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那由多

 花冷えにえた月が桜の肩に掛かり、満開の八重桜をぼんやりと照らし出す。その庭を見ながら百合は箏を爪弾いていた。戦乱の世に、京から落ち伸びてきた公家くげを父が拾い、その公家を師として習ったものだった。身分を気にする父が娘に公家の姫にも劣らぬ教養をつけさせてやりたいと願って取り計らったのだが、なかなか難しく、いつまで経っても思うような音が出なかった。一連のごたごたでもやもやした気分を紛らわせようと、また、自分が起こした騒ぎの追求をごまかしたくて、箏に集中しようとするのだが、上手く弾けず余計にむしゃくしゃしてくる。

 どうでもよい筈の夫が、取るに足りない小娘一人を助け出したという事実に取り乱すなど。自分で自分に腹が立った。

 「ひどい音だな。せっかくの風情が台無しだ。なんなら俺が手ほどきしてやろうか?お代は少々高くつくがな。」

 「何者!」

 「しぃ。静かに。」

 いつの間にか後ろから回された大きな手が百合の口を抑えた。耳元にささやく声。

 「邪魔が入ると面白くなくなるだろう?」

 後ろから百合を羽交い絞めに包み込む長い腕。百合は身をよじってこの不埒者ふらちものの顔を見ようと振り返った。

 「気の強いじゃじゃ馬だな。」

振り返った百合の頭は強い力で抑え込まれ、口は相手の口で塞がれていた。目に飛び込んできたのは二つの金色の瞳。身動きも取れず、叫び声一つ上げられなかった。こんな屈辱は生まれて初めてだ。あまりのことに、息が苦しく、意識が遠のいた。


 正志朗は平然を装っていたが、実は機嫌が悪いのを必死で隠そうとしていた。いきなり現れた姉のせいで様々な事が心配で、気が気でなかった。

 鷹頭山の奥で母と二人で暮らしている筈の姉が、正志朗が数年かけてやっと潜り込んだこの高峯城にいきなり現れたのだ。しかも奥方に毒を盛った疑いをかけられて。すんでのところで姉を切り殺すところだった。

「全く母上を置いて一体何をしてるんだ?」

 もしや母に何かあったのだろうか?それも気がかりだ。

 『上野成頼が鷹狩りで怪我をして地元の娘に助けられたと聞いたが、もしやその娘が姉上だったのか?』

 だとしたら父の仇をわざわざ助けるなど何という間抜けだ。怪我をして隙があるなら命を奪って父の仇を取ることだってできたはずだというのに。おそらく知らずに助けてしまったのだろうが、それにしてもよりによってと思わずにはいられない。

もともとぼんやりして頼りない姉だった。少し抜けたところがあるとは思っていたが、ここまでひどいとは!

奥方の毒にしてもあの間抜けな姉が何の理由があってそんな事をする必要があるというのか?小姓が持ってきたと言っていたので大方誰かの陰謀に利用されただけなのだろうが、それだけでも呆れる馬鹿さ加減だというのに、よりにもよって奥方の目の前で『春彦』などと本名を呼ぶなど全く始末におけない。まるで知り合いの様に名を呼ばれた上に『構わぬから切れ』と言われたのにも関わらず捕らえただけだったのだ。奥方に何か悟られたかも知れない。うまい言い訳を考えなくては。

しかし、一つだけ機転を利かせて以前から気になっていた場所を調べる機会には恵まれた。父が残したという金塊の隠し場所だ。『死を約束された者の場所』を思いつく限り捜してみた。本田家の親戚や家臣の墓を調べて回ったが何も見つからなかった。そこで墓は「死を約束された者」ではなく、「死んだ者」の場所だと気付いた。そんな折、耳にしたのだ。今は使われなくなっているという牢獄の話を。

