仇討ち
今宵、成頼を討つ。
そう城内を取りまとめた安部、三輪、正志朗の三人は最後の詰めの相談をするため、まだ日も高いうちから藤野屋に集まっていた。軍を率いているはずの三人が家にいては怪しまれるからだった。
高遠軍は分散して国境の守りに向かい、城はほぼ空っぽで不気味な静けさに覆われている。主だった武将も軍を率いて留守だ。城には成頼一人残された形になっていた。
暁は諦め半分、しかし他にどうしていいかも分からずぼんやり藤野屋を見張っていたが、焦る気持ちに居てもたってもいられなくなり、高峯城へと向かった。暁が藤野屋を立ち去った暫く後、入れ違いに春彦が年配の男達と共に馬で乗りつけ、中に入って行った。
「城山に宛てる使いは正志朗に任せよう。大仕事だぞ。心してかかれ。」
「はい。」
「書状は既に用意できておりまするゆえ、後は現城主の首さえ添えれば完璧でございます。」
「ああ。全く。思えば上野成頼も気の毒よのう。この期に及んで忠義を尽くそうという家臣が城内に一人もおらんとは。皆あまりにも素直にわしに従いおった。」
「安部様のご人徳ゆえでございましょう。それに上野家の古くからの家臣は日吉と先陣に追いやっておりますれば、今から駆けつけても後の祭りでございますし。」
「そうそう、で、そちらの方も手はずは整っておるな?」
「はい。今宵我らが成頼を討ちます時を同じくして日吉の安東、丸亀、山下を討ち取る手はずが整っております。そちらには江田殿と稲葉殿が手勢を率いて参りました。」
「うむ。抜かりないな。奴らさえいなくなれば誰もわしを上野の仇とは思わんだろう。後はなんとかうまく城山を丸め込むだけか…。」
「そこは安部様次第でございます。高峯臣民の明日は安部様に掛かっておりまするゆえどうぞ宜しくお運び下さい。」
「ああ。全てはわしの舌先三寸にかかっておるという訳だ。まあ、ここまできたらなるようにしかならん。断られた時には領地は諦めて着の身着のまま逃げ出さねばならんかも知れん。」
「それでも安部様はお困りにはなりませんでしょう?」
「ははは。困らん訳ではないだろうが、そうなれば武士は辞めて商人にでもならねばならんな。そうしたら三輪、そなたも一緒に来い。」
「はい。勿論でございます。」
「こんな時にこそ例の本田の隠し金でも見つけたいものよのう。」
その言葉に正志朗の目が鋭く光った。
「本田の隠し金とは?」
「ああ、正志朗は若いから知らんだろう。先の領主であった本田家が貯め込んだ金をどこぞに隠したという噂があってな。というのも上野家が領主に成り代わった際に城の蔵納目録と蔵の中身を見比べるとあまりにも残されたものが少なかったんじゃ。まぁ、その後本田が反乱を起こしたんでもしかすると城から持ち出せるだけの金を持ち出しておいてその時の戦費に使ったのかもしれんが、とにかくそういう事情があってな。あとどこぞの鍛冶屋がかなり昔にお城で秘密の仕事を任されたという噂があるとか。それが結構な量の金を溶かす仕事だったという噂でな。だが、まあ噂は噂じゃ。そんな物があればもう誰かが見つけ出しておるじゃろう。」
『そんな事はない。お前は父上の言葉を知らないからそう思うんだ。』
そう考えながらも正志朗は安部の言葉に、今まで期待していた金塊が既に先の父の反乱で使われてしまったかも知れないという諦めを抱き始めた。
「まあ、それはさて置き。そろそろ最後の詰めと参りましょう。成頼の首を取りに参りますゆえ、安部様はここでごゆるりと吉報が届くのをお待ち下さい。」
「うむ。頼りにしておるぞ。」
「こちらには正志朗を残しておきます。万が一の場合は正志朗、安部様を頼んだぞ。」
