帰郷
「絶対に返さないから。一生私を追い続けるのね!」
そう言って暁は那由他の手をすり抜けた。
だが、那由他はいつもの不敵な笑みを浮かべながら言い放つ。
「すぐに捕まえてやるさ。」
そして再び伸ばされた那由他の長い腕が暁を捕らえた。両腕に暁をしっかり包み込む。
大きな手が暁の頭を押さえると那由他の顔を向かせて固定する。逃げ場を失った暁の視線は那由他の黒い瞳に釘付けになった。あまりの近さに胸の鼓動が激しくなる。何か言いかけた暁の唇に那由他の唇がそっと重なる。今度こそ魂を喰われるのかと暁は一瞬ビクッと身動ぎしたが、今までとは全く違う優しく滑らかな口付けだった。優しく、だがしっかりと暁を抱きしめながら、那由他の唇が暁の頬や首筋を伝って行く。耳元に那由他の熱い吐息を感じ、それだけで意識が朦朧とする様な不思議な感覚に襲われた。偉そうに憎まれ口を叩いたものの、全く抵抗できなかった。那由他の手が暁の身体を優しく愛撫しながら腰の辺りまで滑り降りて来ると、身体を芯から震わせるような感覚が暁を貫いた。ただ那由他の唇が、指先が触れているだけだというのに暁は今まで覚えたことのない初めての感覚に次々と襲われ、何も考える事ができずに、ただ恍惚として那由他の腕に身を委ねていた。
那由他の手が腰紐に掛かった時だった。暁の中でもう一人の暁の声がした。『何かが違う!』ハッと我に返った暁は腰紐を解こうとしている那由他の手をガシッと抑えた。那由他の動きが止まった。何も言わず怪訝そうな顔で暁の顔を覗き込む。その目を真っ直ぐに見据えて暁は言い捨てた。
「私はこんな事のためにここまで来たんじゃない!高峯に帰る!」
暁は那由他の腕を振り解くと、一気に階段を駆け下りた。那由他はというと、暁を引き止めるでもなくただ呆然としてた。それが暁には何とも間抜けに感じられ、高ぶっていた気持ちがどんどん冷めていった。
天守の長い階段を転がり落ちるように駆け下りながら、暁は考えた。『何かが違う』という直感的な心の叫び。何が違うというのか?違うといえば何もかもが違ってしまっている。那由他の外見も、二人の関係も。そもそも何の為に暁は那由他に付いてここまで来たのか?
『縁を切るため』だ。『縁を結ぶため』ではないのだ。
あの時、暁が一壺天を『赦す』と言った時、暁の胸の中で確かに何かが弾け飛んだ。あれは一壺天の罪の意識だったのか?もしくは暁が取り込んでいたという那由他の魂の欠片なのではないか?ならば、暁の目的は達せられたはずだ。暁は那由他との悪縁を断ち切るために旅に出たのだから。
『お前、俺の魂の欠片まだ持ってるだろう?』那由他は先程確かにそう言った。だが、本当にそうなのだろうか?あれはどういう意味だったのだろうか?
