裏切り
「正に天の助けだ。」
今にも豊川軍が攻めて来ようかという緊迫した雰囲気の中、城山軍の知らせは成頼にとって一条の光が差し込んだも同然だった。
「何故城山軍が豊川を?」
「一体城山国は何を考えているのか?」
間にある高峯を跳び越していきなり豊川を攻めた城山の行動に高峯家臣も皆首を傾げてはいたものの、敵の敵は一時的には味方も同然だ。
「城山国はここ数年で急に大きくなった国。その軍は圧倒的な強さを誇るという。」
「戦ってもわが軍に勝ち目はないだろう。」
「城山軍に和議を申し立てよう。」
降って湧いた城山軍という幸運にすがりたい気持ちで一杯の成頼だった。これで戦を避けられるかもしれない。成頼はいざとなれば戦わずして降伏することも覚悟していたが、豊川勢は成頼を血祭りに上げねば気が済まないという様子で和議になど取り付く島もなかったのだ。下るなら城山の方がまだ望みがある。
そして同じような考えの男がもう一人。安部正兵衛だった。
「いやぁ、まったく。豊川に付こうと思っておったが断られて逆に良かったというものじゃ。まさか遠方の城山国が高峯を通り過ごして豊川を攻めてくれるとは。早速城山軍に取り入る手はずを考えねば。」
「まこと、世の中何が起こるか分かりませぬな。」
安部、三輪は百合の死後ここ数ヶ月、成頼を道周斎に売る計画を思案していた。側で聞いていた正志朗こと春彦は複雑な思いを抱いていた。
『真の敵は安部と三輪』死に際に勘助が残した言葉が脳裏を過ぎった。
百合の死後暫くしての事だった。百合の死に激昂している道周斎に成頼を売り渡し、道周斎の下で高峯の実権を握り続けようと算段していた安部は例のごとく三輪と正志朗を伴って藤野屋を訪れていた。頑なな道周斎に取り入る術を捜しての極秘の相談事だったが、あまり良い考えも浮かばず、気の乗らない安部は、その夜は珍しく芙蓉も呼ばずに早々に藤野屋を出ようとしていた所だった。
「安部正兵衛!この裏切り者め、覚悟!」
藤野屋の玄関を出た所で庭木の陰から何者かがいきなり飛び出してきた。
「安部様!」
正志朗が咄嗟に剣で曲者を払いのけ、安部は無傷だった。
「何者!」
「わしを忘れたとは言わさんぞ。この卑怯者めが!」
「もしや…!勘助か?」
「そうじゃ!山岡勘助じゃ!御館様のご無念、今こそ仇を取ってやる!」
そう言って背虫で片目の男は驚愕のまなざしで男を見つめる安部に再び短刀を構えて飛び掛ってきた。安部はその攻撃をかわそうと後退り、よろけて転んだ。
「させん!」
正志朗の刀が男の短刀を弾いた。カキーンと鋭い金属音を響かせて短刀が宙を舞った。武器を失った男は背を見せて逃げ出した。
「本田の残党だ!追え!」
安部が叫びながら男が落とした短刀を投げつけた。短刀は男の曲がった背中にザクッと刺さった。
「グゥ!」
と男が唸る。
三輪は安部を助け起こそうと駆け寄り、正志朗は一人、足を引き摺りながら庭の奥へと逃げる男の後を追った。
『本田の残党…。『御館様』の仇を取ると言っていたが父上の事か?本田の家臣なのか?』
正志朗は男を切る気は更々無かった。只、会って話を聞きたかった。『裏切り者!』と安部に向かって叫んだ言葉の意味を知りたかった。
「待て!聞きたい事がある!」
正志朗は勘助を追って入り組んだ庭の奥へと進む。幸い他の追手は来ていない。
勘助はすばしっこかったが、所詮手負いの年寄りだ。正志朗はすぐに勘助に追い付いた。はぁはぁと互いに息を切らせながら間合いを取っている。周囲に他の者の気配はない。躊躇いつつも正志朗は言葉を選びながら勘助に語りかけた。
「教えてくれ。本田の残党が安部様を裏切り者と呼ぶ意味を。あんたが本田の味方なら俺は敵じゃない。」
