六徳丸
暁が目覚めるともう日が高くなっていた。那由他は既にどこかに消えていた。昨夜の酒宴の後片付けで城の下働きの者達は皆忙しそうで暁は放っておかれたようだ。広間には同じように放っておかれた家臣達が二日酔いの頭を抱えて転がっていた。
森も見当たらず、やる事もないので暁は那由他を探して天守に行ってみることにした。
「御館様はこちらか?」
少し気取った口調で入口の見張りに尋ねる。
「はい。今日もいつも通り朝からこちらにおられます。」
「そうか。ならば御館様にお会いしてくる。」
「お待ち下さい。今お伺い致します。」
見張りがぶら下がっている紐を引く。城主の返事を待つが返事の鈴はならなかった。
「申し訳ございません。お許しがでないようなので此度はお引き取りを。」
「私はここへの出入りを御館様からお許し頂いている。通らせてもらう。」
「いけません!お許しなく立ち入った者は切られる決まりです!」
「お許しなら頂いているから大丈夫じゃ。」
暁は見張りを振り切って中へ進んだ。こういうことは最初が肝心と思い、強い姿勢を示そうとした。
見張りも今までなかった状況に戸惑って暁を制止しきれずにいた。暁が行ってしまうのを見て見張りの一人が慌てて森を探しに行った。
暁にとって久々の天守だった。一壺天を解放した時以来だ。中は相変わらず殺風景で何もなかった。暁は一人黙々と階段を上る。
最上階には誰もいなかった。那由他が勝手に上がってきた暁を見てどんな顔をするか少し期待していただけにやや拍子抜けしたが、前回はゆっくり見る余裕もなかった最上階をじっくり見まわすことができた。
開け放たれた窓から明るい光が差し込み、柔らかな風が吹き抜ける。部屋にぶら下がっている鈴がちりんちりんと揺れた。
窓の外には澄んだ青空。城の建つ台地の裾野に城下町を見下ろし、遠く霞んだ山々の合間にきらきら光る海まで見渡せた。
「わぁ。綺麗…」
暁は思わず欄干に手を掛けて窓から身を乗り出した。天守の屋根の下に城の他の建物が見える。ここからは城内も国内も全てが一望できた。
突然暁の目の前に細長い鏡のような物が現れ、視界を遮った。
「それ以上前に出ると下に落ちるぞ。」
声の方に目をやると、欄干に腰かけた那由他が太刀を抜いて暁の目の前に翳している。
鏡のように見えたのは磨かれた太刀の刀身だった。
「俺の許可なくここに立ち入った者は即刻切り捨てる決まりだ。下の奴らが教えてくれなかったのか?」
「教えてはもらったけど、他に行く当てもなかったし…」
「そんなに俺に会いたかったのか?夜まで待てないくらい?」
そう言いながら那由他が太刀を使って暁の顔を引き寄せる。
「違っ…そうじゃなくて…」
昨夜の事が脳裏を掠め、暁が顔を真っ赤にして言い訳を口にしようとした時だった。
どたばたと階下から足音が聞こえた。
「御館様!お待ち下さい!天守の決まり事をまだ奥方様に説明しておりませんでした。これもこの森の不徳の致すところ。どうか此度だけはご容赦下さい!」
森が息を切らせて那由他の前に平服する。森は暁が正に切られようとしていると勘違いしていた。
先ほどの鈴の音は風で揺れたのではなく、森が慌てて駆け付けた時のものだった様だ。いつの間にか那由他が返事の鈴を鳴らしていたのだろう。
「安心しろ、森。こいつがここに出入り自由だと言い忘れていたのはわしの方だ。」
那由他が瀬津の口調になり、すっと立ち上がって太刀を鞘に納めた。
「え?では今のは…?」
「こいつがあまり身を乗り出すから落ちないように退がらせていただけだ。」
「左様でございましたか…。某はてっきり御館様が御手打ちにされるのかと。」
「丁度いい。こいつに城の決まりを叩き込んでおけ。」
瀬津が暁を一瞥しながら森に言いつける。
「ここで行っているのは政だ。上に立つ者が法規を乱せば国が乱れる。城にいる者達の上に立つつもりならばまずはお前が規範を示せ。それができないなら厨でままごとでもしているんだな。」
暁に向かって冷たく言い放つ。こういう言い方の時は出て行けという合図だとよく知っている森が暁を促してその場から立ち去らせた。
