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一壺天

「昔、ひどい飢饉があった。田畑はもとより山も川も枯れ果て、人々は草の根さえも食い尽くした。それでも何人かが生き延びた。屍を喰らって。」

 一壺天が言葉を紡ぐと暁の目の前に見知らぬ光景が広がってきた。乾ききって枯れ果てた茶色い景色。自分がさもその場にいるかのような臨場感。一壺天の記憶が暁の脳裏を埋め尽くす。

「そしてしかばねさえも喰い尽くすと、互いに喰らい合った。そして残った最後の一人が俺だ。」

 以前見た夢の光景が思い出された。あの夢は一壺天の記憶だったのだと、今はっきりと理解できた。あの時、椀を差し出してきた男が目の前にいる。ガリガリにやせ細った男の手が子供のような華奢な両手を握り締めながら切実に何かを訴えている。暁が自分の手のように錯覚しているこの小さな両手はかつての一壺天の物なのだろう。

『わしが死んだらわしを喰え。お前だけは絶対に生き延びろ。何があっても生き残れ。最後に生き残った者が勝ちじゃ。』

 その言葉は呪いのように深く頭に残った。

「もう喰う相手もいなくなり、その地を離れると、あやかしに出会った。妖は俺を喰おうと襲って来たが、俺は奴を返り討ちにし、その身を喰らった。その時からだ。生き物の魂が見えるようになったのは。いつの間にか角が生え、気付くと俺は既に人ではなくなっていた。」

 目に映るのは夢で見た例の三尾の白狐。

「妖を喰ってからは生き物の魂を直接喰えるようになった。そして喰った相手の持つ力や記憶を全て手に入れられるようになった。俺は人や妖やあらゆる生き物を手当たり次第に喰った。喰えば喰うほどに力を増し、強くなっていくのがわかって面白かった。新しく得た力を誇示するのが楽しかった。」

 大きな湖。龍神が現れる。蛇女との闘いを彷彿とさせる。嵐の中、竜巻が起こる。四方八方から打ち付ける水飛沫。空をうねりながら飛ぶ龍の背を駆け上がる。何度か絡みあった後、胸を抉って魂を奪い、龍が手に握っていた珠を手に入れた。それを削って磨き、できた首飾りに魂讃星たまほめぼしと名前をつけた。首にかけて肌身離さず身につける。えぐらなくても触れただけで魂を取り出せるようになり、そのうちに目を合わせるだけで相手の魂を喰えるようになった。初めは魂讃星の力を借りていたが、いつの間にか自分一人でできるようになっていた。

 「俺の相手をできるような者はいなくなり、力を付けすぎた為に何を使っても傷一つつかない身になっていた。何を求めているのかも分からないまま、略奪と破壊を繰り返した。。」

 つい昨日見た、あの恐ろしい夢を思い出す。人を喰えば喰うほどに増す焦燥感と敗北感。

「だが喰った奴らの無念のせいで何をやっても満足できなかった。つまらない者を喰ってはいけないと気付いた。」

 落ち着いた雰囲気の老人が目に映る。真っ白な髪に長い髭。絵画の仙人を彷彿とさせる。鬼を目の前にしても冷静だ。

 『今のお前さんの苦しみはくだらない者を沢山喰い過ぎたせいじゃよ。食あたりみたいなもんじゃな。ちょっと力を付けていい気になっとるようじゃが、こんなちっぽけな世の中で強者つわもののつもりでおるなど井の中の蛙もいいところじゃ。』