どこまで話していいのかを正志朗は量りかねていた。目の前の男が本田家のために命がけで安部を襲った事実は何よりも説得力があった。疑う理由はない。今、正志朗はいつでもこの男を切り殺せる優位にいるのだ。警戒する理由は他にこの会話を聞いている者がいないかという事だけ。
「もう一度聞く。何故、安部様が裏切り者なんだ?」
男が唯一つ残った目と潰れた白い目で正志朗を見詰めた。
「春臣様に似ている…。もしや、春彦様か?」
「え?」
何故この男が正志朗の本名を?父から聞いていたのだろうか?本田の忠臣であったならそれも考えられる。やはり味方なのだろうという確信を得、春彦は黙って頷いた。
「姉君からわしの事は聞いておいでか?」
「姉上?姉とはもう半年以上会っていない。その名は姉から聞いたのか?父ではなく…?」
「何ですと?では姉君にはわしの事は信じて頂けなかったという事か…。あの時もあなたの事をわしに話しては下さらんかった。こんなに近くにいたというのに。」
勘助が悲しそうな表情を浮かべた。
次の瞬間、勘助が正志朗めがけて突っ込んできた。
『え?敵だったのか?』
思わず咄嗟に身構えた正志朗の刀に勘助は自ら飛び込んできた。
ザクッと鈍い音を立て、刀が勘助の固く丸まった身体に突き刺さった。
「一体何を…!」
正志朗は訳が分からなくなった。
「本田家家臣、山岡勘助、本田春彦様に命を賭けて申し上げる。努々(ゆめゆめ)お疑い無きよう…。」
その言葉を聞いて正志朗は勘助が命がけで何かを訴えようとしている事を理解した。勘助の言葉は続く。
「真の敵は安部と三輪。あの二人が本田を裏切り、陥れた張本人でございます。どうか、お父上の仇を…。高峯をその手に取り戻して下され。」
頷きながら正志朗は勘助を抱き抱えた。何とかして助けたかった。
「何故、ここまでして?」
たったそれだけの事を伝えるために何故命まで投げ出す必要があったというのか?正志朗は既に勘助の事を信用し始めていたというのに?
「わしは既に手負い。ここで逃げ延びるのは不自然です。それに逃げ延びたところでもう長くはない命。本田家のお役に立てられるなら喜んで捨てましょう。それに、お館様が、春臣様が仰られておりました。『生きている者は信用できぬ。』と。近しい者達に裏切られたからでございましょう。貴方様があの二人と親しくここに出入りされているのを知っております。こうでもせねば到底わしの言葉を信じては頂けますまい。」
「だがしかし…。味方は一人でも多い方が良かった。ここまでする程の忠臣を失うのは大変な痛手だ。」
「ここまでしたからこそ忠臣と認めて頂けたのでございましょう?それにわしを逃がせば貴方様に咎が及ぶ危険がございます。わしを切れば奴らの信用も増しましょう。今この場を誰が見ているやも知れませぬ。それに、正直疲れました。御館様が亡くなられた時、後腹を切り損ねて今まで生きながらえましたが、このような形でご嫡男のお役に立てれば本望です。」
そう言われて正志朗に返す言葉は無かった。言葉を失った正志朗を他所に勘助は言葉を続ける。限られた時間を惜しむかのように。
「わしには息子が一人おります。平悟と申しまして。いつか何かのお役に立てるかも…。平悟にわしの短刀をお届下され。これは我が家に代々続く守り刀。刀と共に本田家に忠義を尽くすわしの意志を継ぐようにと、そうお伝え下され。」
「その者にはどうすれば会える?」
「豊川との国境の谷町と言う所に…。それと、芙蓉は使える女です。春彦様に思いを寄せている様ですから。信じてはなりませんが、利用する価値はあるでしょう。」
かつて暁を捕らえて尋問していた芙蓉の態度から、そしてその後の行動からも、勘助はその事に確信を得ていた。
