雨
良玄は村人に手伝わせて龍神の池の前の岩場に簡単な祭壇と護摩用の木材を用意させた。井桁に組み上げた木材に火を灯すと、白い煙がもくもくと登り始めた。酷暑の中でも山はまだ涼しかったのだが、護摩の炎のせいで麓よりも熱くなり、良玄は滝のような汗を流しながら読経を行った。その後ろに数名の村人が一緒に座って手を合わせていたが、その内に熱気に耐えかねて一人減り、二人減り、途中で入れ替わったりはしたものの、日が暮れる頃にはもう誰もいなくなってしまった。
「おい、あいつら自分達のための雨乞いのはずなのに全員どっか行っちまったぜ。今のうちにこんな村放って次へ行こうぜ。」
読経が終わって目を覚ました六徳丸が声を掛ける。もう護摩の火も消えて辺りには宵闇と静寂が訪れていた。焔と煙に隔てられていた池が見えるようになったが龍神の気配はない。
良玄は長い一日を終えてようやく一息ついた。水を飲みつつ天を見上げる。木々の黒い影の真ん中にぽっかり開いた丸い穴から群青色の晴れた夜空が見えた。白い星々が砂子を散らしたように煌めいている。ところどころにうっすらと雲が流れていたが、まだ雨が降るような厚い雲は見られない。
「はぁ。なかなかうまく行かんもんじゃな。冷気が来ぬなら代わりにこの場を熱くすれば周りが冷たく感じるかと思ったが...。護摩によって煙が雲を呼ぶというのも聞いたことがあるんじゃが大した雲は呼べんかったようじゃな。いやはや己の力不足を痛感するわい。ここらで龍神様が手助けしてくれたら雨が降りそうな気がするんじゃが...。」
「いや、もう無理だって分かったろう?馬鹿なことばっか言ってないでいい加減諦めて行こうぜ。こんなところに長居は無用だ。ずっと嫌な感じがするんだ。村の連中も、ここの龍神も。」
「何を恐れておる?いつものそなたらしくないな。まぁいつもの勢いで龍神を喰うと言って暴れられても困るがな。」
「それなんだよ。本当は俺がもっと力を付けててあの龍神が喰えたら雨を降らせることができたんだ。だから今からでも他のところでもう少し弱そうなのをいくつか喰って力を付けて戻ってきたらいいんじゃないかと思ってさ。そうすれば俺が龍神を喰って持ってる魂使って雨を降らせればいい話だろ?なぁ、そうしようぜ。それなら村の奴らも納得するだろう?」
六徳丸はここを離れるいい理由をこじつけられたと思ったが、そこに邪魔が入った。
『護摩とは初めて見たがなかなか惜しかったな。来ぬ冷気を待つ代わりにこの場を温めるというのは面白い。お陰で薄っすらだが雲ができた。これを続ければその内に雨雲も呼べるやも知れんぞ。』
ずっと気配を消していた龍神が現れたのだ。六徳丸には池の上空に塒を巻く青鼠色の龍がはっきり見えていた。昼は気配しか感じられなかった良玄にも夜の暗がりでは池の上に薄っすらと池から湧き上がる煙の様な塊が見えるようになっていた。
「これは龍神様。今の話は真でございますか?護摩のお陰で雲ができたと?でしたらもう暫く続けてみる価値はあるという事でしょうか?」
龍神が六徳丸の不敬な物言いを気に留めていないのをこれ幸いと良玄が龍神の話に食い付いていく。
『ああ、そなたが精進潔斎して寝食を断ち、誠心誠意これを十日も続けてみれば何か起こるかも知れん。』
「それは良い事を教えて頂きました。では後十日程頑張って見ましょう。」
良玄は嬉々(きき)として言うが、側で聞いている六徳丸は違和感を拭えなかった。
『この龍、何か隠してるはずだ。何かおかしい。』
「なあ、後十日もこんなことしててお前が持つのか?しかも寝食を断つって...。人間に可能な事なのか?」
「さあな。何でもやってみん事には分からんだろう?途中で倒れたらそれはそれまでのこと。やれるだけのことはやってみようではないか?これで雨乞いができるようになればわしも箔が付くしな。」
