芙蓉
安部と三輪に連れられて行った先は、茶屋だった。普通の宿とは違い、酒や女を目当てにして行く場所なのがわかった。この様な場所が初めての正志朗は、躊躇いながらその門を潜った。安部と三輪が一緒なのに今更断って出て行くことなどできない。それに、正志朗とてそういう場所に興味が無い訳ではなかったのだ。戸惑いつつ連れられるままに正志朗は屋敷の中でも奥まった一角に位置する部屋に案内された。
豪勢な肴の乗った膳が供され、着飾った女達が現れると男達の間に割り込むように座した。女将らしき年配の女が安部の前で丁寧に挨拶しているのを、すっかり舞い上がっている正志朗は上の空で聞いていた。
「これは安部様、ようこそお越しくださいました。久しくお見えになられませんので皆恋しがっていたのでございますよ。」
「十日前に来たばかりではないか。」
「十日も前では皆干上がってしまいます。安部様のような豪傑には毎晩でもお越し頂きとう存じます。」
「口先ばかり上手い事を言いおる。全ての客に同じ事を言っているのであろう。」
「滅相もございません。この国には安部様ほど男気のある方は他にはおられまぬ故。女子とはそのようなお方にこそお仕えしたいものにございます。」
「ああ、わかった、わかった。それより芙蓉はどうした?まさかわしが来るのに他の客の相手をしておるのではあるまいな?」
「そのような畏れ多い事、あろう訳がございません。今夜は安部様がお見えということで芙蓉も準備に手をかけているのでございましょう。じき参りますのでしばしお待ちを。」
「なんだ、そういうことか。芙蓉ほどの器量であれば何せずともよいではないか。無駄な事はさっさと切り上げて早く来るよう急かして参れ。」
「それが女子とはそういう訳には行かぬのでございます。お慕いする殿方がお見えとあればいつにも増して身支度に力が入るものにございます。」
その時、廊下にさらさらと衣擦れの音が聞こえた。
「芙蓉にございます。」
「おお、芙蓉、待ちわびたぞ。」
「それでは私はこれで。」
挨拶をしていた女が下がり、入れ違いに他の女達とは明らかに別格の美しく着飾った女が入ってきた。
華奢な身体つき。潤んだ瞳。柔らかそうな唇。甘い顔つき。しかし、その甘えた目つきの奥には芯の強そうな、鋭い光。『油断ならない』それが、正志朗の芙蓉に対する第一印象だった。
「安部様、お久しゅうございます。三輪様も。お二人がいらっしゃらなくて寂しゅうございました。ところでこちらのお若い方は?」
「ああ、三輪が可愛がって目をかけている者でな、十和田正志朗という。」
「以後、お見知り置きを。」
遊女相手だというのに、安部のお気に入りと聞いて正志朗はつい謙った話し方になった。
「そいつは出世するぞ。今から目を付けておいた方がいいかもしれんな。」
「まあ。お若いのに安部様にそこまで言われるとは大したものでございますね。」
安部と芙蓉が正志朗を持ち上げる。照れる正志朗は言葉が上手く紡げない。そんな正志朗はからかい甲斐があるらしく、大人たちのいい玩具だった。
酒宴は益々盛り上がり、飲みなれない酒を勧められるままに飲んだ結果は…。
翌朝正志朗は体の怠さと重さに違和感を感じながら目覚めた。柔らかく滑らかな手触りの何かが腕に纏わり付いている。決して悪い感触ではないのだが、その温もりにやや汗ばんだ腕を解きつつ目をやって驚いた。正志郎は床の中に裸の芙蓉と並んで寝ており、昨夜の記憶も途中で途切れて思い出せず、加えてひどい二日酔い、という散々なものだった。
二日酔いの現実的な頭痛に、今の自分が置かれている状況という精神的な圧迫が追い討ちをかける。妻や恋人がいる訳でもなく、誰かに気兼ねする立場ではないのだが、記憶もなくこんなことになっている自分の体たらくにつくづく嫌気がさしていた。
ズキズキする頭を抑えながら、夜着を羽織った芙蓉に訊ねた。
「一体どうなってるんだ?」
「まあ、昨夜の事を覚えていらっしゃらないのですか?芙蓉は身も心も正志朗様に奪われてしまいましたのに。」
とんでもない言葉を耳にして、ますます頭が混乱した。悪い夢でも見ている気分だった。しかも芙蓉は安部のお気に入りだ。正志朗は安部の機嫌を損ねてはいないか気が気でなかった。そこへ追い打ちをかけるように芙蓉が囁く。
「此度の事は安部様にはご内密に。二人だけの秘密という事に致しましょう。」
「勿論だ。安部様はこのことはご存知ないのだな?」
「ええ、ご心配なく。安部様の扱いはこの芙蓉が確と心得ておりますれば。どうか正志朗様はこれからも気兼ねなく芙蓉の元へお越しくださいませ。」
正志朗は芙蓉の言葉をどこまで信じて良いか分からなかった。安部に知られていないことには安堵したが、芙蓉に弱みを握られたような別の不安を抱えることになった。