江津城は全くと言っていいほど女っ気のない城だった。今まで姫も奥方もいなかったからそこに仕える女達も必要なかったという事なのだろうが、以前いたあの口うるさい鈴さえいなくなっており、今いるのはこの度奥方に収まった暁に、高峯から付いてきた侍女の夏梅と赤穂くらいだ。
「あの…以前私のお世話をしてくれた鈴さんはいないんですか?」
暁が不思議に思って森に尋ねた。
「ああ、あの者でしたら某の屋敷におります。御館様があまりに恐ろしいと言い、かと言って他に行く当てもないとのことでわしの家に押し入ってきましてな。それならばと城の若い衆との縁談なども勧めてみましたが何故か断られ、そのまま居座られてしまいました。まぁ、よく働いてくれているようなので助かってはおりますが。」
さすが鈴。ちゃっかりしていると暁は感心し、森の鈍感さにも呆れつつ更に森に尋ねる。
「森様は奥方はいらっしゃるのですか?」
「昔おりましたが五年ほど前に流行り病で先立たれました。今は殆ど城に入り浸っておりますので逆にいなくて良かったと思っておりまする。」
鈴のために森を探ってみた暁だったが、その言葉を聞いて何も言えなくなってしまった。言われなくても森が『御館様一筋』なのは分かっているのだ。余計なおせっかいは迷惑だろう。
女っ気のない江津城はこれまで奥方の代わりを森がやっていたようなものだった。暁が来たことで森の仕事が減るかと思いきや、訳の分かっていない暁を教育する方が余程手間がかかることが判明し、ただでさえ忙しい森は暁に仕事を任せることを早々に諦めた。主の事を一番理解している立場を誰にも譲りたくないという意地も働いた模様だ。おかげで暁は毎日やる事もなく、暇を持て余していた。森から余計なことはせずに部屋で大人しくしているように言いつけられていたからだ。
公家の姫を真似て箏でも弾いてみようと習いだしたが、全くうまくいかなかった。
のどかな昼下がり、庭を望む縁側で一人で箏でも練習しようとつま弾くが、思うような音が出ずにすっかり疲れてしまった。そろそろ諦めようかと思っていると、傍らに那由他が現れた。
「全く何の音かと思ったらお前の仕業か。一体何をどうやったら箏からそんな音が出るんだ?」
呆れ果てたという口調だ。
「習った通りにしているつもりなんだけど上手くいかなくて。結構難しいんだから。」
「貸してみろ。手本を見せてやる。」
那由他が暁から箏を奪うと、手際よく琴柱を動かして音を合わせ始めた。流れるような指捌きで艶やかな音を奏でる。とても先ほどと同じ楽器とは思えない音色だった。
「何でそんなに上手なの?」
「昔 京で公家をいっぱい喰ったからな。『天下一』と呼ばれるようなのも何人か喰ったし。」
那由他は箏の腕の事を言ったのだろうが、その言葉に暁の脳裏を一の姫が過った。
「那由他はずるい。自分で努力もしないで何でもできるんだから。」
「それなりの苦痛が伴ってるってことは身をもって知ってるだろう?あんなのが羨ましいと思えるのか?」
「わからない。私は何もできないから。何かができるのは羨ましいと思う。それに例の『痛み』からは解放されたんでしょ?私のお陰で。」
那由他の口調を真似て恩着せがましく言ってみる。
「どうだかな。『痛み』から解放されたお陰で『面倒』が増えた。お前とか、森とか。」
「何よ。それってどういう意味?」
詰め寄る暁をさらりといなして那由他が箏を暁の前に置きなおす。
「教えてやるから言う通りにやってみろ。楽して習得するのも良いが自分の努力で得たものの方が喜びは大きい。」
暁の手を取って弦の上に指を置かせる。箏に向き直る暁の後ろから包み込むように那由他が手を添える。
ゆっくりと短い旋律を那由他の長い指が弾きだす。
「今のを真似してみろ。」
ぎこちない動きで暁が同じ場所を弾く。同じ事を何度か繰り返すうちに暁の指もある程度動くようになってきた。
そこへ庭をとことこと森がやってきた。
那由他がいるのを見て驚いた顔をする。