暁には未だに何が何だか分からない。一壺天と対峙し、一壺天の変化を目の当たりにし、嵐のような目まぐるしい時をやり過ごした後、一壺天にしか見えない那由他に抱きすくめられた。全てがまるで夢か幻のように非現実的に感じられ、その場を離れた今は夢から覚めたような心持だった。那由他と旅してきた日々までもが、今思い返すと本当に長い夢でも見ていたような気持ちになっていた。今、正に、暁は現実に立ち返ったのだ。
もし、今まで暁が那由他に対して抱いていた感情が、那由他の魂を取り込んでいたから引き起こされていたものならば、その繋がりが途切れた今となっては、もはやその感情を抱くこともないのかもしれない。今は大きな変化があった直後だから、那由他も暁もまだ互いの変化を正しく把握できていないのかもしれない。
そんなことを考えている間に暁は天守の入口にまで下りて来ていた。そこで初めて暁は外の喧騒に気付いた。
「暁殿!」
暁の姿を認め、人だかりを制していた人物が駆け寄ってきた。森真之丞だった。
「『何があっても呼ぶまで来るな』とは言われたものの、一体何が起こったのか?お館様はご無事か?」
あまりの剣幕に圧倒され、暁はすぐに返事ができず口をパクパクさせた。
一体何事なのか聞きたいのは暁の方だったが、恐らく最上階での派手な騒動は外からも確認できたのだろう。こんな騒ぎになっているとは露知らずも、那由他に抱かれているところへ森が駆け込んでこなくて良かったと、つくづく森の生真面目さに感謝する暁だったが、今投げかけられている問いに対してどう説明していいものやら見当も付かず、下手な事を言うとかえって拙いだろうことだけは分かっている暁は全ての責任を那由他に押し付ける事にした。
「何かあったのですか?私には何のことかさっぱり分からないのですが…。お館様でしたら勿論ご無事ですが?」
「上では何もなかったと言うのか?先程天守から雷のような光が迸ったり、嵐のような風の中、この上を中心に暗雲が渦を巻いたりと、まるで神でも降臨されたのかと思えるような凄まじい光景であったと言うのに!」
やはり一壺天や伊邪七岐が暴れている様子は外からも見て取れたようだ。
「まぁ。そのような事が?中では全く気付きませんでした。私はお館様に東国の様子をお話していただけですし、お話が終わってお暇したところですので森様でしたら上がられても大丈夫ではないでしょうか?」
「しかしお許しの鈴が鳴らぬ。先程から何度も下からお伺いの鈴を鳴らしているが返答の鈴が鳴らぬのじゃ。お館様がお目通りを許されるときにはお返事の鈴が鳴ることになっておる。お許しなく立ち入った者は即刻切り捨てられる決まりだ。ところで上で鈴の音は聞かれましたかな?」
あんな騒ぎだったのだ。鈴の音など気付くはずもなかった。
「いいえ。もしかしたら鈴が壊れていたのかも知れません。」
「そういうことかも知れん。じゃが、暁殿。あのような光景の後、何事も無かったと言われる暁殿をこのまま通す事はできん。考え難い事ではあるが、わしはお館様が鈴を鳴らせぬ状況にあるのではないかと案じておりましてな。今一度お館様のご無事を確認するために上までご同行頂きますぞ。」
どうやら暁は城主殺しの疑いを掛けられているようだ。本当は気まずくて那由他に会える気分では無かったのだが、森を納得させるためには仕方なく、暁が先に上がって那由他に声を掛けて事情を説明しなくてはならなかった。それに続いて森が城主の姿を確認し、
「何も無かった。呼ぶまで来るな!」と一喝されてすごすご引き返すという事になったのだが。
それから部屋に戻ってからが大変だった。待ち構えていた鈴の質問口撃にさらされるはめになったのだ。
下手に何か言えばそれまで以上の質問の矢が降り注ぐのは火を見るより明らかだったので暁は『何もなかった』の一点張りで通した。鈴は森を初めとする城内の他の者達から事の真相を聞き出すよう期待をかけられていたと見えていつにも増して必死だったが、そうなればこそ尚更何も言えなかった。少し前までの暁からは想像もつかないことだが、一連の『ひどい目に会った』経験から、暁は随分と感情を表に出さずに演技できるようになっていた。必要は人を成長させるものである。