 かつて死刑の決まった重罪人だけを入れ、謀反の疑いを掛けられた家老が身の潔白を証明するためにその中で自害して以来使われていないという、その牢こそ、父の言葉に裏打ちされた場所に思えた。だが、近付く機会がなかった。姉をそこに入れられたのは正に怪我の巧妙とでも呼べる名案だった。だが、これからどうする?金塊が見つかったところでどうやって持ち出す?そして姉をどうやって助け出す?思案に暮れる正志朗の耳につんざくような女の叫び声が聞こえたのはその時だった。

 声は奥方の部屋の方から聞こえた。

正志朗が部屋に駆けつけると奥方の侍女、楓が倒れている奥方を助け起こしながら正志朗に向かって叫んだ。

 「鬼が!鬼が奥方様を…!」

 「奥方様はご無事か?」

 「はい、息はあります。」

 「鬼だと?」

 「ええ、私が物音に気付いてお部屋に参りましたら奥方様を置いて外に逃げました!」

 他の駆けつけた侍達もそれを聞きつけ、城内は騒然としだした。

 「鬼だ!鬼が出たぞ!」

 「あっちへ逃げたそうだぞ!追え!」

 城の中を駆け回る足音と人々のざわめきが春の夜の静けさを破った。

 

 牢から出された暁は成頼の部屋にいた。

 「百合に一杯食わされた。百合はわしが暁殿を連れて来たのが気にくわぬのだ。それで自ら毒入りの饅頭を用意して暁殿に毒を盛られたと騒いだらしい。いやはや申し訳なかった。さぞ驚かれたろう。」

 「何故わざわざそのような事を?」

 「きっとやきもちを焼いているのだ。実のところ百合とは政略結婚で夫婦としてあまり上手くいっておらぬ。この城の中で主と呼ばれてもどこまでがわしを本当に城主と認めておるのか…。百合の後ろには父親の豊川道周斎殿がおられる。この城にはもともとの上野の家臣は半数程度。旧領主の本田家から寝返った者も数多くいる。それらの者達が次はいつ誰に向いて寝返るか分からん。しかし父上亡き後、わしはそういった者達のおかげで今の地位にいる。お恥ずかしい話だが、わしは日々誰が味方か判らぬ中で怯えて暮らしておると言う訳でな。そんな中で何の気兼ねもせずに腹の中を洗いざらい話せるのは城の外で出会った暁殿だけじゃ。叶うならば、ずっとここにいて欲しい。百合からはわしが何としてでも守るから、わしの側室になってはもらえまいか?」

 『え?ちょっと待って。私なんて正にその敵方の本田の娘なんだけど…。』

 暁が何をどう言おうかたじろいで固まっていると、成頼が暁の手を握ってきた。

 「暁殿、返事を。」

 成頼がもう片方の手を暁の肩に掛けてきて、暁を引き寄せようとする。

 『どうしよう?どうしよう?』

 ドカドカ、ガラガラ!

 そこへ突然誰かが縁側の障子を乱暴に開けて踏み込んで来た。

 「おい、そいつは俺のだ。返してもらうぞ。」

 「な、何者!」

 微妙な状況にいきなり踏み込まれて成頼は慌てている。

 金茶の髪、能の衣装のような派手な衣。金色の双眸が暁を見据えた。

 暁も何が何だか分からず頭が混乱していた。

 『え?これってこないだの鬼?一体どうして?』

 鬼は唖然としている暁を肩に担いで縁側から高く飛び上がるとあっという間に庭の奥に消えてしまった。

 「きゃぁぁぁぁぁ!」

 連れ去られる暁の叫び声が余韻を響かせる。ちょうどその頃、百合の部屋の騒ぎがこの部屋まで伝わってきて辺りが騒然とし始めていた。叫び声が騒ぎに輪を掛ける。

 「曲者くせものだ!庭に逃げたぞ。追え!」

 「鬼だ!鬼が出たぞ!」

 「あっちだ!誰か攫われたぞ!」

 城内は明け方まで走り回る足音と揺れ動く灯りで蜂の巣を突いた様な状態が続いた。


 一方暁は城を臨む小高い丘の上で鬼の肩から下ろされた。

『こいつ、やっぱりあの時の鬼だ。もしかして今度こそ私の事喰べる気?』

 一連の騒動でまだ心臓がバクバクしていた。これから暁をどうする気なのだろう?