「これはこれは。御館様がこちらにおいでとは。何も知らずお邪魔をいたしました。あまりに見事な箏の音が聞こえたので何事かと思って来てみましたが奥方様でしたか。先日習われたばかりだというのに大変な上達ぶりでございますな。」
「先ほどのはわしじゃ。こいつに弾ける訳がないだろう?」
那由他が瀬津の口調になって言い捨てる。
「え?左様でございましたか?御館様があのような箏の名手であらせられるとは全く存じておりませなんだ。これはとんだ失礼を。」
「ふん。今まで箏など弾くこともなかったからな。この国も平和になったという事だろう。」
そう言うと瀬津はすっと立ち上がり、館の奥の方へと立ち去った。どうも瀬津は暁と森が揃うと一緒に居たくなくなるようだと森は察していたが、暁は森が二人の間を邪魔しているような気がしていた。
「私にも何か手伝わせて下さい。毎日ご家老が忙しそうにされているのに私一人暇を持て余しているのは申し訳ないですから。」
「そのような事はお気になさらずに。下手に動かれて御館様のお叱りを受けるよりはじっとしていて頂く方がこちらも気が楽というもの。それに奥方様にはお世継ぎを生んで頂くという大事な仕事がございます。どうか他の事は気にせずしっかり御館様にお仕え下さい。」
そんな森との会話で暁に新たな目標ができた。心の奥底で森や一の姫に対抗心を燃やしていた暁は二人に負けない存在になりたかった。
暁本人は知る由もなかったが、城内には『奥方の寝所からは夜物凄い悲鳴が聞こえる』という噂が流れていた。家臣達は日頃の瀬津の様子から、瀬津の夜の相手は相当大変だろうと勝手に想像していたので、奥方を務める暁には同情的だった。『か弱い公家の姫では持たなかっただろう』と勝手に思われ、嫁入り時には『高峯の田舎娘』と侮られていた暁が、自分の知らないところでいつの間にか一目置かれる存在になっていたのだ。実際の暁はしょっちゅう意識を失っていて何をされているのかはあまりよく分かっていなかったのだが。
城山に嫁いで半年が経とうとする頃、暁の体に異変が出始めた。ここ数か月、月のものが止まったと思っていたら下腹が張り出したのだ。侍女が心配して医師を連れてきて暁の懐妊が明らかになった。
森は我がことのようにほくほく顔で喜んでいたが、当の那由他は不機嫌そうな顔で森の報告を聞いた。
「お前、また仕出かしてくれたな。」
「どういう事?那由他の子ができたのに何で怒ってるの?」
「鬼と人の間に子などできる訳がないだろう?お前が腹で育ててるのはお前が奪った俺の魂の欠片だ。」
「別にそれでもいいじゃない。これでやっと私からその魂の欠片を取り返せるようになるでしょう?」
「それは出てくる俺の分身を俺に喰えと言っているようなものだぞ。自分が何を言っているのか分かっているのか?」
「そうなの?だって刹那と那由他が一壺天に戻った時はそんな風じゃなかったけど。それに別々でいる方が同時に色んなことができて楽しいんでしょ?無理に取り返さなくても良いんじゃない?」
暢気にそう言う暁に対し、那由他は苛立った様子で冷たく言い捨てる。
「ああ、そうだな。お前があの欠片を手放してくれるなら俺ももうお前に縛られずに済む。きっと済々するだろう。」
その言葉に、暁は気分が落ち込んでしまった。自分が進んで那由他との繋がりを絶とうとしていることに気付いたのだ。だが、那由他が何と言おうと暁にとっては腹にいるのは自分と那由他の子なのだ。その子を生むという事だけは譲る気にはなれなかった。
那由他とぎくしゃくしたまま時が経ち、暁の腹は益々大きく膨らんできた。
「そろそろ名を考えておかないと。どんな名がいいかしら?」
「六徳丸。六徳だけでもいいが丸が付いている方が幼子らしいだろう。」
「六徳丸…いい響きね。でも姫だったらどうする?」
「お前はどこまで馬鹿なんだ?女の訳がないだろう?」
「あ、そうか。那由他の分身なんだからそれもそうね。で、六徳ってどういう意味なの?」
「それくらい自分で調べてみろ。」
「だって名前の意味なんだから付けた本人でないと分からないでしょう?」
