだった。
「それよりも母上が亡くなったわ。」
「え!」
「ついこないだ。あなたが家を出て行ってから以前よりずっと弱ってたの。やっと冬を越したと思ったら急に。私が薬草採りから帰ってきて、気付いたらもう冷たくなってた。何で一度も帰って来てくれなかったの?母上はあなたの事をずっとすごく心配してたんだから!ここ数年、全然帰って来てくれない上に連絡もないからもう春彦は死んだんじゃないかって思ってた位なんだから!」
春彦を責め立てる暁は涙目になって声も震えていた。
「姉上、あまり声を立てないで。俺だって母上や姉上の事は心配だった。けど、やっと高峯城に出入りできる足掛かりを掴んだところだったんだ。もし母上や姉上に近付いて出自がばれたら二人にも危険が及ぶ。俺も漸く苦労してここまで来たのに肉親の情の為に危険を冒すなんてことできなかった。いつか、上野成頼の首を取って高峯城を本田の手に取り戻したら、必ず迎えに行くつもりだったんだ!山奥で暢気に暮らしていた姉上に俺の気持ちが、苦労が、どれだけ分かるって言うんだ!」
「暢気ですって?あなただってあそこでの暮らしがどれだけ厳しいかわかってるでしょ?」
「俺は敵の真っ只中で神経張り詰めて暮らしてるんだ。たった今だってそうなんだぞ!誰がこの会話を聞いてるか分からないんだ。なのに何も考えないで奥方様の前で俺の名前を呼ぶなんて、迷惑もいいとこだよ!姉上のせいで全てが台無しになるところだったんだぞ!俺にしてみればあの山での暮らしなんか十分暢気だよ。しかも何だよ、昨日の騒ぎは。奥方様に毒を盛るなんて一体誰の差し金だ?成頼か?奥方様に『曲者じゃ、切り捨てよ』って言われたのに姉上を切らずにいた俺の立場がどれだけ危うくなったかなんて分かってんのかよ?何で久々に会ったらいきなり実の姉を切らなきゃいけない状況になってたのか納得いくように説明してほしいね。」
春彦の言葉はもっともだが、暁にだって何が何だか分からないのだ。
「私だって何がどうなってるのかさっぱり分かんないんだから!山で怪我してる人を助けたらたまたまそれが城主の成頼殿で、私の出自はばれてなくて、『助けてもらったお礼がしたい』って言われて高峯城に行ったのよ。父上の城を見てみたかったし、こんな機会逃したらもう二度と廻ってこないかもって思って。それで奥方様からもお礼が言いたいから、って部屋に呼ばれて、その時小姓がどっかから持ってきた箱を届けろって言うから持って行ったらいきなり『毒をもられた』って騒ぎになって、そしたらあんたが急に出てきてびっくりして思わず名前を呼んじゃっただけなんだから!」
「じゃああの毒は誰からの物かわからないんだね?」
「ああ、それなら成頼殿が言ってたわよ。『百合にはめられた』って。自作自演の狂言だったみたいよ。」
「なんだってそんな事?」
「私だって知らないわよ!ただ、成頼殿の話ではあの夫婦は上手くいってないんですって。」
この言葉は百合に思いを寄せる春彦には思わぬ希望の光となった。
「で、鬼に攫われた姉上が男の格好して何でこんなとこにいるんだよ?」
話が本題に戻った。
「あ、そうだった。そう、それでその鬼にここに連れて来られて今逃げるとこなの。出口どっちか知ってる?」
一人自室に向かっていた芙蓉は庭に正志朗の姿を見付けた。
気になって近づいてみると正志朗は誰かと真剣そうに話をしていた。その相手は先程の部屋から出て行った『女ではないか』と芙蓉が気になっていた若者だ。遠く離れていて会話の中身までは聞き取れないが、かすかに聞こえる声の調子や涙ながらに何かを切々と訴える仕草に、芙蓉はやはりそれが女であると確信を抱いた。そして気になった。思いを寄せている正志朗が他の女と何を真剣に話しているのか?二人の仲はかなり親密そうだ。芙蓉はもういても立ってもいられなくなり、二人の方へと近付いて行った。
「今逃げるとこなの。出口どっちか知ってる?」
近付いて行った芙蓉の耳にやはり若い女だと確信できる声が聞こえた。
一方会話をしていた二人は、サッ、サッ、という衣擦れと足音にハッとして口を噤んだ。
「まあ、これは正志朗様。この様な所で如何なさいました?こちらのお方は?お知り合いでございますか?」
にこやかな笑顔で芙蓉が尋ねた。
「いや、少し外の空気を吸いたくなってな。こちらは今、たまたま通りがかりに厠の場所を聞かれただけだ。」
「左様にございますか。でしたら私がご案内致しますわ。どうぞ正志朗様はお座敷にお戻り下さいまし。」
芙蓉が暁を促す。厠の側に裏口があるのを正志朗は知っていた。不安そうに振り返る暁にこくんと頷いて合図を送る。それを見て暁は芙蓉に付いて行った。
芙蓉は暁を庭の奥の小屋に案内した。
「どうぞ、こちらです。」
「忝い。」
暁は扉の中に入ってみたが、どうもそれは厠ではなさそうだ。しかも暁の後ろから芙蓉も中に入って来て、後ろ手にカチャンと閂を掛けてしまった。
『え?何?どういうこと?』
戸惑う暁をよそに芙蓉は小屋の奥に向かって声を掛けた。
「爺、爺!ちょっと手伝って!」
「はいはい、これは芙蓉さんじゃないですか。こんな所に何の御用で?」
奥から灯りを手に持った老人が現れた。暗がりに照らし出された男の姿に暁は思わず「ひぃ!」と声を上げた。
曲がったせむしの背中。片目は潰れて白濁しているのに眼帯で隠すこともしていない。口元から覗く歯はガタガタでいくつも抜け落ちている。左手は小指と薬指が無く、指が三本だけだった。片足を引き摺りながら近付いて来る。
「ちょっとこの娘に聞きたい事があるの。素直に質問に答えるように手伝って頂戴。」
「へえ。お安い御用で。あんたも聞いての通りだ。大人しく答えれば手荒な事はせんで済むから素直に答えな。」
暁に向かってしわがれた太い声が言った。芙蓉が暁に尋ねる。
「あんた、十和田正志朗様とはどういう関係?」
「さっき聞いたとおり、通りすがりに厠の場所を聞いただけで名前も知らない人だ。」
「素直に答えた方が身の為だって教えてあげたのに馬鹿な娘だこと。爺、ここに連れて来られた娘がどんな目に会うのか教えてあげて。男に変装したつもりだろうが、こんなところにのこのこ女が冷やかしに入って来るなんて良い度胸だよ。」
「大丈夫ですかい?お客なんじゃ?」
「大丈夫。さっきここから逃げ出す事を考えてたみたいだから。連れの客も一見さんで旅の者の様だし。逃げ出そうとしていた娘が居なくなっても誰も不思議に思わないさ。せいぜい可愛がっておやり。私はもう行かなきゃならないから、後は頼んだよ。」
座敷に入るときの甘い声や先程正志朗に見せていたにこやかな笑みからは想像もつかないような冷酷な顔を見せ、芙蓉は小屋を出て行ってしまった。
男は芙蓉が出て行くとすかさず閂を掛けた。小屋の中には暁と男の二人きりだ。
『嘘でしょ?私、一体どうなるの?』
暁は泣き出したい気持ちで一杯だった。