直接聞いても何も返事が得られないと分かると鈴はあの手この手で次から次へと別の方向から質問を投げかけてくる。中には際どいものもあり、返答に苦心させられた。
「外から見てると天守の窓から光が溢れ出した様に見えたんだけど、中では何も見えなかったの?」
「別に何も。」
「あんなに眩しい光だったのに中には届いてなかったの?」
「そう言えば外が少し明るいような気がしたかも…。」
「あんなに長い時間、お館様と二人切りで何をお話してたのかしら?」
「お館様に東国の様子を聞かれて分かる事をお話してたらいつの間にか時間が経ってたみたいで…。」
「それにしてもすごいわ。お館様はお顔を拝見するのも畏れ多くて面と向かってまともに話せる者がこの城にも殆どいないのに。暁さんはお館様とあんな長い時間一緒にいて平気だったんだ。」
「私だって恐ろしかったわよ。だからちょっとした事をお話しするのにも時間がかかってしまったんだわ。」
「東国の様子って何をお話したの?私も聞かせて欲しいわ。」
「お館様にお話するのに必死で何をお話したかも覚えてないくらい。ごめんなさい、鈴さん。今日は本当に疲れてるの。少し休ませて頂けないかしら?明日にでも落ち着けば何か思い出すかも知れないから。」
そう言って暁はやんわりと鈴を部屋から追い出した。
「あ、でも…」
とまだ何か言いたげな鈴の前でピシャリと障子を閉めるのは、今まで散々親切にしてもらってきた手前、少々良心の呵責を覚えずにはいられなっかたが、これ以上居座られたらそれこそ疲れで何を口走ってしまうか分からない。漸く鈴から解放された暁は、
「ハァ…。」
と大きく息をついた。
本当に、これからどうしようか?
那由他はこれからどうするのだろうか?那由他の旅はこれで終わったのだろうか?一連の天守での出来事は、那由他が一壺天に戻り、探し物を見つけてしまったと考えていいのだろう。ならば、暁は探し物を見つけてみせるという約束を果たしたことになる。だが、暁自身は答えを見つけただろうか?『お前は一体何なんだ?』『何の為に生まれてきたというんだ?』という那由他の問いに自信を持って答えられる明確な答えをまだ見つけられていない気がする。
それにしても危なかったと思う。もしあの時暁が咄嗟に那由他の名を叫んで引き止めていなければ、一壺天は残らず消え失せてしまっていたかもしれない。そうなればそれこそ城主殺しの疑いで今頃暁は森あたりに尋問されていた事だろう。あの時、暁が引き止めなければ那由他は本当に完全に消えていなくなってしまったのだろうか?暁は何故『許さない』と言ったのか?自らの言葉を反芻しながら考える。『このまま私を置いてどこかへ行ってしまうのは許さない。』なのにその後天守を去り際に言った言葉。『私はこんな事のためにここまで来たんじゃない。高峯に帰る。』ならば、暁は一体何の為にここまで那由他についてきたのか?確かに初めは『縁を切るため』だった。そして縁を切る事だけが目的であったなら、那由他が消えてしまう事が許せないというのはおかしい。要は那由他の側にいたかったということなのだろうか?それなのに暁は那由他の手を振り切って天守を飛び出した。『何かが違う』と感じて。
『那由他?一壺天?』
『どちらでも。暁の好きに呼べばいい。』
あの言葉。やはり元の那由他ではないということなのだ。暁は那由他の部分だけを引き止めたかったのに結果として残ったのは一壺天だったのか?だからあんなにも違和感を感じたのだろうか?今まで『不味い喰い物』扱いしかされた事がなかったのに、突然あんな扱いを受けて戸惑ったのも事実だ。
一人でいくら考えても埒が明かない。那由他が何を考えているのか知りたかった。