「呼び名など他の奴らと区別するための便宜上のものだ。特に意味など必要ない。」
「でもさっき私に調べてみろって言ったじゃない。何か調べればわかるような意味があるんじゃないの?」
「お前が少しくらいはまともな知識を身に付けるように言ってみただけだ。気になるなら一度自分で調べてみるんだな。」
「何よ。那由他の意地悪。それにどうしてこないだからそんなに機嫌が悪いの?城の皆も怯えてるわよ。」
「ここではそんなの昔からだ。大体お前が原因を作ったんだろうが?俺が機嫌が悪いと感じているのはお前自身に後ろめたさがあるからじゃないのか?」
「そんな訳ないじゃない?私が何をしたっていうの?」
「お前がこれからやりそうなことくらいお見通しなんだよ。全く。面倒ばかり増やしやがって。」
そう言うと那由他はその場を離れた。暁はもやもやした思いを抱えたまま何もできずにいた。
それから程なくして平和そのものと思われていた江津城は蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。
庭で奥方の血みどろの死体が見つかったのだ。腹は大きく食い破られ、中の赤子は消えていた。獣にでも襲われたとしか思えないような凄惨な姿だった。
普段は冷静な家老の森が珍しく慌てふためいている。何からどうしていいか分からず、森は主の元へと駆け付けた。
「御館様!大変でございます。奥方様が何者かに襲われたようです。今朝、奥方様がお部屋におられず侍女が探したところお庭で亡くなられているのが見つかりました。腹が大きく食い破られ、お子も消えており、獣の仕業としか思えないのですが如何いたしましょう?」
「ふん。抜け殻になど用はない。あんな役立たずの恩知らずなど犬の餌にでもしてしまえ。」
「は?あの…それはどういう事でしょうか?」
普段から恐ろしい城主だが、自分の妻子を失ったのにも関わらずそのような事を言うのにはさすがの森もその言葉をどう受け止めて良いか分からなかった。
「言った通りだ。一々騒ぎ立てる程の事でもあるまい。適当に片付けておけ。」
「しかし、それは余りにも…」
「くどいぞ、森!」
「は!失礼致しました!」
城主の意図は測りかねたが、森は城内を静めにかかった。城山の奥方は早産で母子ともに命を落としたことになり、実家の高峯にもそのように伝えられた。城内で事情を知る者には固く口止めがされたが、恐ろしげな噂は瞬く間に広がって行った。一部の人達は、城山領主が戦で余りにも沢山の命を奪ったから罰があたったのだとか、無念の死を遂げた者たちの呪いだとか囁きあった。
そしてそれらの噂に輪をかけるように、城山周辺の村々で不審な事件が相次いだ。
村人全員が胸を抉られて村が全滅するといった事が散発しだしたのだ。到底人の仕業とは思えず、鬼だか妖怪だかの噂が広がった。人々は怯え、それまで平和だった城山領内を不穏な空気が覆った。
「御館様、先日の矢田村に引き続き、越谷村、有明村が被害にあったそうです。例によって村は全滅、全員 鳩尾を抉られており、田畑や家財には被害はないとのこと。領民は皆、鬼か妖の仕業ではないかと噂して怯えておりまする。連日の怪事、越谷には念のために兵を十名程置いていたのですが、それらの者達も全員命を落としてしまいました。このままでは被害が広がるばかり。如何いたしましょう?」
森の報告に城主は目を閉じて何やら考え込んでいるようだった。普段即解即答の城主にしては珍しい事だ。流石に今回のような不可思議な状況では城主と言えども手の打ちようがないという事か。重苦しい気持ちで森が城主の返事を待つ。
「鬼か妖…か。森、この先わしは留守がちになるが他の奴らには知られないようにしておけ。」
口を開いた城主からは意外な言葉が放たれた。
「え?それは御館様が御自ら討伐に向かわれるという事でございますか?」
「細かい事はどうでもいい。お前は言われた通りにしろ。」
「は!」
森は主の心配をしていたが、それを口に出せば主の怒りを買うだけだとわかっているので口にしかけた言葉をぐっと飲みこんだ。
