和議
和議は恙なく結ばれ、その夜は城山軍を迎えての酒宴が設けられた。
皆が酔い潰れ、場内がどこもごった返して騒がしい中、暁はそっと宴の席を抜け出し、昨日燃えたばかりの成頼の部屋の前に来ていた。
思えば、ここで那由他に攫われてから色々なことがあった。結果的に那由他の力を借りて暁と春彦は念願を叶えることができたのだ。感慨にふけりつつ焼け落ちた館を見ていると、いつの間にか隣に那由他が立っていた。
「これで、一壺天の借りは返したぞ。」
何故か、那由他の言葉にズキっと胸が痛んだ。
「うん。色々と有難う。」
そう答えるのがやっとだった。
「これで建前上は高峯の姫だ。もう逃げ隠れする必要もないだろう。まぁ、せいぜい残りの人生を楽しむんだな。」
突き放した言い方に聞こえた。那由他はただ、暁が一壺天を解放したことの恩を返すために暁に協力してくれただけなのだと、今更わかって落胆した。一体自分は那由他に何を期待していたのだろう?
「那由他はどうするの?このまま城山に帰るの?」
「あぁ、不思議なことに鬼だった俺に居場所ができた。森も、他の奴らも俺を慕ってくれている。一壺天の時も妖はいっぱい寄ってきたが、どうも奴らとは合わなかった。今の様に人の中にいるのは何だか落ち着く。」
暁はその中には含まれていないという事か?先ほどの酒宴を思い出した。那由他と春彦が上座に座り、その周りを城山の武将が取り囲んで盛り上がっていた。何故か平悟が混ざりこんで皆で豊川との戦の様子を語り合っていた。どれも如何に瀬津の働きが神懸っていたかという話ばかりで、誰もが自分が見た光景こそが一番凄かったのだと自慢げに話していた。暁は話に入れなかった。那由他にとって、今は暁よりも森を始めとする城山の家臣たちの方が大切という事だろうか?暁の中に彼らに対する嫉妬のような、言いようのない遣る瀬無さが渦巻く。
「ここで、那由他に攫われていなかったら今の私はなかったんだろうな。本当に、有難う。」
もう一度攫われたいと、心の奥底で願っていた。
「あぁ、お前あの時成頼の側室になんかなってなくて良かったな。あの夫婦、どっちも捻くれてて、ややこしい事ばかりしてたから。お前は良いように相手の気を引く出汁に使われてたぞ。成頼は百合に子が出来たら殺されると思って自分の妻にも手を出せないような腰抜けだった。まぁ、実際道周斎はそのつもりだったがな。そもそも百合が成頼を気に入ってる事を父親に言ってないばっかりに道周斎は娘に気に喰わない結婚を無理強いしたと思ってたせいだ。お前も言いたいことをはっきり言っておかないとろくでもないことになるぞ。」
当事者全員を取り込んだから全てお見通しということなのだろう。成頼も暁ではなく百合を選んでいたのだ。結局、暁を一番に求めている者などいないのだという事を今更ながら痛感し、胸がちくちく痛んだ。
「うん。わかってる。どうせ私は色気もなくて、ただ不味いだけの小娘だって。」
那由他が暁に言った言葉を思い出し、卑屈な物言いになっていた。
「それでもお前は誰にもできなかったことをやっただろう?一壺天を赦すような器の大きな女だ。自信を持て。」
珍しく那由他が暁を励ますような言葉を口にするので、余計に別れの時が来たのだという実感が湧いてきた。
『私、やっぱり高峯に帰る。戦が起こるなら、弟を助けて何かできる事をしたい。』
『私の父は高峯の領主だったの。かつての領主の娘として、高峯の行く末を見届けたい。』
『私はこんなことのためにここまで来たんじゃない。高峯に帰る!』
『私の事は放っておいて。那由他なんか大嫌い!』
那由他に言ってしまった自分の言葉を思い返して後悔する。那由他は暁の言葉のままに願いを叶えてくれたのだ。ここで『やっぱり那由他と一緒に城山に行く』と言うのはあまりにも我儘が過ぎる気がした。
暁はどうしようもなく寂しい思いを抱え、口元まで出かけている言葉をぐっと飲みこんだ。