だが、今の那由他と暁では立場が違いすぎる。相手が一国一城の主である今、暁が以前のように気軽に話しをすることもままならない。今となっては相手の出方を見るより他なかった。
那由他はこのまま『瀬津直忠』を引き継ぐのだろうか?それとももう一度暁と共に旅を続けるのだろうか?今度は、暁の答えを見つける旅に。
ぐるぐると巡る迷いの中で、再び心に湧き上がる思い。
『高峯へ帰ろう。』
一度故郷へ帰ろう。そこから全てをやり直そう。もう一度自分自身を見詰め直そう。答えはそこにこそあるように思えた。
「先日の娘が城を去ると申しておりますが、いかがいたしましょう?」
「何故わざわざそんな事をわしに聞く?好きにさせろ。」
「では、このまま行かせて宜しいので?」
「取るに足らん小娘一人やけに気にするなぁ、森。どうした?そんなに気になるならお前の好きにしろ。」
「いえ、某はただお館様があの者に何か申しつける事でもおありではないかと思っただけでございまして。」
「どういうことだ?」
「先日あの者をこちらへ呼ぶ際に『使えそうか見極める』とお館様が仰せでしたので。」
「ああ、その件ならもうよい。使い物になりそうになかった。」
「それと…僭越ながら、先日よりお館様のご様子が以前と変わられましたように思えたものですから。あの日何かあったのかと訝ってしまいました。と申しますのも、あの日外では暗雲が垂れ込め、嵐のような強風の中、こちらの天守を中心に雲が渦を巻いていたかと思えば、天守の窓より眩しい光が四方に広がり、お館様の元に神でも降臨されたのかと思えるような光景でございました。それなのに中では何も無かったとの事。何とも合点がゆきませぬ。お館様の身に何かあったのではと案じていただけでございます。」
「外の天気がどうだったか知らんが、あの娘には東国の様子を聞いていただけだ。他に話す事は何もない。それにしても森、お前も偉くなったものだな。わしの身を案じるだと?わしをその程度と見縊っておるのか?」
「め、滅相もございません!ただただお館様の事にのみ心を砕いておりますればこそ、些細な事も気になりまして。お館様の鬼神の如きお力はこの森、重々承知しております!」
「ならば余計な詮索はやめろ。今日はもう下がれ。」
「はっ。失礼 仕りまする。」
森は深々と頭を下げたまま急な階段を下りていった。
天守の長い階段を下りながら森は釈然としない思いを抱えていた。あの二人の間には何かがある。見た目に明らかなのは、あれから城主の着物の趣味がガラッと変わったことだ。以前は地模様の織り込まれた黒無地の物ばかりだったが、今は同じような黒の地に大柄な白抜きの文様や銀糸の刺繍が入った派手な見た目になっている。服装が変わったせいか、髪や瞳の色も以前より明るくなった気がする。その上、なんだか以前よりも雰囲気が穏やかになった気がするのだ。相変わらず人間離れした凄みのあるのは事実だが、以前は側にいるだけてピリピリと皮膚を切られるよるような緊張感を感じたのだが、あの日以来そこまでではなくなったように感じる。だが城主にはこれ以上聞く事はできない。森の足はおのずと暁の元へと向かった。
「傷の具合は如何ですかな?」
「もうすっかり良くなったようです。森様には本当にお世話になりました。」
「落ち着いたら高峯に帰られるとか。」
「はい。いつまでもご厄介になる訳にもいきませんし、急いで戻らねばならない用がございまして。」
「風の便りに聞いた話では何でも高峯と豊川が戦になりそうだとか。その様な時期に戻るのは危険では?宜しければ戦の行方が知れるまで此処に留まられても良いのですぞ。」
「ご親切に有難うございます。ただ、戦が起こりそうだからこそ戻らねばならないのです。」
「何か事情がおありの様じゃな…。これも何かの縁。詳しく聞かせてはもらえんだろうか?」
「・・・。」