父親の使いで隣村の叔母を訪ねていた麻奈は、家に帰って驚いた。屋根の修理をしていた父と、その手伝いをしていた幼馴染の享助が家の前に倒れているのだ。屋根から落ちたのかと思って駆け寄り、更に驚愕する。二人とも胸を抉られ、周囲の土は赤黒く染まっていた。家の中には幼い弟がいる。不安に駆られた麻奈が家の中に駆け込むと、弟の佐吉も同様に胸を真っ赤にして倒れていた。息はもうない。麻奈は恐怖のあまり声一つ出せずにいた。噂に聞いていた鬼だか妖だかが白昼堂々この村を襲ったのだ。まだ側にいるかも知れない。一刻も早く村から逃げた方が良いのだろうか?それとももう既に全員が殺されてしまった後なのだろうか?麻奈は完全に混乱していた。何をどうして良いか分からず、ガタガタと震えながらおろおろと動きまわり、万が一に備えて側にあった鋤を手に外へと駆け出した。物陰に隠れて周囲を伺いながら村はずれへと向かう。まずはその恐ろしい惨劇の場から逃れたかった。
棚田の並ぶ緩やかな坂道を息を切らせながら上っていくと村を見渡す丘の上に誰かがいるのに気付いた。どうも二人いる様だが村人ではなさそうだ。麻奈は茂みに隠れながら恐る恐る近付いた。
「いい加減馬鹿な真似はやめろ。国をこんなに荒らしてどういうつもりだ?こういう喰い方をすると後で自分が酷い目に会うと知っているはずだろう?」
「だってまだこういう喰い方しかできないんだから仕方ないだろう?もう少し力を付けたら抉らずに済むようになるさ。それに無駄にいたぶったりせずに即死させてるからそれほど苦痛もないしね。昔のあんたよりはよっぽどましだろう?」
「こんなことをしてまで力など付けてどうするつもりだ?」
「あんたにあっさり喰われないようにしてるだけさ。万一喰われても内側から乗っ取れるようにしておかないとね。」
「元々俺だったくせに何を寝ぼけたことを言っている?どちらが喰おうが結果は同じだろうが?」
「本当にそうかな?今もまだ俺との繋がりを感じてる?」
「元々小さかったからよく分からん。あいつのお陰で独り立ちしたという事か?」
「そういうことかも。もうあんたとは別物という事さ。まぁ元が一緒だからあんたの記憶も残ってるし母上と繋がってた時の記憶もある。自分の事を棚に上げて俺に偉そうに言うのはやめてほしいね。」
「俺が何を棚に上げている?」
「かわいい我が子を取って喰うつもりなんだろう?」
「鬼と人の間に子などできる訳がない。お前はただの俺の欠片だ。」
「よく言うよ。子ができるようなことを散々してきたくせに。何も知らない生娘相手にやりたい放題やってたじゃないか。」
「それは…」
「母上が『そう望んだから』って言うんだろう?あんたが言いそうなことくらいわかってるよ。」
「なら俺が次にどうするかも分かっているな?」
「そうだな…俺を喰おうとするか、母上を呼び出すか、ってところだな。」
「よくわかってるじゃないか。じゃぁ、今すぐあいつを出せ。お前を喰う前に話しておくことがある。」
「話が終わった途端に喰われたんじゃたまらないからお断りだ。」
「とにかく出せと言ったら出せ!暁、出てこい!今すぐだ!暁!」
少年の姿が揺らぎ、代わりに若い女が現れた。
「那由他が私の名を呼ぶなんて珍しい。いつも『お前』としか呼ばなかったのに。」
「名を呼ぶ事は魂を縛ることに繋がるからな。既に俺の魂を持つお前を不必要に縛るのは面倒だったからだ。」
「ふうん。そうだったんだ。一の姫の事をいつも『あいつ』って言ってたのも同じ理由?」
「俺の中に眠っているあいつを不用意に目覚めさせたくなかったからな。下手に名を呼んで呼び起こすと面倒だ。」
「ご家老の名前はしょっちゅう呼んでたけど、あれはわざと魂を縛ろうとしていたってこと?」
「そんな必要はなかった。あいつはもうあれ以上縛れないところまで勝手に自分から縛られてきたからな。何か言い付けるのに名を呼んだ方が便利だったというだけだ。」
「それで今更私を呼びだして何の話?」
「暁、六徳丸をどうするつもりだ?」
「我が子なんだから大事に育てるに決まってるじゃない。」