「はい。」
口ではそう答えつつも、『万が一の時は俺がこの手で安部を討ってやる。』
そう心に決めていた。
「では行って参ります。」
「ああ。結城や立川に宜しく言っておいてくれ。」
「はい。」
三輪が席を立ち、三輪を見送るべく正志朗が後に続いて部屋をでようとすると、安部がその後姿に向けて声を掛けた。
「そうそう、それと女将に芙蓉を呼ぶように言ってくれ。」
「今からでございますか?」
「ああ。すぐにだ。」
返事もできずに正志朗はただ頷いて部屋の戸を閉めた。
まだ日も高いというのに。これから三輪が命掛けで成頼の首を取りに行くというのに。この国の大事が掛かっている時に。そう思うと正志朗の中で何かがぷつんと切れた。
すぐにも部屋に戻って安部に切りかかりたいという衝動を抑え、平静を装って三輪の後を追う。
「安部様より芙蓉を呼ぶようお言付かりましたので女将のところへ行って参ります。」
「ああ、分かった。城の方はわし一人で十分だ。行ってこい。指示を出したら一度こちらに戻って来るつもりだが、安部様のこと、くれぐれも頼んだぞ。」
「はい。あの、三輪様…」
三輪と離れる前に、本当の事を話したかった。
「うん?どうした、正志朗?」
「もし、もしも先の…」
そこまで話しかけた時、玄関脇の部屋に控えていた女将が顔を出したので正志朗の言葉はここで途切れた。
「あれ、今私を呼ばれましたか?」
正志朗の『女将のところへ』という言葉が聞こえた様だ。
「安部様が芙蓉をお呼びだ。急ぎ仕度するよう伝えてくれ。あまり大人数はよくないので芙蓉一人でいい。それと、安部様が退屈なされないよう、芙蓉を待つ間女将がお相手を頼む。わしも三輪様も大事な用があるのでな。」
正志朗は女将を遠ざけたくてそう言ったのだが、
「はい。かしこまりました。」
そう答えると女将はまた元の部屋でなにやらごそごそとしている。三輪に真実を打ち明けられるような状況ではなかった。
「正志朗、先ほど何を言おうとしていたのだ?」
三輪が怪訝そうに尋ねる。
「あ、申し訳ございません。何を言おうとしたのか忘れてしまいました。大したことではなかったのでしょう。お気になさらず。どうぞお気を付けて行ってらっしゃいませ。」
三輪を見送ると、正志朗はこっそりと空いていた部屋に入り込み、廊下を通りかかる筈の芙蓉を待った。頭の中で目まぐるしく様々な考えが巡る。そして正志朗は三輪の留守の間に安部を討とうと決めた。胸がバクバクと波打った。冷静にならねばならないと思うのに頭に血が上って周りが見えなくなっていた。
『この高峯の一大事に何故?』と自分でも不思議なのだが、まるで見えない運命の糸に操られるかのように正志朗は安部を討つなら今だという思いに駆られていた。冷静さを取り戻そうとする頭で考える。『もしこのまま事が上手く行き、安部が城山に取り入るのにも成功し、高峯を任されるまでになればそれこそもう手出しできなくなる。今なら他の者は皆城の方に気を取られていてここにいるのは安部と自分だけだ。こんな好機はもう二度とないかも知れない。それにこんな事を計っている時だからこそ安部を討つ大義名分も成り立つ。城山との交渉は三輪様で十分だ。いや、それどころか三輪様の方が安部よりも誠意ある態度が感じられて適任と言える。安部は二度に渡って主君を裏切るような男だ。城山に対しても安部より三輪様を立てた方が良いという言い訳になる。それに万が一上野が落ちなかった時には謀反人を成敗したという言い訳が立つ。』
そして思い出す勘助の言葉。『芙蓉は使える女です。』