暁は戸惑って口籠もってしまった。これまで親切にしてきてくれた森になら、自らの出自や高峯の事情を説明してもいいかもしれない。那由他にも以前父が領主であった事は話しているのだ。もしかしたら城山国が春彦や暁の側についてくれないだろうか?そんな甘い考えが浮かんだ。
だが、やはりこれは暁の問題なのだ。那由他に甘えたくはない。それに、下手に助けを求めて協力を得られなかった時に裏切られたような気持ちになるのも嫌だ。『お前は俺の何を信じた?』天守での一壺天との会話を思い出した。那由他に期待するのはやめておこう。
暁が黙ってしまったのを見て森も考えを進めていた。『やはり何かある。』
そして次の一手を模索する。
「もしやお館様にお話された事であれば、某には話されても大丈夫ですぞ。お館様からも多少事情は伺っております故。」
「え…?」
那由他が森に何を話したというのか?暁の中で戸惑いと期待が交錯する。
「お館様は一体何を仰られたのですか?」
「それがお館様は口数の少ないお方ゆえ、詳しい事情は某が暁殿から聞くようにと仰せでして。それと暁殿はお館様と以前に会われた事があるようですな?どうもお館様の口ぶりではそのように聞こえたのですが?」
森は鎌をかけてみた。暁の出方を伺う。
「お館様がその様な事を森様に?」
那由他が森に暁の事を話したとすれば、それだけ那由他が暁の事を気にかけている証拠のように感じられた。暁の中で一度は諦めようと思っていた期待が膨らんでいく。だが、一方で頭の片隅に冷静な思考が残っていた。『那由他がそんな事を話すだろうか?』何か違和感を感じる。
森の方はというと、暁の言葉に二人が以前からの知り合いかも知れないという考えに確信を抱き始めた。
「これでもお館様からは第一の信頼を置かれている者ですぞ。お館様はわしには大抵の事はお話下さる。ただ、あまり詳しくお話されないのでそこから自分で調べを進めてお館様の意に沿う様にするのが大変でしてな。そういう訳で此度の件、是非とも暁殿にご協力頂きたい。この森を助けると思ってお館様にお話された事やこれまでの経緯など、詳しくお話下さいませんかな?」
恩人である森にそう言って頭を下げられると、暁もだんまりを通すのが難しくなってしまった。だが、何かおかしいという直感が暁の言葉を別の方向へと向けさせた。
「そういうことでしたら…。それにしても森様は本当にお館様の信頼が厚くていらっしゃるのですね。聞くところによりますとこの城山国はここ数年で建ったとか。森様はずっと以前からお館様にお仕えだったのですか?」
話をしそうな素振りを見せて逆に森に質問を投げかけた。森に話をさせている間に考えを纏めようと思ったからだ。また、那由他の協力を得られそうかどうか、城山国と高峯、豊川の間に敵対関係がないかも探っておきたかった。
「ああ、その事ならこの城山国はここ三年程前に建ったばかり。わしもお館様に家老としてお仕えして三年程になりますな。」
「え?そんなに短い間にそれだけの信頼を得られるとは。森様は余程お館様に忠義を尽くされておられるのでしょうね?」
「勿論!お館様への忠義なら絶対に誰にも負けませぬ。」
本来鬼である城主にどうして森がこんなにも忠誠心を抱くのか暁は不思議だった。森こそかつての刹那に騙されているのではないかと訝った。
「一体どうしてたった三年程の間にそこまでの信用が築けるのでしょうか?森様とお館様の間に何があったのですか?」
「何があったという訳ではなく、ただ惚れたのですよ。」
森がやや照れつつも嬉しそうに話しだしたので、追求を逸らす事ができて暁は内心喜んでいた。
「もともとこの辺りは江津国と呼ばれておって、隣の広海国と長年に渡る戦をしておったんじゃが、その二つの国をお館様が一つに纏められ、今の城山国とされた。この城は築城に凝っていた江津の領主が建てた城を改築したもので、今でも江津城と呼ばれておる。わしも元々は江津の領主、在原家の家臣じゃったが、今のお館様が城山国を建てられてより一切の事を任されておるという訳じゃ。」