「今の状態が大事に育てていると言えるのか?国を荒らして人を大勢喰わせてこいつがどうなるか分かって言ってるのか?こいつの髪が何故赤いと思う?那由他の欠片なら金茶のはずだろう?幼いうちに魂が血に染まり過ぎたせいだ。一壺天と同じ轍を踏ませるつもりか?」
「一壺天とは違うもの。さっきこの子も言ってたでしょ?無駄にいたぶったりしてないって。それに生まれてすぐはまだ小さかったから一人でちゃんと動ける大きさになるには魂が必要だったの。」
「お前の我儘のために一体何人犠牲にする気だ?いい加減あいつに張り合うのはやめろ。まぁ、今更言ったところで手遅れだが…。」
「だって那由他が言ったんじゃない!一の姫の事を『最高の女』だって。私の事はずっと『色気もない小娘』って言ってたくせに。城山でだって用事は全部ご家老に言いつけて私は邪魔者扱いで。私は那由他に認めて欲しかった。私と那由他の絆の証が欲しかった。そのために私にできることはこの子を産むことくらいしかなかった。」
「まったく。どこまで馬鹿なんだ?あいつは世の中に嫌気がさしていた俺にとってただの『癒し』だった。お前は生きることに絶望していた俺にとっての『救い』だった。どちらが重要か分からないか?絆?証?お前は俺の魂を奪った。それ以上の絆があるか?それをみすみす手放しやがって。」
「まだ手放してなんかない。ちゃんとこの子と一緒にいるもの。」
「さっきそいつ自身が言ってただろう?もう俺とは別物だと。自分が何をやったか理解できたか?」
「分からない!もう少し考えさせて!」
女が泣きそうな顔になって姿を消し、代わりにまた先ほどの少年が現れた。
「あぁ、長い痴話げんかだったね。それで言いたい事は言えた?」
「まぁな。まだあいつは納得できていないようだが。」
「それでどうするの?母上がああ言ってたのに俺を喰うの?」
「まだ先だ。あいつに免じてお前に猶予をやろう。人を喰う以外の方法で力を付けろ。それとあいつを喰い尽さないように気を付けるんだな。いくら内側からとはいえあんな不味いのを喰えたことだけは褒めてやる。あいつが自分を保てている間はまだ俺には不味くて喰えないだろうが、お前があいつを完全に取り込んでしまえば俺がお前を喰えるようになるんだ。そのことを忘れるな。」
「はいはい、ご忠告痛み入ります。父上。」
「そのふざけた口の利き方にも気を付けろ。あまり俺を怒らせない方が身のためだぞ。」
「だって母上がいる限りまだ不味くて喰えないんだろう?喰われる心配さえなければあんたなんかちっとも怖くないもんね。」
「俺がその気になれば喰う以外にもお前を抑える方法ぐらいいくらでもあるんだ。折角の自由を無駄にしないようにするんだな。」
麻奈はじわじわと二人に近づいていた。何を話しているのかはなかなか聞こえなかったが、大柄の男が時折声を荒げて『喰う』とか『喰えない』とかいうのは聞こえた。相手は艶やかな女物の衣を着た少年のようだ。途中、女のようにも見えたが、近づいてよく見ると不思議に赤茶けた色の髪をした少年だった。村人を襲ったのはおそらく大柄の男なのだろう。少年に見覚えはないが、男は次に目の前の少年を喰おうとしているのだと麻奈は思った。胸を抉られた弟の姿を思い出し、麻奈は理性を失った。このまま目の前の少年を見殺しにはできない。麻奈は偶然手にしていた鋤を強く握り直し、目の前にいる男に向かって突き進んだ。
「うわぁぁぁ!」
大声で叫びながら麻奈は男の背に鋤を打ち下ろした。だが、やや弾力のある手応えの後、麻奈は強い力で弾き飛ばされ地面に叩きつけられた。
男がゆっくりと振り返る。麻奈の渾身の一撃は男にかすり傷一つ付けてはいなかった。男は怪訝そうに麻奈を見つめて近づいてくる。麻奈は恐怖にガタガタと震えた。
「何だ、お前は?」
「こ、この…人殺し!」
ガチガチと歯の根を震わせながらやっとそう言った麻奈を、横で見ていた少年がせせら笑った。
「ははは、こいついい根性してるじゃないか。父上を襲おうとするなんて。」
「この村の者か?」