 「あなた、こないだの鬼よね?これってどういう事?」

 意を決して暁が尋ねた。

 「ああ、お前が俺の物を盗んだから取り返しに来ただけだ。」

 「私が?一体あなたの何を盗んだって言うの?」

 暁には全く身に覚えの無い事だった。大体川を流され、凍えて鬼に喰われかけて、散々な目にあっている間に鬼から一体何を盗めるというのか?濡れ衣もいいところだ。

 「お前には関係ない。」

 暁が盗んだと言いがかりをつけてきたくせに暁には関係ないと言う。そんな馬鹿な話があるだろうか?暁は訳が分からなかった。

 「関係ない物なんで盗む訳ないじゃない!」

 「すぐ取り戻すから関係ないんだよ。」

 言うが早いか鬼が暁の口を自らの口で塞いだ。

 『やっぱり喰い殺される?』

 またあの時と同じ息苦しさ。呼吸ができず意識が朦朧もうろうとする。薄れ行く意識の中で最後に聞いた言葉は、

 「ぐえ!不味ぅ!やっぱりだめだ。」


 気が付くと暁は見知らぬ部屋に寝かされていた。

 『あれ?私生きてる?で、ここどこ?』

 周囲を見回すとこざっぱりした部屋だった。衣服に乱れも無く、昨夜城を出た時のままだ。

 外が賑やかなので窓から覗いてみた。

 そこはどこか大きな町の通りの様で、周囲に商店や家々が並んでいる。人通りも多い。

 どうやら暁がいるのは食堂兼宿屋の一室の様だ。起き上がって部屋から出てみる。

 「おや、お目覚めですか。もう昼前じゃけど何か召し上がるかね?」

 宿の女将らしき女が声を掛けてきた。

 「あ、はい。あの、私、一人でここに?」

 何が何だか分からず曖昧あいまいな質問をしたが相手は分かってくれたようで、

 「ああ、お連れさんなら『すぐ戻る』って言って昨夜から出かけてますよ。」

 『「お連れさん」って…鬼だって気付いてないの?すごく普通の反応なんだけど?しかも昨夜からじゃ『すぐ』じゃないんじゃ…?』

 遅い朝食を済ませ、身支度を整えると暁は部屋でぼんやり考え事をしていた。

 『これからどうしよう?『すぐ戻る』って言ってたなら鬼が戻る前に逃げ出すべき?一体何がどうなってるのかさっぱりだわ。家に帰ろうかどうしよう?そう言えば成頼殿が私を側室にっていってたわよね…。でも春彦が高峯城にいていつか成頼殿を倒すって決めてるなら私が側室なんかになったらややこしいし、なんだかんだ言ったって成頼殿は仇な訳だし、側室は無茶な話よね。春彦ももう少しなんとか分かるように話をしてくれればよかったのに宝探しなんかさせるし…。どっちにしても側室にはなれないから城には戻れないし、成頼殿は『もう分からないかも』って言ってたけど...。一度来てるからまた『側室』に迎えに来ないとも限らないし家にも戻らない方がいいわよね?それに百合の手の者が来ないとも限らないし…。そう言えば私お金持ってないんだけど、あの鬼、ここの宿代どうする気かしら?宿の人殺したりなんかしないわよね?そんな事されたら私まで人殺しと思われるかも。あ、でもいざとなったらこの打掛うちかけを売ればいいお金になりそうよね。まだもらったばかりできれいだし。すごく上等そうだから。』

 取り留めのないことばかり考えていると、部屋の外からなにやら話し声が聞こえてきた。

 するとすぐに誰かの足音がして、部屋の戸が開けられた。

 「おい、起きたか。行くぞ。」

 見知らぬ若い男があきを呼ぶ。身なりの良い侍のようなで立ちだった。

 「え?あなた誰?」

 「那由他なゆただ。昨夜会っただろう?」

 暁には全く覚えがない。あの鬼に会って気を失った後の事だろうか?