「お館様はどのようにしてその二つの国を纏められたのですか?」
「今思っても誠に不思議な話なのだが、当時江津と広海は戦の真最中で広海の軍がこの城のすぐ側まで迫っておった。優勢だった広海軍は勢いに乗じて城攻めに入っており、総大将である当時の広海領主、武井高信までもが最前線に出てきて指揮を執っていた。そこへいきなりそれまで見たことのない黒駒に乗った男が現れた。兜も甲冑も着けず、大長刀一本を手に突然現れたかと思うとあっという間に広海の武井忠信の首を取ってしまった。周囲にいた広海軍の名だたる武将も軒並み長刀一振りで倒してしまい、広海軍は浮き足立って逃走を始めた。形成は一気に逆転し、江津の兵は『わしに続け!』と叫んだその男の後に付き従って戦った。そして、その日の中に勝敗が決した。劣勢だった江津が勝利したのだ。全てはその黒駒の男のお陰だというのは誰の目にも明らかだった。広海の城を押さえ、捕虜と取った首を前に江津の領主、在原近衛が黒駒の男に名を尋ね、恩賞を与えようとした時だった。その男はいきなり在原近衛の首を落としてしまった。江津の家臣は皆驚いた。在原家の腕に覚えのある忠臣数名が男に切りかかったが、一蹴された。他の者はただ驚いて見ているだけだった。恥ずかしい話だが、わしもその見物人の一人でな。あまりの凄まじさにただただ目を、心を奪われた。そして男は言った。『これより江津と広海を合わせて城山の国とする。今からわしが領主だ。異論のある者は今すぐこの場に進み出よ。』と。恐ろしくて誰も何も言えなかった。そしてわしを含め、その場にいた者は皆その言葉に、姿に魅了された。」
森は当時の様子を思い出しているのだろう。やや興奮気味に一気にそこまで喋った。暁はいつも冷静な森の意外な一面を見て面白がりつつも、ただでさえ恐ろしかった刹那が戦場を駆け巡る姿を思い浮かべてぞっとした。
「もうお分かりだろうがその黒駒の男こそ今のお館様でしてな。お館様は縛られていた広海の兵の縄を解き、江津と広海双方の兵を前に仰った。『わしに従う者には之まで通りの領地を与える。従わぬ者は今すぐこの場で切り捨てる。』と。勿論誰も異論等無かった。すぐ側にいたわしは興奮のあまり『これより命を賭けてお館様にお仕え致します!』と思わず叫んで平伏した。すると居並ぶ他の者達も皆わしに続いて平伏した。お館様はわしに名を尋ねられ、皆の前でわしに家老の地位をお与えになった。そして『後の事は全てお前に任せる。』と仰られてな。出会って間のないわしに全面の信頼を置いて下された。わしがお館様に忠義を尽くすのは当然の話であろう?」
森は自慢げに、嬉しそうにそこまでを語った。暁にも事情が飲み込めた。暁がさも感心したように頷くと、森は更に話を続けた。
「その後のお館様の采配もまたお見事でな。皆がお館様を認めたとはいえそれまで長年いがみ合ってきた江津と広海の家臣を一つに纏めるのは至難の業に思われたのだが、お館様は城山国を建てられるとすぐに周囲の国々を次々と攻め取られた。お館様を先頭に戦に向かうとそれまでの江津も広海も関係なくなってな。皆が城山の兵として心新たにお館様の元に一つに纏まった。しかも戦は連戦連勝の上に圧勝なのだ。まるで天地までもが味方についているかの様に天候の変化もいつも我が軍に有利に働く。まあ、お館様がそれだけ天にも認められているということなんじゃろうが。それだけではなく、お館様のご活躍といえば目を見張るものでな。お館様は鬼神の生まれ変わりではないかと思える程なんじゃ。お館様の戦ぶりを見たことのある者は皆そのお姿に惚れ込んでおる。」
『生まれ変わりも何も正真正銘の鬼なんだけど…。』と果てなく続く森のお館様自慢に少々呆れつつも、
「左様にごさいますか。」
と暁はやっと相槌を打つ事ができた。
「まぁ、そういった次第で、ご信用を賜っているからこそお館様の前で下手を打つわけにはいかんのだ。ここは一つわしに花を持たせると思って事の次第を具にお話下され。」