良玄は呑気にそう言うが、六徳丸はなぜ護摩など初めて見たという仏教に縁遠そうな龍神が『寝食を絶って後十日』などと具体的な事が言えるのが訝しく思った。だが、六徳丸の心配を他所にお人好しの良玄は龍神の言葉通りその夜から寝食を絶って護摩と読経を続け出したのだ。いつもの通り六徳丸は読経が始まると意識を保っていられなくなり、次に六徳丸が目覚めたのは六日目の朝だった。
護摩が耐えないようにと村人によって積み上げられていた継ぎ足し用の木材がほぼなくなり、真っ黒な炭の山から白い煙が燻っている。水だけで五日を耐えた良玄が遂に倒れたのだ。その日は雲が日の出を遮り、村人が夜明けに気づくのも遅かった。
六日間眠り続けていた六徳丸がぼんやりした頭をやっと持ち上げると良玄がぐったりとしていた。座ったまま体を前に倒し、手には長い数珠が絡まっている。
「おい、しっかりしろよ。いきなり寝てんじゃねぇよ。そんなんじゃ十日は無理だろう?」
六徳丸の中ではまだ一回目の夜明けだったが、目の前の炭の量や初日には無かった丸太の山を見て、二日目では無さそうな違和感を感じていた。そして何よりも目の前の良玄がおかしいのだ。六徳丸ははっきりしない頭を抱えつつ焦りを感じた。まだ自分は眠りの中にいてこれは夢なのでは無いかとさえ感じていた。
ポツリ、ポツリ。そこへ冷たい雫が落ちて来た。六徳丸が見上げると空は灰色の雲に覆われている。六徳丸の頬に雨の粒がぶつかり、六徳丸はそれが現実なのだと分かった。
「おい、しっかりしろよ!念願の雨が降ったぞ!やったじゃないか!」
そう言いながら良玄の肩を揺さぶる。良玄の体がばたりと倒れる。息がなかった。
「おい!どういう事だよクソ坊主!」
六徳丸は頭の中が真っ白になった。自分が一体どれだけの間寝ていたのかもわからない不安と目の前の動かない良玄の姿にただ焦りと苛立ちだけが溢れる。
「うわぁぁぁあああ!」
怒りのあまり天に向かって大声で叫ぶ六徳丸の声を掻き消すように大粒の雨が滝のように降り注いだ。
雨に気づいた村人達が歓喜に沸きながら山を駆け上がってくる。
「お坊様!龍神様!有難うごぜえます!」
ザザザーという雨音に紛れて足元を滑らせながら近づく人影を見て、六徳丸の理性が吹っ飛んだ。その人影に襲いかかろうとしていると、六徳丸の内側から声が聞こえた。
『六徳丸、駄目!今人を襲ったら何もかも無駄になっちゃう!』
久しく鳴りを潜めていた暁だった。だが、六徳丸の怒りはそんなものでは収まらなかった。
『煩え!』
六徳丸を内から抑えようとする暁を無意識に力任せに抑え込み、六徳丸は拳を振り上げて近づいてくる人の方へと駆け出そうした。
『駄目ぇぇえ!』
暁の強い意志が六徳丸の意志とぶつかり、六徳丸は一瞬意識を失って倒れた。バッシャーンと水溜りの中に頭から突っ込む。長いのか短いのか時間の流れが分からなかった。どれだけ倒れていたのかも分からず泥の滴る顔を上げ、やっとの思いで立ち上がると目の前に大きな黒い影が立っていたので六徳丸は驚いて飛び退いた。土砂降りの雨に遮られた視界に入って来たのは久々に見る見たくもない父親の姿。
「何であんたがこんなとこに...?」
驚く六徳丸の襟首を黒い衣の大男が掴む。その目は六徳丸ではなく、その背後にある池の上空を見ていた。
「こいつは俺のものだ。お前には渡さん。今日は邪魔が多い。いつかこの借りは返しに来る。」
六徳丸がその言葉を怪訝に思いつつ後ろを振り返ると例の龍が塒を巻いてこちらを見つめていた。
『漸く邪魔がなくなったのに黙って行かせるものか。自分のものと言うなら目を離すべきではなかろう?今頃現れおって。そなた諸共食ろうてやるわ!』
龍がそう言って体を伸ばして来たが、届く間も無く一壺天は六徳丸を引き摺ってその場から消えた。