 『そういう偉そうなことを言うあんたは何者だ?』

 『わしもお前さんと似たようなもんさ。元はただの人間だったが、ちぃと長生きしすぎたせいでやや人間離れしてしまった。ところでお前さん、名前は?』

 『俺の名?』

 不思議だった。自分の名前が思い出せない。

思い浮かんだ名前を答える。

 『百狐びゃっこ…』 

 『はっはっは!それはお前さんが喰った狐の名じゃよ!百の力を持つ一匹の白い狐という意味じゃ。自分の名前さえ忘れてしまったか?気の毒に。もう人には戻れんな。』

 『どういう事だ?人に戻る?そんな気はさらさらないが?』

 『お前さんはもうその苦しみから逃れられんという事じゃ。せいぜいこれから喰う魂は安らいだものに限ることじゃな。それが苦しみを和らげる唯一の方法じゃ。』

 老人は全てを見透みすかしている。只者ではない。

 『そいつはどうも。』

 老人が何を知っているのか、その全てを知りたかった。気付けば既に老人を喰っていた。だが老人の魂はすぐに自分の物にはならなかった。喰われて尚、元の意志を保っていた。体の中に自分自身の意志と老人の意志の二つが両立し、時折対話を繰り返す。

 『一壺天いっこてんを知っているか?』

 『何だ、それは?』

 『壺の中の桃源郷よ。昔、漢の国でとある男が壺を持っていた。その中に入ると現実世界とはかけ離れた夢のような世界が広がっていたという。悩みも苦しみもない快楽の世界。井の中の蛙のお前さんは今、その壺の中にいるのと同じということじゃよ。お前さんの場合壺の中は苦痛だらけのようじゃがな。己の名さえ失ったなら名前を付けてやろう。一壺天と名乗るが良い。』

 一壺天と名乗ると老人の魂を取り込むことができた。老人は仙人になりかけの賢者で一壺天は自嘲を含めて名乗っていた老人の名だった。豊かな見識を持ちながら人と交わる事を拒み、敢えて自らの智慧も知識も誰にも与えようとしなかった孤高の隠者。人の世の醜さに絶望しているが故の選択だった。自分が老人の魂を喰ったのか、老人に魂を乗っ取られたのか暫く判らなかったが、それまでのようなむやみやたらな魂の喰い方はしなくなった。苦しみの中に一筋の光が見えた。

「人をいたぶって喰うのはやめた。女相手に快楽を与えて喰うのが楽だと知った。」

 恍惚こうこつとした表情の若い娘。火照ほてって汗ばんだ柔らかな肌と荒い息。唇を重ねて魂を吸い出し、飲み下す。娘に与えた快楽を自分の中に取り戻す。

「馬鹿を喰うのはやめてみやこ公家くげ共を狙った。それまでいい思いをして勉学にいそしんでいた連中の魂は良いかてだった。そうすると、人の中にも俺が権威者共を痛めつけるのを喜ぶ者がいるのに気付いた。」

 公家を喰った帰りのどこかの屋敷。使用人だろうか?冴えない身なりの男がおどおどと近づいて何やら耳打ちをしてきた。『この度、みやこ一と評判の姫が入内じゅだいされますよ。その姫をさらったらきっと大騒ぎになりましょう。』つまらない事を言う奴だと思い、いつもなら喰ってるところだがそいつは見逃した。そして気まぐれにその姫を攫ってみる。姫は何故か一壺天を恐れるどころか、攫われて喜んでいる。試しに少しいたぶってみたが、それすら涙しながら歓喜する。人を痛めつけることが馬鹿々々しくなった。

「そこから気紛れを起こし、困っている者に施しを与えてみた。素直に喜ぶ者もいたが、俺が鬼だと知ると無条件で襲ってきた。鬼が人に善行を施すなど信じられないと。」

 日照りで干からびた田畑。喰った龍神の力だろう。思うがままに雨雲を呼ぶことができた。傍らにいる一の姫に自らの力を誇示したいという気もあった。突然の雨に天を仰いで歓喜する農民達。日照りと飢饉の辛さをよく知る身には他人事とは思えず、悪い気はしなかった。そこで行く先々で何度か恵みの雨を降らせた。だが、とある村で姿を見られ、鍬や鋤を手にした村人達に囲まれた。全く相手にならない連中だったが、何故襲われたのか不思議だったので、彼らの考えを知るために喰い尽す。そして知る。鬼に対する恐怖とそこからくる疑念、無知故の憎悪。