「私は…」
『本当は那由他と一緒にいたい。』と本心では思っているのに言葉に出来なかった。
「なんて馬鹿なんだろう。」
代わりにやっとの思いでそう言ったのに、傍らにいたはずの那由他は消えていた。
「はぁ…」
気が緩んで深く嘆息する。ふと仰ぐと、屋根が崩れて見通しの良くなった空に澄んだ弓張月が浮かんでいた。
それから数日、戦後処理の会議が続き、暁は蚊帳の外に置かれて不貞腐れていた。詳しい事を何も教えてもらえず、城山軍がすぐにでも出て行ってしまうのではないかとやきもきしながら過ごしていた。結局あの後、那由他と二人で話す機会は訪れなかった。
そしてとうとう城山軍が帰ってしまった。暁も見送りに出たが、黒耀にフンっと鼻水を飛ばされただけで、那由他は暁を一瞥すらせず、何も言わずに行ってしまった。
「では、暁殿、ご機嫌良う!また城山にも遊びに来られよ!」
森が愛想よく声を掛けてくれたのがせめてもの救いで、
「お館様も、森様もどうぞお達者で!」
暁がやっとそう声を掛けたのも、蹄や鎧の音にかき消され、那由他には届いていないようだった。那由他に無視され、追いかけたくても追いかけることもできず、その去りゆく大きな背中をただ寂しい気持ちで眺めていた。
城山軍が去った後も高峯は大変だった。安部も成頼もいなくなり、実質的な高峯の権力は三輪にあった。三輪が中心となって本田家を領主にまつりあげてくれたが、若い春彦が領内を纏めるのはなかなか大変だった。元服をしていなかった春彦は、瀬津から『直』の一字をもらって本田春直と名を改めた。春直の元服を喜んでいた三輪だったが、平悟から受けた傷の治りが悪く、日増しに体調を崩していた。そんな三輪の状態に、平悟は責任を感じて気が気ではなかったが、幸い森直々に高峯、豊川、城山の三国を行き来して状況を報告する係に任命されていたため、うろうろと忙しく動き回って殆ど高峯におらずに済んでいた。
暁は本人の知らない間に、成頼の首の切れ味の見事さから、『高峯の首狩り姫』という有り難くないあだ名で呼ばれるようになっていた。しかし世情に疎い本人はそんな自分の呼び名など知る由もない。
そうこうしているうちにあっという間に秋が来た。黄金色の田畑を見てはかつての那由他の黄金色の髪を思い出し、ますます切ない思いを募らせる。
「はぁ…」
と重たいため息をつく暁を他所に、春彦改め春直は年貢の取り立てに大忙しだった。
城山に上納する米は全収穫の三割に及びそうだ。戦の準備に出費も嵩んでいて高峯領の台所事情は火の車だったが、年貢を上げて領民から『上野の時代の方が良かった』とは絶対に言われたくない春直は、年貢を上げずにに何とかやりくりしようとしていた。今回本田を領主に認めてくれた家臣たちへの恩賞も考えなくてはならない。到底暁のくだらない悩みを聞く余裕などなかった。
「はぁ…。森様はお優しそうに見えて結構やる事がきついよなぁ。和議の時は無事に和議を結ぶのに必死で仕方なかったけど、この上納目録は無茶だろう。何とか少しでも減らしてもらえるように話を付けられないかなぁ?」
たまに春直が暁のところに来たかと思えば、そんな城山への甘い頼み事の相談ばかりだ。
そんな折、半年ぶりに森が高峯を訪れた。
年貢の取れ高の確認と遠く離れた領国の視察が主な目的の様だったが、久々に森に会えると知って、春直の緊張を他所に暁は喜んでいた。高峯の姫として直々に森をもてなそうと茶を用意して森と春直のところへ運んで来た時だった。中の会話が漏れ聞こえてきた。
「城山の御館様はご息災であらせられますか?」
春直の挨拶から始まった会話だった。
「ああ、勿論。最近は戦もなく、領内の安定に力を注がれておられる。そう、それでこの度、京の公家衆にも勢力を伸ばそうかと、大納言、三条望輝さまの姫との縁談が持ち上がっておってな。」