村人が駆けつけた時、そこに残っていたのは倒れた良玄と雨に濡れた黒い炭の山だけだった。
「離せ!あいつら全員ぶっ殺してやる!お前もだ!今頃のこのこ出て来やがって!来るならもっと早くこいよ!もっと早く来て雨の一つも降らしてくれてりゃこんな事にはならなかったのに!今さら何の用があるってんだ!?」
荒れ狂う六徳丸が村に向かって駆け出そうとするのを遮りながら一壺天も声を荒げる。
「馬鹿野郎!そんな事したら何もかもが無駄になるんだぞ!この雨を感じろ!お前の師がお前に何を伝えようとしたのかしっかり考えろ!」
そう言われるまでもなく六徳丸も気づいていたのだ。降り注ぐ雨の一粒一粒に良玄の匂いがすることに。だが、感じてはいても冷静な頭でしっかりと現実を受け止めきる事ができず、感情に任せて暴れる事でその場を誤魔化そうとしていたのだ。
「何を伝えたかったって言うんだ?言いたいことがあるなら面と向かって言えば良いだろう?何だってこんな馬鹿な真似するんだよ?あいつらが一体何だって言うんだ。見ず知らずの赤の他人の二百くらい!見捨てたら良かっただろう?何だって自分が死んでまで雨なんか降らさなきゃならなかったんだよ⁉︎」
「全部お前のためだ!あそこの連中の為なんかじゃない!それが分からないと言うならそれこそあの坊主は無駄死にだ!なぜ今頃来たのかだと?お前が一番良く分かってるはずだろう?俺がお前の前に現れる理由なんて一つくらいだろうが?」
「もしかして...俺、母上を喰っちまったのか?」
「違うと言うなら暁を出してみろ。」
ここしばらく表に出してはいなかった母だったが、先ほど確かに六徳丸を内側から押さえつけてきたはずなのに、今は六徳丸がいくら呼びかけても応じることはなかった。
「離れていても俺はずっとお前を通してあいつを感じていた。それが途切れた。忠告したはずだ。あいつを喰い尽くさないように気を付けろと。あの龍が言った『邪魔』がお前の師か暁のどちらかは分からんが、お前は今、かつてない無防備な状態だ。俺が出るしかないだろう?それと付け加えておくが今の俺ではこれだけの雨を降らせるのは無理だ。降らせ方は知ってるが力が足りない。魂を手放し過ぎた。良いか?お前の師はただの人間では無いんだ。俺もあの龍もできないような事をやったんだ。たった一人分の魂がこれだけの雨に変わる事などそうそう無いぞ。これをお前が『死』と呼ぶならそれこそ無駄死にもいいところだ。」
その言葉に六徳丸は天を見上げて口を開けた。たくさんの雨粒を飲み下す。師の意思を少しでも取り込みたかった。真正面から雨に打たれると少し頭が冷えて来た。
「なぁ、あんた、俺を喰うために来たのか?」
「さっきも言ったがそれ以外の理由があるか?」
「ちょっとだけ待って欲しいんだ。あんたの言ってることが分かるまで。あの人が俺に何を伝えたかったのか理解できるまで。それと、あの龍だけは許せない。あいつを喰ってあの人の無念を晴らしたいんだ。あの人は無念に思ってないかも知れないけど、このままじゃ俺が悔しくて悔しくて我慢ならない。あの龍も、あの龍を喰えない無力な自分にも、あの人が頑張ってるときに眠っていた自分自身にも。」
「どうしてもと言うなら待ってもいいが野放しにはできんぞ。目を離した隙に他の奴に喰われたんじゃ堪らんからな。俺と一緒に城山に帰るならもうしばらくは待ってやる。」
「え?でもそれじゃどうやって力を付けるんだよ?領内は荒らしちゃ駄目なんだろう?」
「それくらい自分で考えろ。約束は守れ。それができないなら今この場で俺に喰われろ。」
「えぇ⁉︎仕方ないなぁ。まぁ、何とかしてみるよ。」
雨が弱まり、雲の間に途切れ途切れの青空が見えて来た。西の空に薄っすらと虹が掛かっていた。