少年を無視して男が麻奈に尋ねた。
麻奈はただ黙って頷く。
「言っておくがこの村を襲ったのは俺じゃない。こいつだ。どういうつもりか知らんがとんだ勘違いだな。」
「ははは、誰がどう見たって父上の方が悪そうに見えるんだよ。さすが一壺天だね。」
「ふざけるな!そもそもお前がこの村を襲ったりするからだろうが!」
男が少年を一喝する。それから再び麻奈の方に向き直った。麻奈は生きた心地がしなかった。
「気概だけは認めてやるが相手が俺でなければお前は関係ない人間を殺しているところだぞ。人を『人殺し』などと呼べる立場ではないな。」
麻奈は自分がとんでもないことをしたことに気付いた。
「ご、ご免なさい。その人を『喰う』って言ってるのが聞こえたから、私、てっきり…」
「俺はこいつを諫めに来ただけだ。相手を間違えるにしてもひどすぎるな。」
麻奈自身もその意見には同感だ。間違った相手が悪すぎる。男の近くにいるだけで蛇に睨まれた蛙のように震えが止まらなかった。
「ど、どうか、お許し下さい!」
男が恐ろしすぎてまともに顔を見ることも出来ず、麻奈は地面にひれ伏して詫びた。
「この村の事は気の毒だった。それに免じて見逃してやる。それと、家族だか仲間だかの仇を取りたければ今のままでは到底無理だ。良い事を教えてやろう。北上国にある五石神社か京の阿比留神社に行け。そこでどうすれば鬼を封じることができるか聞いてみるんだな。」
「あれ?なんでこんなのにそんな大事なこと教えてやるんだよ?こういう不届き者はさっさと処分するに限るだろう?」
少年が口を挿む。麻奈は今にも殺されるのかとびくびくしていたが、男が意外にも麻奈を赦してくれそうなので少し安堵しかけたところへその言葉。麻奈の中で誰が本当の悪者かがはっきりした。
「こいつの仇は俺じゃなくお前だ。こいつがお前を抑えてくれれば俺の手間が省ける。まあ、そんなことができればの話だがな。」
「ははは、できっこないって分かってて教えるってのが逆に意地悪だよね。こいつに無駄な努力をさせる気なんだ。」
「俺に一太刀あびせることができた者などそうそういない。意外と何かやってくれるかも知れないぞ。」
「よく言うよ。相手の無力さを見せつけるためにわざわざ一太刀あびてやるのがいつもの癖だったくせに。」
「雑魚相手に俺がわざわざ動くこともないだろう?俺にかすり傷一つでも付けられるような奴がいれば面白いと思って待っていたがそんな奴が一人も出てこなかったというだけだ。」
「それなのに五石神社や阿比留神社を教えるんだ。こいつを二人目の清麻呂にでも仕立てるつもり?」
「そうなれば面白いな。まぁ、俺はこいつの敵ではない訳だから、気を付けなければならないのはお前の方だが。」
「ひどいなぁ。親が我が子に野良犬をけしかけるようなことするなんて。そんなことして俺にもしもの事があったら母上の魂も喰えなくなるってのに。」
「ふん。心配しなくてもそんなことになる前に喰ってやる。さっきも言ったが、もう人を喰うのはやめろ。特に俺の領地は絶対に荒らすな。わかったな!」
「はいはい、わかりましたよ、父上。できるだけ遠くに行って妖でも探して喰ってきます。いつか父上を超えたら父上を喰いに戻ってきますのでそれまで首を洗ってお待ちください。」
「俺は待つのは苦手だ。せいぜい俺がしびれを切らす前に戻ってくるんだな。」
二人は真奈の事などすっかり忘れたような会話をしていた。話が終わったようなのでひれ伏していた麻奈が恐る恐る顔を上げて見ると二人は既にどこかへ消えていた。
一人取り残された麻奈はまるで狐につままれたような気分だった。すべてが夢だったような、そんな気がした。だが、一度村に戻ってみて、そこここに倒れている動かない村人を見つけ、やはり夢ではなかったのだと確認する。そしてはっきりと記憶に残っている聞きなれない言葉。『一壺天』『五石神社』『阿比留神社』『清麻呂』。きっとこれらの言葉こそが彼らが何者で、なぜ麻奈の村がこんな目にあったのかという謎を解く鍵なのだろう。麻奈はひとまず京を目指した。