暁は手にしていた茶器をひっくり返してしまった。ガチャガチャっという物音に部屋の中の二人が暁に気付く。
「姉上!」
「おお、これは暁殿、お久しぶりじゃな。」
「あ、はい、森様。ご無沙汰でございます。申し訳ありません。お茶をお出ししようと思っていたのですが。とんだ粗相を。すぐに入れ替えて参ります。」
森への挨拶もそこそこに暁は足早にその場を立ち去る。一の姫が頭を過った。やはり那由他は京の雅な姫が好みなのだ。今、森と話せば動揺しているのがばれてしまう。暁は厨に戻ってしばし心を落ち着けようとしていた。
暁のいない間にも春直と森の話は進んでいた。
春直は森に高峯の石高を調べた台帳を見せながら何とか城山への上納を減らしてもらえないか恐る恐る交渉をしていた。
「それならば今回足りない分は借款という事にして、豊作の年にでも返して頂くというので如何かな?」
「はぁ。まぁ、そうして頂けるのであればまだ助かります。」
「ただ、多少他の条件を飲んで頂くことになりますが、宜しいか?」
「え?他の条件と言いますと?」
「正直、今の高峯は手放しで信用できる状態ではないので色々な意味で信用を得られるようにせねば。」
「はぁ。それは御館様が我々高峯の忠誠を疑っておられるという事でしょうか?」
「まぁ、心を疑っているというよりは取り巻く状況が安定しておらん事。此度の年貢の不足の件など。信じて貸した物が返ってこないというのでは困るからな。」
「それはごもっともですが、しかし…」
そこへ暁がやっと覚悟を決めて茶を運んできた。何を聞いても平静を装うつもりだ。
春直の言い訳を遮って森が話を続ける。
「おぉ、暁殿も来られたか。丁度良い。一緒に話を聞いて欲しいのだが、まずは春直殿の信用という件で、三条様の姫を妻に迎えて姻戚関係を結んではどうかな。」
「え⁉」
寝耳に水な話で姉弟は声を揃えて驚いた。
「そうすれば春直殿に公家の後ろ盾がつくことになる。あちらには領地からそれなりの収入を約束してやる必要はあるが。まぁ、昨今の公家と言えば家柄だけが自慢でかつての所領も失い、日々の生活にも苦労している者が殆ど。このように領地を持つ武家との縁談で何とか生活していっているのが実情という訳じゃ。」
「先ほど確か城山のお館様との縁談があると仰ってませんでしたか?」
我慢できずに暁が尋ねる。
「そうなんじゃが実のところ、お館様の噂を耳にした先方の姫がすっかり怯えてしまい、泣いて嫌がっているということで、何とか他の家臣あたりで話を纏めてもらえないかと頼み込まれてしまってなあ。わしとしては名家の姫を是非城山の奥方にと思っておったので些か残念じゃが、先方に断られては仕方がない。」
森の言葉に暁はほくそ笑まずにはいられなかった。暁のことを散々馬鹿にしてきた那由他が、京の姫に嫁入りを泣いて嫌がられているという事実は、小気味よくもあり、暁をほっとさせるものでもあった。
「その上で暁殿に、城山に来ていただけないかと思っておるのじゃが…」
「誠にございますか⁉」
暁が嬉しそうに声を荒げ、森はやや驚いた顔をした。
「それは、人質ということでしょうか?」
恐る恐る春直が尋ねる。
「まぁ、そうとも言えるが、ただの人質ではなく、お館様に正式に嫁いで頂こうかと…」
「はい!喜んで!」
森の話の途中で暁が答える。森が驚いて暁を凝視し、春直はやや焦った表情で暁を制しようとした。
「ちょっと待って、姉上、そんな簡単に承諾しちゃだめだよ。」
春直としては、少しでも暁を出し渋って城山との交渉を有利にしたいのが本音だったのだが、そんな弟の気苦労など気付く由もなく、暁は嬉々として森の提案を快諾してしまったのだ。
『この馬鹿姉貴!』
と春直は森さえいなければ暁の胸ぐらを掴んで怒鳴ってやりたい気持ちだったが、それをぐっとこらえて優しく諭すように話す。
「姉上、話がちゃんと分かってないようだからちょっと黙ってて。ここは俺と森様で話すから。」