ここまで聞いて暁はおそらく森は何も知らないだろうと勘付いた。
「そう仰られましても、本当に東国の様子を私の知る限りお話したまででして…。」
「ではその東国の様子というのをお話頂こう。」
「それが…私も山奥に住んでおりましたので世間の人並みにも知らない事が多く、どこまでお役に立てるのか…。」
「それでもあれだけ長い時間をかけてお館様にお話する事があったのであれば、その事を話して下さればそれでよいのだ。」
「えっと…まず豊川の事ですが、現領主の豊川道周斎は元々は野盗をしていたそうです。先の領主を倒して豊川の国を乗っ取り、周囲に領地を広げています。家臣も盗賊上がりの者が多いそうです。戦もかなり卑怯な手を平気で使うとか…。道周斎の娘の百合はお美しい方で高峯領主の上野成頼の妻です。ただ、成頼との仲はあまりよくなかったようです。上野家の先代は十五年前に高峯領主の本田家を裏切り領主の座につきました。今の家臣も元々の上野の家臣は半分程で後の半分は以前の領主から寝返って上野方に付いた裏切り者達です。成頼は城内であまり力を持っておらず、実権を握っているのは家老の安部という者の様です。あとは…何でも何ヶ月か前に奥方の百合が鬼に喰い殺されたとかで、それが原因で高峯と豊川が戦になるという噂を耳にしました。私が知っているのはその程度です。」
「ほう。成る程。高峯城内のいざこざはそんなにも表立って皆の知るところという事ですかな?世情に疎いと言われる割に城内の事情に詳しそうですな。」
「そ、それは…。あの、実は以前山で怪我をした領主の上野成頼を助けた事がありまして…。それで一度城に招かれた事があるのです。その時に聞いた話ですので皆が知っているかどうかまでは私にもわかりません。」
「成る程。所で暁殿はどうしてこの城山国に?」
「それは…ある人の探し物を手伝って京に向かっていたのですが…。故郷で戦が起こるというのでその人とは別れて私一人で故郷に帰る所でした。」
「ほう。で、その者は一人で京に向かったということですかな?」
「ええ…はい。」
「で、その探し物とは?」
「それは…よく分からないので私の口からは何とも言えません。」
「おかしな話ですな。良く分かりもしない物を探すのを手伝っていたと?」
「あ…はい。そういう事です。が、その探し物の件は今回の話とは関係ございませんのでお話するようなことではないかと…。」
「では、なぜ戦が起こるという時に故郷に帰られるので?戦場からは離れていた方が安全であろうに?何か帰らねばならない理由でもおありかな?」
「それは…あの、故郷に弟を残してきたものですから。弟の事が心配で、戦が起こるなら何としてでも助けてあげなければと。」
「成る程。ところでお館様とはいつどこで知り合われたのかな?」
「え?それは…先日天守閣でお会いしたのが初めてですが…。」
森は迷っていた。暁は何かを隠している。それまで森は暁が豊川か高峯の密偵かもしれないと疑っていた。もしくは逆に瀬津の命を受けて東国を探っていた密偵かも知れないとも。だが、もしそうならば主が自分にその事を話さない事に納得がいかない。森は次の一手を探る。
「それはさておき。実はわしもお館様から命を受けて東国に密偵を放っておりましてな。大体の事は聞いていたんじゃが、その高遠城内の事までは調べが進んでなかったので正直、驚いておりまする。それにしてもただの旅の者をお館様が直々に召されるのでどうした事かと思ってはいたが、暁殿がその様な事情を知っていたとは。偶然として片付けるには聊か不自然な状況とは思われませんかな?」
「それは…森様の考え過ぎでございます。本当に全くの偶然でして。もしくはお館様の勘が優れていらっしゃるだけでございましょう。」
「まぁ、そういう事かも知れんが。それにしてもお館様は何をお考えなのか…。ちなみに暁殿はこちらを発たれる前にお館様にお伝えする事はござらんか?」
「え?私から…?」