「それと、姉君に宜しくお伝え下され。わしの事を信じて頂けなかったようですが、勘助は真の味方であったと…。」
「わかった。あの馬鹿な姉に必ず伝えよう。」
その言葉に薄く笑いながら頷くと、勘助はがっくりと力を無くした。
「勘助、勘助!」
声を押し殺しながら正志朗が勘助の身体を揺さぶるが、もう息は無かった。力なく横たわる勘助の亡骸は正志朗の腕の中でずっしりと重みを増した。
正志朗は複雑に渦巻く感情を懸命に抑えながら勘助の身体から刀を抜き取り、立ち上がった。自らの無力さを呪い、声の限りに泣き叫びたい衝動に駆られた。だが、泣く事は許されない。
まだ聞きたいことは山ほどあったのに。折角過去を知る忠臣に巡り会えたというのに。出会った途端に失ってしまう等、不幸な巡り会わせにも程がある。勘助の事を知っていながら話さなかった姉に対する怒りも込み上げてくる。だが、何よりも正志朗の頭を支配している言葉。
『真の敵は安部と三輪。』
自分をここまで育て上げてきた二人の名は、正志朗の胸に重く圧し掛かってきた。
「よくやった。正志朗。」
勘助を切った正志朗に安部が労いの言葉をかけた。
「先程の者は一体何者だったので?」
感情を全て押し殺し、正志朗は無知を演じる。
「先の領主、本田春臣の家臣で山岡勘助という。全く、先の戦でてっきり死んだものと思っておったのにあの様に姿を変えて生きていたとは…。」
「確かにあそこまで変わっておるとすぐには分かりませんな。」
「だが、あの声、あの態度、あれは間違いなく勘助じゃ。」
「ええ、某も先程確認しましたが勘助に相違ございませんでした。」
「何故、安部様と三輪様を裏切り者などと呼んでいたのでございますか?」
一瞬の沈黙。
安部が重そうに口を開いた。
「まぁ、正志朗になら話しても良かろう。」
「これから聞くことは他言なきように。」
三輪が釘をさし、阿部が話し始めた。
正志朗をかつて自らが裏切った者の血筋とは露知らず、安部は長年胸の奥底に沈めていた過去の罪を吐露することになる。
横にいる三輪は、言いたい何かをぐっと噛み殺しているような、難しい表情のまま黙って安部の話を聞いていた。
だが、今まで知りたくて止まなかった過去の話を、父を裏切った張本人から聞けるとあって、正志朗はそんな三輪に気付く事なく安部を注視していた。
『落ち着け。絶対に取り乱すな。最後まで信用させて全て話させるんだ。』
溢れ出そうとする感情を抑えるのに必死だった。
勘助の命がけの言葉。その言葉を疑うつもりはなかったが、正に今度は成頼を裏切ろうとしている二人を見ていると正志朗は成頼が哀れに思えてきた。そして、かつて同じように父を裏切ったのであろう二人に対する憎しみと復讐心が静かに芽生えてくる。だが、それと同時に、かつて彼らが裏切った本田春臣の息子とは知らず、どこの誰とも分からぬ自分を今まで目をかけて育ててくれた、安部はともかく、三輪を自分が裏切ろうと考えている事に対する良心の呵責が胸を苛む。
『結局俺も彼らと同じなのか?』
何が正義か分からなくなっていた。
自らの信念に迷いが生まれていた。
様々な思惑の蠢く中、城山軍だけは真っ直ぐに目的に向かっていた。
砦を臨む小高い丘の上で平悟は城山軍の戦を見ていた。捕虜という立場ゆえの高みの見物という結構な身分だ。
砦は既に真っ黒な人馬の波に取り囲まれている。辛うじて人馬と分かる黒い点が蟻の大群の様に蠢いている。その先頭に一際目立つ真っ黒な塊。
道中、森の『お館様自慢』を散々聞かされ、辟易していた平悟だったが、いざ実物の戦いぶりを見ると鳥肌が立った。これだけの距離を置いてさえ、そして同じような黒い点の波の中にあって尚、目に留まるその存在感。伝わってくる気迫。もし間近で見たならばどれ程の迫力だっただろうかと思わずにはいられない。