「どうして?だって私の縁談でしょ?何で私が返事しちゃいけない訳?」
「だから、姉上は話の途中からきたから本来の意味を理解できてないんだよ。頼むから黙っててくれ。」
春直がそう言って暁を黙らせようとしたが、もう後の祭りだった。すかさず森が話を纏めにかかる。
「まぁ、こういうことはご本人の気持ちが一番大事じゃからな。暁殿に異存なければ決まりという事で話を進めて参ろう。」
「はぁ…。ですが、この件、お館様はご承知なのですか?京の公家の姫の代わりとしてはこの姉では余りにも差がありすぎる気がするのですが…。」
「なあに。勿論そこは心配無用じゃ。城山でも十分にこの件は吟味しておる。そもそもはじめは我が軍が高峯を去る際に暁殿に人質としてご同行頂く話もあったのじゃが、何でも春直殿と暁殿は何年も離れて暮らされていたとのこと。少しくらいは姉弟水入らずで時を過ごすのも良かろうとのお館様のお計らいでな。それでいよいよ人質に来ていただくにあたり、はじめは家臣の誰かに嫁がせようという話だったのだが主だったものは皆既に身を固めておって、そこへお館様の縁談も破談になったので、お館様相手に物怖じせぬ娘は暁殿くらいじゃろうということになった。何せ『高峯の首狩り姫』じゃしな。』
まさか自分の世間での呼び名とはつゆ知らず、きょとんとした暁が尋ねる。
「何ですか?その『高峯の首狩り姫』というのは?」
「おや、ご存じなかったか。城山をはじめ、世間では暁殿はそのように呼ばれておる。何しろあの成頼の首の切り口の見事なこと。暁殿はどこで剣術を磨かれたのか、詳しく聞きたいと思っておったんじゃ。」
まさか首の切り口などをそれほど人が気にするとは思ってもみなかったので、那由他が切った首をそのまま何も考えず持って行ったが、切ったのが那由他だなどと言える訳もなく、今更ごまかすのも難しい。
「剣術など、習ったことはございません。せいぜい剣の握り方を教わったくらいで…」
話しながら、那由他と伊邪七岐を握った時の事を思い出す。
「丹田に力を入れて気を込めろと、そう教わったくらいです。きっとあの時は必死だったので特別上手く切れただけでしょう。ただの偶然です。」
「いやいや、偶然で片づけられるようなものではなかった。暁殿は余程筋が良いと見える。城山に来られたら、是非城の者共にも稽古を付けて下され。」
「はぁ…」
森から妙な頼まれごとがあったものの、正式に那由他のところへ行けるのだから暁としては願ったり叶ったりだ。そして暁の縁談が決まった事で春直の縁談も自動的に決定事項となった。というのも、多くの城山家臣が一田舎領主の本田家と瀬津では釣り合いが取れないと考えていたため、春直を公家の姻戚にして本田家を格上げし、その姫を嫁がせれば良いという事に決まっていたからだ。その後森がいないところで春直が相当不機嫌な顔でグチグチと暁の浅はかさに文句を言っていたが、当の暁はというと嬉しさのあまり春直の言葉などちっとも耳に入らなかった。
そして世間には『高峯の首狩り姫が借財の形に城山に嫁ぐ』という認識をされたが、暁は何と言われていようが全く気にならなかった。
ただ、暁の知らないところで怒り狂っている者がいた。春直が安部を討つとき、『妻にする』という約束をした芙蓉だ。高峯平定後、忙しいうえに高額な芙蓉の身請け代をすぐに用意することなどできなかった春直は、芙蓉には金が用意できるまで少し待ってほしいと言っていたのだ。だが、実際には城山への上納金でそんな大金など用意できるわけもなく、その上今回の縁談となったので、芙蓉としては騙されたとしか感じられず、何とかして縁談をぶち壊してやりたいと考えていた。
春直も、芙蓉の事は気にはしてはいたものの、正直城山から強制された事を理由に芙蓉を妻にせずに済みそうなのはありがたかった。