 ぽかんとしている暁に、男が尋ねる。

 「そう言えばお前、名前は?」

 「あき。」

 「じゃあ暁、行くぞ。」

 訳が分からないまま付いて行った。

 ここにずっといても仕方がないのだ。取り敢えず宿は出なければ。

 『その後のことは後で考えよう。』

 男は宿の女将にジャラジャラと無造作に掴んだ銭を渡して支払いをした。

 「釣りはいらん。取っておけ。」

 「まあ、こんなに。有難うございます。またお越し下さいまし。」

 宿の女将に丁重に送り出されて二人は外へ出た。暁はスタスタ歩く男について行く。

 身形みなりも良いし、やけに気前もいい。一体何者なのだろうか?

 何から尋ねて良いやら途方に暮れ、暁が一向に話しかけられないでいると、男の方が口を開いた。

 「今夜はもっと良い宿に泊まるぞ。向こうにここら辺で一番良い宿があるそうだ。」

 二人は町の中を流れる川沿いの道を行く。先程の大通りとは打って変わってこちらは人通りが殆ど無かった。

 男はぶらぶらと川原に下りると川に沿って歩いた。暁はただ付いて行く。聞きたい事が山ほどあるのだ。暁は意を決して男に尋ねた。

 「私、何であなたと一緒にいるの?」

 「昨夜会ったじゃないか。全然覚えてないのか?」

 暁は首を横に振った。

 「あれ?お前頭大丈夫か?城で変な優男やさおとこ手篭てごめにされそうになってるところを助けてやっただろうが?」

 「え?だってあれはあなたじゃなかった…。」

 暁を攫ったのは大柄な鬼だった。目の前の男がその鬼なのだろうか?

 「あ、そうか。今人に化けてたんだっけ。これで思い出したか?」

 瞬き程の間に目の前の男の姿が変わった。

 秋の稲穂の様な金茶の髪と瞳。普通の男の頭一つか二つ程は高いだろう大柄な体に能の衣装の様な派手で豪奢ごうしゃな着物。よくよく見るとやたら整った顔立ち。昨夜の鬼だった。

 「あ!」

 「思い出した?」

 「覚えてるわよ。忘れるわけないでしょう?大体服装も何もかも違う人に化けてて分かる訳ないじゃない!」

 今まではにかんで質問一つするのに手間取っていたのが嘘のように言葉が口から流れ出た。

 「だってこのままだと周りが騒ぐだろう?」

 「当たり前でしょ?こんな目立つ鬼が出たら皆びっくりするわ!」

 「だから化けてた。」

 さらりと言う。

 「それで私に何の用?言っとくけど私は何も盗んでないわよ。人聞きの悪い。ぎぬもいいとこだわ!」

 昨夜の会話を思い出して言う。

 「盗人猛々(ぬすっとたけだけ)しいとはこの事だな。」

 また暁を盗人扱いする。

 「じゃあ私が一体何を盗んだって言うの?分かれば今すぐにでも返すわよ!」

 「それが試してみたが、どうもすぐには取り返せそうにないんでね。取り戻す方法が見つかるまでちょっと付き合ってもらうぞ。」

 「何それ?勝手に決めないでよ!本当に何か盗んだなら何を盗んだかぐらい教えてくれたっていいでしょ?」

 暁が怒りもあらわに問いただすと、鬼は暁の顔に顔を近づけてきて目を細めながらささやいた。

 「俺の『心』だ。お前に心を奪われた。だからお前をものにするまで離さない。」

 ただでさえあまりの近さにドキッとしているところへそんな歯の浮くような台詞せりふを平然と言われ、暁は顔から火を噴きそうな程真っ赤になってしまった。どう反応していいか分からない。