一騎当千、獅子奮迅といった言葉がこれ程当てはまる者は他にはいないだろう。砦の前で城山軍を防いでいた一隊が砦の中に退いた。
通常の戦で大将が先陣を切るなどあまり賢い戦法とは言えないが、城山軍は他の姑息な戦法とは無縁に思われた。
砦の上から矢が放たれる。砦の入口を囲む先鋒隊を通り越してその後ろに迫る本隊を狙っていた。
軍の中ほどにいた瀬津は手にした大長刀を頭上で車輪の様に振り回した。それが傘のように降り注ぐ矢の雨を弾き飛ばした。
城山軍からも火矢が放たれる。
木造の砦はあっという間に燃え出した。炎が燃え広がる中、城山軍が門を破って砦の中に雪崩込んで行く。
「すっげー。」
平後は初めて目にする戦場と圧倒的な城山軍の戦いぶりにすっかり興奮していたが、ふと我に返って心配になる。
『俺達、大丈夫かな?』
瀬津を先頭に雪崩込んだ城山軍はあっという間に砦を殲滅した。
普段は恐ろしい城主だが、戦場ではこれ程頼もしい存在は無かった。瀬津の戦う姿は味方の兵士に絶対の勝利を確信させ、それが兵の士気を煽った。『瀬津がいる』唯それだけで不利と思える戦にも兵士達は勝利を信じて突き進む事ができた。
『もはやこれまでか…。』
戦況を眺めていた道周斎は敗北を確信した。
『一体何故こんな事に?城山に送った斥候は何をしていたんだ?』
「お館様!ここはもう無理です!」
「ひとまずお逃げ下さい!」
「高峯に向かっていた別働隊がこちらに向かっております。合流して再起を図りましょう!」
残った側近の部下と共に道周斎は馬に跨った。
そこへ目の前に真っ黒な巨馬に跨った大柄な男が現れた。その気迫、並の者で無いことは明らかだった。
「道周斎だな。」
男が口を開いた。
道周斎が返事をする間も無かった。
次の瞬間、男が手にしていた大長刀が空に弧を描くと、道周斎の首は宙高く飛ばされた。馬上に残った身体から真っ赤な血潮が吹き上げた。
「あ!」
「お館様!」
「おのれ!」
ただ驚く者、怖気付く者、刃向かおうとする者。それらの首も次の一振りで胴から離れ飛んだ。
砦の豊川軍は全滅していた。生きている者は既に逃げ出している。
歓喜に沸く城山軍に新たな知らせを告げる早馬が駆けつけた。
「伏兵の元に豊川別働隊が到着。戦闘が始まっております!」
「道周斎は討ち取った!これより豊川軍を追撃する!」
瀬津を先頭に隊列を組み直した城山軍が砦を後にした。
高峯から豊川に続く狭い峠道。両側に城山軍の伏兵が潜んでいるとも知らず、豊川軍の先鋒隊と別働隊が合流して行軍してた。目指すは道周斎がいる豊川本隊の砦。二列に並んで先を急ぐ一行の上に両側の茂みから矢の雨が降り注いだ。
城山軍の急襲だった。
「敵だ!」
「伏兵がいたぞ!」
「退け!」
豊川軍は混乱し、隊を崩して逃げ惑う。そこへ追い討ちをかけるようにかけ付けた城山の使いの者が叫ぶ。
「砦を落としたぞ!道周斎を討ち取ったぞ!」
城山軍は更に勢い付き、豊川軍は更に浮き足立った。豊川の兵は三々五々、散り散りになって逃げ惑う。
「お館様だ!」
「お館様のお越しだ!」
そこへ黒駒に跨った瀬津が現れ、城山軍にどよめきがおこる。豊川軍は主を失ったと聞き、すっかり戦意を喪失して我先にと山の中へと逃げて行く。
運の悪いものは潜んでいる城山の兵のまん前に飛び出してあっさり命を落として行った。
豊川軍が既に殲滅しているのを見、瀬津は手振りで軍を制止させた。
「一度隊列を組み直す。次は高峯だ。」
横で聞いていた森はごくりと生唾を呑んだ。
離れた所でこの話を伝え聞いた平悟は気が気でなかった。
『どうすんだよ?姫さん…。』