戦の直後に暁は春直から本田の隠し金の事を尋ねられたが、城山軍もいる時だったので、地下牢で見つけた金の事は秘密にしていた。春直が暁の事に色々と腹を立てていてまともに会話できる雰囲気ではなかったこともある。もしあの金を春直に渡していたら、借金の形に城山に嫁ぐ話はなかったわけだから、言わなくて良かったと本人はいたく満足していた。実際、もし春直が金を手にしていたら芙蓉の身請け代になっていたかも知れないので、暁にしては良い決断をしたことになる。暁としてはもう高峯を取り戻したのだからあの金は次の有事に備えて秘密にしておこうという気になっていた。城は既に春直のものなのだ。その気になれば春直が自分で見つければいい。
そうして春直の祝言、大納言家への支援金、暁の嫁入り支度と、嵩む出費を城山から借りて賄い、高峯は領主が入れ替わって早々に借金まみれで首が回らなくなってしまったのだった。
年が明けていよいよ暁が城山に向かう時が来た。
出費を抑えるため、暁は輿ではなく馬で城山に向かった。共も三人で荷物もほとんどない。城山城下に着く手前で嫁入り道具一式と合流し、花嫁行列を作る手筈だ。国内が安定していないため、春直は高峯に残り、城山へは平悟が付き添ってくれた。
籠に収まって行列で城へ向かう『高峯の首狩り姫』を一目見ようと町の通りには人だかりができていた。暁は籠の中から外の様子を伺い、あまりにも衆目を集めている事に驚いた。気恥ずかしさと同時に誇らしさを感じながらも籠の中に居られて良かったとほっと胸をなでおろす。
そこからはもう何が何だか分からないままに事が進められ、気付くと暁は広間で那由他と並んで座っていた。目の前にどこからか呼ばれて来た神職が祝詞を上げていた。那由他が不機嫌な顔で森に目配せする。森がそっと御館様の傍らに控える。那由他がかなり怖い顔で森に耳打ちする。
「何だこいつは。今すぐ辞めさせろ。」
森が祝詞を上げている神職にこそっと何やら耳打ちし、城山の国と領主の繁栄やら何やら盛沢山に注文していた祈祷は相当省略され、早々に締めくくられた。
いつの間にか固めの盃を交わし、気付けば酒宴となっていた。また例のように城山家臣団がお館様を取り囲んで大酒を飲みながら盛り上がっている。そしてやはり平悟が当たり前のように混ざりこんでいる。平悟が側にいるのは暁にとっても心強かった。謡う者、踊る者など余興を呈する者が一巡りすると両手で抱える程の大盃を使っての飲み比べが始まった。ほぼ全員が泥酔した頃、侍女がそっと暁を連れ出して奥の寝所へ案内する。
夜着姿で設えられた床の傍らにちょこんと座らされ、一人那由他を待つのは何やら緊張する時間だった。那由他が来たら何と言おうかとか、どういう態度で迎えるべきかなどいろいろと思い悩みながら待っている時間は長くも短くも感じられた。
すると突然ガラガラ、バシンっと乱暴に襖を開け閉めする音がして那由他がドカドカと部屋に入ってきた。
音にビクッと驚き、暁は緊張して居住まいを正す。
「不束者ですが、どうぞ宜しくお願い申し上げます。」
きっちりけじめをつけておこうと礼儀正しく頭を下げる暁に対して、
「全く。一体どれだけ俺に面倒かけたら気が済むんだ!」
暁の襟首を掴んで那由他が詰め寄る。那由他の近さに暁の心臓が鼓動を早めるが、妙な緊張は解けた。
「あれだけ言いたい事があればはっきり言っておかないとろくでもないことになると忠告してやったのに!森から話は聞いてるだろう?」
暁には那由他の質問の意図がよくわからなかった。暁は『那由他と一緒に城山に行きたい』という本心を打ち明けられずにいたにもかかわらず、結果的にはきちんと祝言まで上げて正式に那由他の妻に納まることができたのだから暁としては万々歳なのだが、確かに森の話では本当は暁は城山の家臣の誰かに嫁ぐはずだったし那由他も予定していた縁談は公家の姫だった。那由他が暁の意向を汲んでくれたという事なのか?