那由他にはもう一度会って話しをしたい気もする。一体暁の事をどう思っているのか。だが、会えばまた気持ちが揺らぎそうな気がした。那由他の顔を見ずに高峯に帰った方がいいと、暁は意地を張ってみる事にした。なのに、
「お館様は、私の事を何か仰っておられましたか?」
とつい尋ねてしまった。
暁の態度に森は薄々何かを察した。考え難くはあるが、二人の間に男女の関係でもあったのだろうか?と。
「それが…わしの口からは言い難い事でしてな。暁殿なら何を仰せか察しが付くのではないかと…。」
森の口からは言い難い事とは?那由他が一体森に何を言ったのか?暁は気が動転してしまった。
「お館様は何を仰られたのですか?」
「先日の天守での事についてだが…。」
森は言葉を濁しながら暁の反応を窺う。
「え?」
暁は一瞬焦ったが、いくらなんでも那由他が森にあの時の事を話す事はないだろうと考え、森の言葉を続けさせた。
「お館様に何があったのか窺っても『話す事は何もない』と仰せでな。仕方がないので暁殿の事から糸口が掴めまいかと暁殿の処遇について話を振ってみたのだが…。」
森はここで言い難くて言えないという素振りをし、暁の出方を窺った。
「お館様は私の事をどうしろと仰ったのですか?」
「その前に聞いておきたいのだが、暁殿はどうしても高峯に帰られるおつもりか?此処に留まるつもりは全くござらんか?」
「それは…ございません。」
戸惑いつつ、そして後ろ髪を引かれつつも暁はそう言った。
森は暁の言葉に迷いがあるのに気付いた。そして敢えて言う。
「ならばこれ以上引き止めても仕方ありませんな。お館様に暁殿を高峯に帰らせて良いものかお尋ねしたところ、『好きにさせろ』と仰せでな。実を申すとわしはもしやお二人の間に何かあるのかと訝っておったので、ついしつこく食下がってしまった。するとお館様は『取るに足らん小娘一人、そんなに気になるならお前の好きにしろ』と暁殿の処遇の一切をわしにお任せになられた。そういう訳でどうしたものかと色々と根掘り葉掘り聞いてしまったが、どうか失礼お許し下され。どうしても帰ると申されるなら早々に帰郷の手配を致そう。」
森から告げられた那由他の言葉に、暁は何故か胸を締め上げられるような感覚を覚えた。暁にはその台詞を森に飄々と告げる那由他の姿が目に浮かぶようだった。
暁の急に落ち込んだ様子は森にも見て取れた。
「何か最後にお館様にお伝えしておきたい事はございませんかな?」
「どうぞ、宜しくお伝え下さい。お世話になりましたと。」
「ではその様にお伝えしよう。」
そう言って森は部屋を出た。
森が出て行くと暁の中に那由他に対する怒りが沸々と湧き上がった。
「那由他の馬鹿!」
怒りに任せて暁は拳を床に力いっぱい叩き付けた。
部屋を出た森はすぐには立ち去らず、少し離れた場所から暁の様子を窺っていた。
そして耳に届いたのは、床を叩きつける音と、
「那由他の馬鹿!」
という暁の声だったのだが、離れた場所にいる森には『直忠』と聞こえた。森は暁が主である瀬津直忠の事をそう呼べる関係なのだと思った。
そして、二人の態度を思い起こし、暁が聞けば憤慨するような結論を導き出した。それは、二人は以前からの知り合いで、瀬津は暁の事は何とも思っておらず、瀬津に未練を抱いているのは暁の方なのだと。となれば暁を引き止めても瀬津を煩わせるだけだろう。
そう考えた森の行動は早かった。結局天守での事など分からず仕舞いの事は多かったものの、森の中では気持ちが吹っ切れており、主のご機嫌を第一に考える忠義な森の計らいで暁の帰郷準備はあっという間に整ったのだった。
道中の安全を考え、男物の着物を身に着け笠を目深に被った暁は一人黙々と歩を進めた。また人に化けた那由他が暁をからかいに来るかもしれない。そんな淡い期待を胸に潜ませていたが、途中、誰かから声を掛けられる事も無く、何の出会いもなく、暁は程なく故郷、高峯へと帰り着いたのだった。