正志朗は無意識の内に安部への復讐に芙蓉を巻き込む決意をしていた。ただ殺すのではなく、父が裏切られた気持ちを少しでも味あわせてやりたい。自分一人が裏切るよりも、安部が何より信じている者からの裏切りを死に際に突きつけてやりたい。そんな残酷な復讐心に駆られている事に今更ながら気が付いた。だが、正志朗本人の気付かない心の奥底には『一人でできるだろうか?』という自信のなさと、何だかんだ言っても今まで目を掛けてくれていた安部を裏切る事への後ろめたさがあった。そして、より安部の寵愛を得ている芙蓉を裏切らせる事が自身の罪を軽くするように感じられているのだという事には、今のこの段階では自覚が無かった。
正志朗は懐を探った。
正志朗の指先は、ここ数日持ち歩いていた紙包みに触れた。それは姉と別れた後に一度、姉が心配で鷹頭山に帰った時に偶然山で見つけた鳥兜の根の粉だった。家に姉の姿が無く、心配に後ろ髪を引かれつつも山を下りる途中で見つけた紫の花。運命のようなものを感じた。もしかしたら死んだのかも知れない姉や、姉から死んだと聞かされた母の魂が来るべき時の為に自身をその花に導いたのではないかと、そんな錯覚さえ覚えた。
そうしてその花の根を掘り、乾かして粉にしたものをここしばらくの間誰に使うかも考えず、ただいざという時の為に常に持ち歩いていたのだ。素人がたいした知識もなく人から聞いた話を元に処理したものだ。毒としてどこまで効くかも分からない。だが、安部に芙蓉の裏切りを確信させる程度には役立つだろう。
興奮し、気が逸っている正志朗にとって芙蓉を待つ時間は焦燥感に苛まれる非常に長い時間だった。だが、いざ芙蓉が現れると、廊下を通るサラサラという衣擦れの音にはっとし、『遂にその時が来てしまった』という今までの長い待ち時間が一瞬だったかのような感覚に襲われた。
正志朗はそっと障子を開け、目の前を通りかかる芙蓉に声を掛けた。
「芙蓉。」
突然思ってもいない場所から現れた正志朗に芙蓉は驚きの眼をむけた。だが、それはあくまでも好意的な驚きであった。
「まぁ。正志朗様。この様なところで如何なされました?」
「二人切りで話しておきたい事がある。こちらへ。」
正志朗は芙蓉を部屋に招き入れた。
『二人切り』での話しときいて芙蓉の心はときめいた。
「この様な時に二人きりでの話しとは、一体何でございましょう?」
芙蓉は期待を込めて尋ねる。
「何、大した用ではないのだが…。今高峯が大変な局面にあるのはそなたも知っているであろう?特に安部様は大事な鍵となられるお方。万が一に備えておきたくてな。ところで芙蓉、そなたは安部様のお気に入り。今宵、事がうまく運べば安部様は高峯の主になられるやも知れぬ。そうすればそなたもここを出て城に移ることになるかも知れぬな。わしがこの様に気安く話すこともままならぬようになるやもしれん。」
正志朗は自分でも何を言っているのか訳が分からなかった。ただ、芙蓉の心を確かめてからでなければ今から行おうとしている危険な綱渡りに巻き込むのは返って自らを危険に陥れる事になりかねないと分かっていた。
正志朗の突飛な話に首を傾げつつも芙蓉は懸命にその意図を酌もうとしていた。しかも好意的に。
「まあ。そのような悲しい事を…。もしやそのために今お声をかけて下さったのですか?もうこうして二人で話すこともままならなくなるかも知れぬと案じられて…。私は以前から申し上げております通り、正志朗様に心奪われておりまする。例え安部様のご寵愛を受けようとも魂は死んでも正志朗様のものでございます。滅多な事を口走ってはならない事は重々承知の上で敢えて申し上げますが、もし此度の件がうまくいく事で正志朗様との悲しい別れが来るというのならばこの手で邪魔をしてやりたいくらいでございます。」