 「な…、冗談じゃないわ!そんなの信じる訳ないでしょ?それに私のこと喰べようとしてなかった?」

やっとそう言うと、

 「ああ、お前 不味まずすぎてとても喰えなかった。」

 先程色目を使ってみたかと思えば今度はけろりとしてそんな事を言ってのける。どうも先程のは暁をからかっただけのようだ。

 からかわれたのに気付いた怒りと、『不味い』と言われたことに対する腹立たしさで暁は益々感情的になっていった。

 「不味くて結構!お陰で鬼に食い殺されずに済んだんだから。もう私の事は放っておいて。さよなら!」

 きびすを返して立ち去ろうとする暁の腕を鬼が掴んで引き戻した。

 「だから、さっきのは冗談として、返してもらわないと困るんだよ。それに他の誰かに持って行かれても困るから見張っとかなきゃならないし。言っとくがお前が付いて来ないなら俺がお前に付いて行くぞ。どこに行く気か知らないが、『こんな目立つ鬼』が出たら皆びっくりするだろうな。」

 皆をびっくりさせるのがさも楽しみ、という言い方だった。

 これには暁も参った。

 付いて来られても困るしこんな鬼と一緒にいるのも見られたくない。どうせ家に帰っても一人だし、成頼や春彦の事を考えるとすぐに家に帰る気になれなかった。時間を置いてゆっくり考えをまとめたい気分だ。

 『不味くて喰えない』なら命の心配もないだろう。いつか隙を見て逃げ出せばいい。そう考え、暁はここは一先ず折れる事にした。

 「分かったわよ。じゃあ、ちょっとだけ付き合ってあげるから。取り敢えず目立たない様に人に化けててちょうだい。」

 先程色目を使われたから、という訳ではないだろうが、落ち着いて見るとその鬼はとてもきれいな顔立ちをしていた。目を合わせるのは気恥ずかしいが、向こうが他所を向いているいる時はつい見とれてしまう。そんなこともあって暁は『早く人間に化けて欲しい』と思っていた。

 そんな暁の思いを知ってか知らずか、鬼の方は、

 「この辺は人通りもないからもう少しこのままでも大丈夫だ。それよりさっきから何俺の事じろじろ見てるんだ?」

 「え?別にそんなつもりはないけど。鬼ってこんなんなんだって思って。私、鬼ってもっと怖い顔してるのかと思ってたから。」

 慌てて暁が言いつくろうと、

 「なかなかいい男だろ?」

 と自信たっぷりに鬼が言う。

 「よく自分でそんな事言えるわね。」

 呆れて暁が言うと

 「ああ、だって自信あるからな。こんな男前なかなかお目にかかれないだろ?」

 いけしゃあしゃあと言ってのける。

 確かにきれいな顔立ちではあるが本人にそんな言い方をされるとどうも素直に認める気になれない。

「成頼殿もそこそこ整った顔してたわよ。」

 暁がささやかな抵抗を示すと、

 「げっ。お前あんななよなよしたのが好みなのか?かなりの悪趣味だな。」

 他人を褒められたのが気に喰わないのか今度は暁の趣味にけちをつけてきた。

 「人の好みはそれぞれだから誰もが自分と同じ価値観とは限らないんじゃないかって言いたいだけよ。」

 「まあ、確かに『たで喰う虫も好き好き』って言うしそう言われてみればそうかもな。あ、でもお前は誰が喰っても不味いと思うぞ。お前みたいに不味くて喰えない女は初めてだ。」

 思い出したようにまた『不味い』が始まった。いくら喰べられる気はないとは言え、こう『不味い、不味い』と言われて気分が良くなる筈もない。

 「余計なお世話よ。いい加減その『不味い』って言うのやめて!」

 「あれ?もしかして傷付いた?」

 「別に。」

 憮然ぶぜんとして暁が言うと、鬼は今度は暁を上から下までまじまじと眺めてから、

 「うーん。造作自体はそれ程悪くないんだがどうしてこうパッとしないのかなぁ?何か足りないんだよな。もう少し色気でもあれば他の楽しみ方とかもあったのに。残念、残念。」