「挙句の果てには俺が大人しくしていると俺を倒して俺の持っていた物を奪おうとする者まで現れた。」

 暗く涼しい洞窟。腕に抱いている一の姫の温もり。目に映るのは、無造作に積み上げられた宝物の山。一の姫の気晴らしのために集めた物だ。向こうから伊邪七岐を手に向かってくる若い神職-おそらく若き日の臨元斎-清麻呂。

「鬼は悪と決めつけ、鬼を倒す事は正義だと、鬼から物を奪う事すら正義なのだと。例えそれが自らの欲望を満たす目的であったとしても、大義名分の元に行われる悪行はそれすらも正義と主張して憚らない厚顔無恥な者共に嫌気がさした。」

 一壺天が過去を話す時、暁の頭の中にその情景が、一壺天の感情が、鮮やかに浮かび上がった。まるで暁自身がそれらを体験しているかのような錯覚を覚える、鮮明な痛々しい記憶。恐ろしいと感じていた一壺天に対し、同情の念が生まれた。

 『一壺天は自らの罪に苦しみ、それを償おうとした。なのに認められることなく、逆に傷付いた…?』

 「自分でも分からん。自分が一体何をしたかったのか。ただ、散々いたぶって殺した者の魂を喰ったせいで、俺がそいつらに与えた苦痛が、無念が、全て俺の中に返ってきた。全く馬鹿な事をしたものだ。その痛みをどうにかしたかったのは確かだ。だが、俺が自らの欲望に従って犯した罪の重さに苛まれているというのに、俺を倒しに来る奴らは正義という名の下に同じ行為を良心の呵責を感じずに行おうとしていた。そこに理不尽な矛盾を感じた。自らの罪をそそぐ方法は、善行を施して罪を償うのではなく、この諸悪の根源たる欲深き人という存在を滅する事だという考えに行き着いた。だから持てる力の全てを駆使して人を殺しまくった。どうせ穢れたこの身なのだ。醜い欲望の象徴を全て喰い尽すことでこの世を浄化することこそが俺が存在する意味のように思えた。俺にとって人とは醜い欲望を具現化し、偽善の衣を纏わせただけの存在だった。この世は苦渋に満ち満ちている。その全てをきれいに洗い流したい。ただ、それだけだ。」

 一壺天が暁の目を見詰める。流れ込んでくる思念。それは、怒りと、悲しみと絶望の嵐。暁の胸に激痛が走る。あまりの痛みに、暁は己が身を掻き抱き、がっくりと膝を付いた。苦しくて、息をするのも難しいほどだった。

 「何をしたの?」

 目に涙を滲ませながら暁が一壺天に問う。

 「お前が取り込んでいる俺の魂を通して、俺の痛みを分けてやった。この痛みを抑えるのには人の魂が要る。俺が人を喰う理由は二つあった。一つは人を滅する為。もう一つは、この痛みを押さえ込む為だ。一壺天に戻らなかった理由もこれだ。二人に分かれていた時はこの苦痛がはるかに軽減されていたから。俺が清麻呂に感謝していたのもそのせいだ。」

 「何故、人を滅ぼそうと思うの?人の魂がなければこの苦しみを抑えられないなら、人が滅んでしまっては貴方が困るんじゃないの?」

 胸の痛みに、血を吐くような思いで暁は言葉を紡ぐ。あまりの苦しさに、一壺天への恐ろしさを忘れた。

 「この苦しみの大本が人なのだ。喰った連中のくだらない欲や未練が俺の中で苦しみに変わっていく。そしてそれを抑えるために新たに人を喰う。負の連鎖だ。もう止めることができないのならば喰い尽すしかあるまい?もしくは俺自身の次の段階を待っているのかも知れん。喰えるだけの人を喰ったらどうなるか。もっと強大な力を持てば、この苦しみを克服できるのかも知れないと。」