「正直に言ってみろ。借金の形に『大嫌い』な俺に嫁ぐ気分はどうだ?」
あれだけ喜んでいたはずなのに、そんな意地悪い言い方をする本人を前に正直な気持ちを伝えるというのは何とも気恥ずかしくて難しく感じられ、暁は言葉を濁す。
「あの…感謝してます。私に高峯の役に立てる機会を与えて下さり、立派な祝言まで上げて下さって…」
「それが本心か?森が呆れていたぞ。お前、森がこの話を持って行った時、『喜んで!』って即答したらしいな?」
暁の顔が耳まで真っ赤に紅潮する。もう、何と言って胡麻化していいか分からない。
「いいか?お前の立場を正しく理解しておけ。他の奴らがお前を『奥方』と呼んで敬うふりをしてもお前はあくまでも人質だ。周りに大事にしてもらえるのは全て俺のお陰だという事を忘れるな。この城で俺や森に逆らうことは絶対に許さん。それと、今後俺に嘘を言うのはやめろ。きちんと本心を話せ。これ以上面倒な目に会うのは御免だ。分かったか?」
「はい。」
そう答えつつも、いつもの那由他の偉そうな物言いに、いつもの暁の反抗心がむくむくと頭をもたげてくる。だが、ここは那由他が正しいと認め、大人しくしておく。
「じゃぁお前の望みを言え。これからどうしたい?俺にどうして欲しい?」
那由他が更に近くに詰め寄りながら尋ねる。暁は後ろの床に片手をついて今にも押し倒されそうな恰好だ。天守で那由他に抱きすくめられた時の事が頭を掠ったが、那由他の問いに何と答えればいいのか分からなかった。
「私は…これからも那由他の側にいたい。ずっと、那由他の側に置いて下さい。」
今まで上手く言えなかった言葉を漸く伝えることができた気がしたのだが、那由他はというと
「はぁ…」
とため息をつき、さもうんざりしたという表情で暁を見る。
「まぁ、お前にしてはまだ上出来な方だな。」
「那由他は…」
『私にどうしてほしいの?』と聞こうとしたのだが、暁の口は那由他の口で塞がれてそれ以上言葉を紡ぐことができなかった。那由他が暁に覆い被さり、長い腕が暁を包みこむ。那由他の指先が背中から腰へと流れていく。ただそれだけで暁は体の奥から震えるような熱い感覚を覚え、恍惚とした。声が出れば声を上げていただろう。那由他がきつく暁を抱き締める。苦しくて息が出来ず、意識が遠のいた。
「げほ、やっぱりまだ無理か。相変わらず不味くて喰えないな、お前は。」
遠のきかけた意識をはっと取り戻すと、また例の言葉。性懲りもなく那由他は暁を喰おうとしたようだ。
「ちょっと、今本気で私を喰べる気だったの?」
「ふん。これ以上お前に振り回されるのはいい加減うんざりだ。だが今はまだ不味くて喰えないようだから仕方ない。せいぜい俺を飽きさせないようにするんだな。いつかそのうち喰い殺してやる。」
暁は今はそれも悪くないと思えるようになっていた。『あいつがそれを望んだから』一の姫や臨元斎を喰った理由として那由他が言っていた言葉が、今では理解できた。そして那由他の言葉を思い出してふと気付く。
『お前、まだ俺の魂の欠片持ってるだろう?』
『高峯にいるのはろくでもない女ばかりだ。俺を良いようにこき使いやがって。』
『これ以上お前に振り回されるのはうんざりだ。』
要は那由他は暁の思い通りに動いてくれるということなのでは?何だかんだ言って高峯を本田の手に取り戻してくれたし、今回も暁を城山に迎えてくれた。他の皆が顔もまともに見られずに震え上がる瀬津直忠が暁の言いなりなのだ。そんなに楽しい事は他にないだろう。事情を察した暁は強気の姿勢で言い放つ。
「喰い殺せるものならいつでもどうぞ。それまで飽きられないように散々振り回してあげるから。」
第2部完結です。
第3部に続きます。