芙蓉は涙を潤ませた目で媚びるような眼差しを送りながら正志朗の袖に縋るようにそう言った。
正志朗はそんな甘い態度をとる芙蓉をいじらしいとは微塵も感じなかった。ただ、その言葉に信じてよさそうだという手ごたえを感じ、芙蓉を使えるとふんだ。
「そうか、ならばわしと生死を共にする覚悟があるか?命がけで禁を犯す覚悟はあるか?」
正志朗は何をどう、とは言わなかったが、芙蓉はその言葉を正志朗が自分を連れ出す覚悟で言っているのだと解釈した。
「もちろんでございます。正志朗様のためでしたら神も仏も敵に回して悔いはございません。」
その言葉が正志朗の決意を固めた。
「ならば、何も聞かずこれを安部様の酒に入れてくれ。」
芙蓉の表情に稲妻の様に一瞬だけ翳が走った。そして何事も無かったかの様に穏やかな顔で、媚びるような追いすがるような態度で芙蓉は言葉を紡ぐ。
「何も聞くなと仰るのであれば何もお聞き致しませぬ。ただ、かなり危険な仕事かとお見受け致します。それこそ命掛けの…。かような仕事、見返りに何を頂けるのでしょう?」
芙蓉の言葉に正志朗は一瞬言葉を詰まらせた。よもや見返りを要求されようとは思ってもみなかったのだ。下手な提案ではかえって芙蓉の不況を買うだろう。そうなればこのような危うい話を持ちかけた以上、芙蓉から切らねばならなくなる。出来れば芙蓉は味方に引き入れたい。焦る正志朗は逆に芙蓉に問い返す。
「何が望みだ?」
「私を正志朗様の妻にして下さいませ。」
「わしの妻に…?」
「はい。何も聞かずただ正志朗様のためだけを思って私は命を掛けるのでございます。全ては生きるも死ぬも正志朗様とご一緒したいが為。何卒事が成就したあかつきには私を正志朗様の妻にして下さいまし。正志朗様のお気持ち次第で芙蓉は喜んでこの命を投げ出す所存でございます。」
迷っている暇はない。思いを寄せた百合はもういない。先のことなど分からない。今宵二人とも命を落とすこともあり得る。ただ一言頷くだけならば、簡単なことだ。正志朗は先のことなど考えもせずにその場しのぎの答えを出した。
「わかった。そのようなことで良いのなら約束しよう。」
「誠にござりますね?」
嬉しそうに顔を綻ばせて芙蓉が念を押す。
「ああ。二言は無い。今宵無事に事を成就できたなら、何とかそなたをここから連れ出せるよう算段しよう。」
「そのお言葉だけで芙蓉は天にも昇る心地でございます。何としてでも正志朗様のお心のままに事を進めて見せまする。」
これから二人が行おうとしている事が何かなどという事には構いもせず、ただいじらしい素振りでそう告げる芙蓉に、正志朗は改めて良心の呵責を抑え付けるだけの覚悟を強いられた。そして芙蓉が加わる事により、ただ漠然とした思いに突き動かされただけの正志朗の衝動はにわかに現実味を帯びだしたのだ。
「これを安部様の酒に混ぜ、しっかり飲ませてくれ。案ずる事はない。わしも側にいて何かあれば全ての責任はわしが取る。芙蓉はただ安部様に何も感付かれずにこれを飲ませてくれれば良い。」
「はい。ですがどのようにしてまぜましょう?おかしいと気付かれはしませぬでしょうか?」
「そうだな。この薬、どこまで効くかは分からんが大量に使うと味が変わっておかしいと気付かれるやも知れん。まずは安部様を酔わせ、酔ったところで少しずつ薬を盛ってくれ。」
「はい。では先ずは存分に酔って頂きましょう。それと、お酌の途中で薬を混ぜるのは不自然でございます。正士郎様はこちらの瓶子の酒にそのお薬を混ぜておいて下さいまし。安部様が酔ってこられましたら瓶子を取り替えまする。」