 「違う!貴方が探している答えはそんなんじゃない!」

 「ならば何だと言うんだ?このに及んでまだお前は俺の探し物を見つけてみせると言うのか?気が狂う程の痛みを感じながらも狂うことすらできない苦痛を、この世の全てを巻き込んででも終わらせたいと思うことが、お前には理解できないのか?ならば答えを示せ!」

 「貴方が滅ぼそうとしているのは人でもこの世界でもない。自分自身。もっと言うならば自分が犯した罪。その為の方法を模索してるだけなんだわ。」

 「ほう。そこまで分かっているならば、この痛みを、俺自身を終わらせる方法を示してみろ。それこそが答えかも知れん。」

 いつの間にか暁の胸の痛みが治まっていた。ひざまづいたまま、顔だけ一壺天を見上げる暁に、一壺天は床の上の細長い包みを手に取って差し出す。

 「お前が俺に終わりをもたらすならば、俺の探し物はお前だったということになるかも知れんな。」

 暁は黙ったまま首を横に振った。後退あとずさりながら立ち上がる。伊邪七岐を受け取る気にはなれなかった。

 「お前がこいつを使わない気なら、俺がこいつを試してみよう。伊邪七岐に何ができるのか。こいつでお前を刺したら、何が起こるのか。お前から俺の魂を切り取って取り返す事ができるのか、もしくはお前が俺の魂を取り込んだまま死ねば俺に何が起こるのか、試してみよう。」

 暁は首を横に振りながらまた一歩後ろにさがった。何かが違う。そう分かっているのに、ならば何が違うのか、どうすればいいのか、答えがまだ見付からない。

 一壺天が包みを開く。にしきの包み布がハラリと落ちた。伊邪七岐の柄に手を掛ける。バチバチと一壺天の手の中で稲妻が弾けた。だが、那由他を弾き返した雷は、一壺天には何ともない様で、一壺天は平然とした顔で伊邪七岐を握り締めた。切っ先を暁に向けて。

 伊邪七岐の刃先から光が滲みだす。伸び出した細い光は絡み合い、一枚のやいばへと繋がる。今、一壺天は暁を通さず伊邪七岐を使いこなそうとしていた。伊邪七岐と繋がるのに、もう暁は必要とされていないのだ。暁は自分と、那由他と、伊邪七岐の三者が織り成していた不思議な関係に終わりが来た事をの当たりにさせられた。そして今になって漸く気付いたのだ。あの不思議な一体感。一体となっていたのは暁と那由他だけではなかったのだ。鬼である那由他と神器である伊邪七岐。相反する存在を人である暁が結び付けていたのだ。

 一壺天の手の中で益々激しく光が弾ける。その姿には、自らの意思に反して蹂躙される屈辱に必死であらがう伊邪七岐の強い意志が感じられた。暁は、陵辱の現場を目撃しているような、目を覆いたくなるほどの痛々しさを感じた。なのに暁には一壺天を止める事すらできないのだ。成す術のない遣る瀬無さ。暁は自らの無力さを呪った。

 「やめて!」

 あらん限りの力を振り絞ってやっとできたのは声を大にして叫ぶ事だけだった。

 徐々に伸びてきた伊邪七岐の光の刃が先端まで完成しようという時だった。伊邪七岐が一際ひときわ強い光を放ったかと思うと、ガラガラ!バキ!と轟音が響いた。一壺天の手の中で落雷が起きたかのような、激しい衝撃。暁は思わず顔を覆って目を背けた。

 カランカラン…。

 金属の破片が飛び散ったような音。その後に続く一瞬の静寂。

 暁が逸らした目を一壺天の方に戻すと、そこには既に伊邪七岐の姿は無く、冷たい表情の一壺天が剣を握っていたはずの自らの拳を眺めていた。一壺天が拳を弛める。サラサラと砂のように細かいかけらがこぼれ落ちた。

 一振りの剣が選んだのは壮絶な最後。暁の目の前で、まず那由他が、そして伊邪七岐が次々と自らを打ち消す選択をしていった。次は暁の番なのか?