 どうやら暁の事を『色気がない』と言いたいようだ。どこまでも暁をからかって面白がるつもりらしい。暁としては『楽しまれたい』訳ではないので色気があろうが無かろうが余計なお世話なのだが、厭味いやみたらしい言い方をされて心がちくちく痛んだ。『どうせ私は大した事ないですよ。』そう思ったが、もう口には出さなかった。相手をするとどうも疲れるのだ。無視することにする。

 暁からの反応がないと、鬼は一人で勝手な事をぺらぺらと喋り出した。

 「そうそう、今夜これから泊まる宿はいい女がいっぱいいるらしいからお前もちょっとそういうの見て勉強しといた方がいいぞ。」

 『え?それってどういうこと?』

 何やら怪しげな雲行きになってきた。このまま付いて行って大丈夫だろうか?不安になってきた暁が戸惑った顔をしていると、

 「それと、女はは入れないらしいからお前の格好もどうにかしないとな。」

 そう言って鬼が暁の着物の袖を掴んだ。驚いた暁が、

 「何するのよ!」

と言って鬼の手を振り払うと鬼は、

 「ちょっと男の格好しといてもらおうと思っただけだ。心配するな。明日になったらまた元に戻してやるから。」

と言う。

 暁が目をやると、成頼から貰った豪華な打掛を含め、暁の着ていた着物は全て上等そうではあるが男物に変わっていた。

 「これで髪を結い上げておけ。お前は今から暁男あきおだ。いいな。」

 どこからか取り出した紐を暁に手渡す。いつの間にか鬼自身も今朝と同じ人間の姿に変わっていた。

 「なんで勝手にこんな事するのよ!私がいつ一緒に行くって言った?」

 「ちょっとだけ付き合うって言ったじゃないか。それに人生何事も経験が大事だ。滅多にできない経験が積めるんだから一度くらい付き合えよ。それともうすぐ日が暮れるぞ。一人でどうする気だ?」

 確かに今どこにいるのかも分からないしここから家まで帰るのも大変だろう。今夜はもうその『宿』に行くしかなさそうだ。

 「・・・。」

 憮然とした表情のまま、暁は黙って付いて行くことにした。

 「鬼って便利ね。こんな事もできるんだ。」

 変わってしまった着物を見ながら暁が呟いた。

 「ああ、全ての物には魂があり、魂はより強い魂に従うのさ。」

 「ふぅん。あなたもいっその事ずっと人に化けてれば?せめて街中くらいは。」

 「これも結構神経使うから面倒なんだ。」

 「何にでも化けられるの?」

 「さあ?何故そんな事を聞く?」

 「別に。何となく気になっただけ。」

 暁は幼い頃に母から聞いた御伽噺おとぎばなしを思い出していた。賢い男が何にでも化けられるという鬼を唆して饅頭に化けさせて食べてしまうというものだった。

 この鬼を食べる気はしないが、もし何にでも化けられるというなら暁にも事態を打開する機会が窺えるかもしれない。

 だが、暁のそんな甘い考えを見透かした様に鬼が言う。

 「もしかして俺を饅頭にでも化けさせて喰うつもりか?恐い怖い。だが、生憎俺は自分が喰った事のある生き物にしか化けられないんだ。」

 『もしかして人の考えている事が分かるの?』少しドキッとしたが平静を装って暁が答える。

 「別にそういうつもりはないけど。」

 言ってから気付いてハッとする。

 『喰った事のある生き物って事は今この鬼が化けてる人も本人はこいつに食い殺されちゃったってこと?」

 背筋にゾッと虫唾むしずが走った。

 『やっぱり一緒にいたらまずいんじゃないの?』

 今夜中に隙を見て逃げ出そうと心に決めた暁だった。


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