芙蓉が例の甘えたような笑みを浮かべた。その笑みを見て正士郎は内心ぞっとした。
「お待たせいたしました。このような時間に急なお越し、何か特別なことでもあるのでございますか?」
「おお、芙蓉。そなたにだけは教えておこうか。おや、正士郎は?」
「何やらお忙しそうにされておられました。すぐにお戻りになられるでしょう。それよりも今日は何やら物々しい様子。芙蓉には何があるのか教えて下さいませ。」
「おお、そうそう、それだが、絶対に他の者には言うなよ。」
そう言いながら安部が芙蓉の耳元に囁く。
「今宵、成頼の首を取る。」
「まぁ!」
芙蓉が袖で口元を抑えながらさも驚いた風に目を見開く。
「ははは、案ずるな。既に城内もその方向でまとまっておる。三輪が早々に方を付けてくれるだろう。そうなれば高峯はもうわしの物よ。表面上は城山に下るが実権はわしが握ると思って間違いあるまい。仮に城山から別の城主が来たところで所詮よそ者。適当にあしらってくれるわ。」
「ですがそれでしたら今までとあまり変わりございませんね。これまでも高峯は安部様の意のままでございましたもの。」
「まあそう言ってしまえばそうじゃが、うまくいけばわしが城主になれる格好の機会じゃ。もしわしが城主になったら、芙蓉、そなたを城に住まわせてやろう。」
「まぁ。そうなればどんなに嬉しいでしょう。では今日は前祝でございますね。さぁさ、どんどんお召し上がり下さい。」
芙蓉が安部に酒を勧める。
「まだすべてが片付いた訳ではないのでな。あまり酔ってしまうのは拙い。ほどほどでな。」
口ではそう言いつつも上機嫌の安部は綻んだ表情で芙蓉が注ぐ酒を次々と口元へ運ぶ。
「あら、もう無くなってしまいました。お代わりをお持ちしますね。」
芙蓉が立ち上がろうとするのを安部が制止する。
「いやいや、この位で十分じゃ。今日はちと飲み過ぎた。」
部屋の外で様子を伺っていた正志郎は毒入りの酒を手に部屋の戸を開けた。
「安部様、女将からの特別な酒でございます。なんでも唐の皇帝に献上していた物と同じ物だとか。正に今宵の安部様の為の酒でございます。」
にこやかにそう言いながら恭しく瓶子の乗った盆を安部の前に差し出す。
「まぁ、それは前祝に丁度良うございますね。さぁさ、どうぞ。」
流れるように芙蓉が瓶子を手に取り安部の杯を満たす。
「おお、そうかそうか、正志朗、折角だからお前も飲め。さぁ、芙蓉、お前もじゃ。」
酔ってご機嫌の安部は二人にも杯を取らせ、手ずから酒を注ぐ。断れば不自然だ。
「まぁ、私まで頂いて宜しいので?」
そう言いながら芙蓉は自然に杯を受ける。飲んだ振りなど手慣れたものだ。一方の正志朗はやや体を強張らせて答える。
「某は安部様をお守りする役目ゆえ、酔ってはまずうございます。」
「なぁに、一杯くらいで酔ったりなどするか。味見くらいしておけ。」
「はぁ、それでは…」
渋った様子で正志朗が杯を受ける。
「では、高峯のために!」
安部が杯を高く掲げてから勢いよく口元へと運ぶ。芙蓉と正志朗が続くが、芙蓉は口元を隠して飲んだ振りをする。正志朗は横目で芙蓉を見ながら同じく杯を口元まで運ぶも、口を付けることはなかった。
「ごほ、ごほ!」
安部が咳き込むのを見て、正志朗は杯の中身を側にあった汁椀に零し、安部に合わせて軽く咳払いをする。
「確かに変わった味がするわ。お前たち、どう思う?」
「おそらく唐の男達はこのような刺激の強い酒を煽るように飲んで豪傑ぶりを競うのでございましょう。」
「安部様のような豪傑によくお似合いの酒と存じます。」
芙蓉がすかさず開いた杯に酒を注ぐ。
「さぁさ、どうぞもう一献。」
「そんなものかのう…」
大分良いが回っていると見え、安部は勧められるままに次の杯を口へと運ぶ。
「お前たちも飲め、飲め。」
安部が芙蓉の手から瓶子を奪い、二人にも酒を注ごうとするが、手を滑らせて瓶子を落とした。膳がひっくり返り、載っていた料理が飛び散る。
「きゃっ!」
芙蓉が軽く悲鳴を上げる。
「まぁ、大変。お召し物は汚れてませんか?すぐに片づけさせますね。」
袂から布を出しながら安部に尋ねる。
「おお、わしの方は大丈夫じゃ。すまぬ、そなたが濡れてしまったな。」
「大事ございません。すぐに片づけさせます。私もしばし失礼仕ります。」
そう言って芙蓉は席を立つ。
「誰か、すぐにこちらへ。」
部屋の外に声を掛ける。
「はい、ただいま。」
見習いの若い娘が飛んできて部屋を片付ける。芙蓉は汚れた衣を着替えるために部屋を出ようとしていた。
「うぅ、これは、どうしたことか…?」
安部がガタガタと震えだした。ブルブルと痙攣する手を床について崩れそうな体を支える。どうやら毒が効いてきたらしい。
芙蓉ははっと袖で口元を抑えて安部を見る。
正志朗はやや硬い動きで安部に近づき、
「如何なされました?」
安部の具合を確認する。このまま苦しんで死ぬのを待つか?それともこの手でとどめを刺すか?この後どうするか迷っていた。
「あの、どうしましょう?」
膳を片付けていた娘が戸惑って芙蓉に尋ねる。
「大丈夫。少し酔われておられるだけじゃ。水を持って参れ。」
芙蓉が娘にそう言い、娘は膳を手に急いで部屋から出て行く。
その様子に安部も何か勘付いたのだろう。
「お前たち、先ほどの酒は何だ?これは一体どういうことだ?」
目を見開き、怒りに満ちた形相で安部が床を這う。
芙蓉は恐怖に立ち尽くし、正志朗は無言のまま安部の手の届かない位置に後退る。
「芙・蓉…」
安部が這いつくばりながら芙蓉の方に手を伸ばす。
「ひぃ!正志朗様、どうにかして下さいませ!」
たまりかねて芙蓉が正志朗に助けを求める。
ドカッと正志朗が安部の背を踏みつけた。
安部の動きが止まる。正志朗の胸の鼓動が高まる。
「死ぬ前に教えてやる。わしが何者か。わしは先の高峯領主、本田春臣が嫡男、本田春彦。ずっと裏切者に一矢報いるために身分を偽っておったのだ!これでどういうことかわかったであろう!」
「うぅ、この恩知らずの嘘つきめが…!本田に息子なぞおらなんだぞ!仮にそうだとして、誰が今までこの高峯を守ってやっていたと思う⁉」
正志朗の理性がぷつりと切れた。咄嗟に彼は腰の刀を抜き、足元の安部の背中に突き立てた。
「ぐはぁ!」
安部が口から血を吐く。全身はまだビクビクと痙攣している。
「きゃぁ!」
水を持ってきた先ほどの娘がその光景を目にして叫んだ。
「しい!」
ずっと立ち尽くしていた芙蓉が娘の口を押えた。
娘の悲鳴にはっと我に返った正志朗が二人の女に目を向ける。このまま二人とも切るか?既に一人手にかけたのだ。見られたくない場面を見られてしまった。この二人の口も封じておくべきか?無計画に安部を討った正志朗の中に湧き上がる焦りと迷い。
「正志朗様…いえ、春彦様、ご安心下さい。ここは上手く片付けておきます。春彦様はどうぞあちらへ。」
芙蓉が先手を打った。落ち着いたしっかりした声でそう言われ、正志朗こと春彦は落ち着きを取り戻した。
「よし、では頼んだ。死体はどこかに隠しておけ。このことはくれぐれも内密に。わしは一度城へ向かう。」
早くこの場から離れたかった。女二人の事は不安だが、今は芙蓉を信じよう。使える者は使わなくては。興奮して自分を見失っている春彦は今すぐ三輪と話をしたかった。この後、正直どうしていいか分からなかった。