 暁のすぐ足元に、伊邪七岐の七又の刃先の一つと思われるかけらが転がっていた。小刀程の大きさのやいば。暁がそれを拾って自らの喉元に突き立てれば、全てが片付くのだろうか?それが、『答え』だったのか?

 臨元斎を喰った後の那由他の言葉が脳裏を過ぎった。

 『あいつがそれを望んだから。』

 今、一壺天は『終わり』を望んでいる。『奴の力を幾分か削ぐだけでも命を賭して成し遂げる価値がある』臨元斎の言葉を思い出す。この世に絶望し、自らを含む全てを終わらせたいと願う一壺天。その望みを叶え、かつ一壺天の手によるこれ以上の破壊を防ぐ事、それこそが暁の存在意義なのか?暁はその為に生まれてきたというのか?『ならお前は、何の為に生まれてきたというのだ?』那由他の問いに対する答えは、これだったのか?暁の頭の中で様々な思いが渦巻く。暁は伊邪七岐のかけらを見詰め、手を伸ばしかけた。だが、何か違和感を感じる。何かが違う。答えは別にある。一壺天が望むから?臨元斎が望んだから?ならば、暁自身は、何を望んでいるのか?喉元まで出てきそうで出てこない答え。もどかしさに喉を、胸を、掻きむしりたくなる。膨れ上がる焦燥感。『人は、条件が揃ってしまうと他の事が考えられなくなる。』臨元斎の自嘲気味な笑みを思い出した。暁は伸ばしかけた手を引っ込めた。

 「答えはまだ見付からないか…。」

 暁の心を全て見透かしているのだろう。一壺天が一歩暁に近付きながら呟いた。暁は思わず一歩後ずさる。

 「ご大層な事を言って散々俺を期待させておきながらその期待を裏切るというならば、どう落とし前をつけてもらおうか?」

 一壺天の手が伸びる。長く爪の伸びた大きな手が暁の首元にそっと触れる。

 「お前が結論を出せないのなら、俺が手を下すしかあるまい?」

 暁は頭が真っ白になった。これで、全てが終わるのか?今までの那由他との旅はなんだったのか?暁が今まで生きてきた理由は何だったのか?ただ爪の先が軽く触れているだけだというのに、暁は首を絞められているように息が苦しかった。それは一壺天のせいでは無く、暁自身の焦りと心理的な重圧から来る息苦しさなのだろう。こんな最期を迎えるために、暁は必死で今まで命を繋いで来たというのか?

 砕け散った伊邪七岐。もし暁が一壺天、もしくは那由他から伊邪七岐を受け取っていたら…。共に戦った仲間である伊邪七岐は、あんな最期を遂げずに済んだのか?『那由他は刹那を避けて京へ向かおうとした。』もしあの時、暁が変な意地を張らずに那由他と共に京へ向かったら、暁は那由他を失うことなく答えを見つけ出したのだろうか?五色神社の鳥居を無意識の内に超えてしまったあの時。鳥居を出る前に引き返して臨元斎や巫女に事情を話し、助けを求めていれば彼らを犠牲にする事はなかったのだろうか?暁の胸に次々と湧き上がる慙愧ざんきの念。暁は今度は自らの罪に対する痛みで苦しかった。蛇女を切った時に感じた胸の痛みが再び沸き起こった。これらの痛みは全て那由他と行動を供にしたからこそ引き起こされたのではなかったのか?痛みと供に、那由他への怨みつらみが胸を満たす。涙を滲ませた目で、暁は一壺天の目を見詰めた。どこまでも吸い込まれてしまいそうな、深い深い闇の色。暁の頭が、心が、一瞬空っぽになった。

 次の瞬間、急に暁の口を突いて言葉が出た。

 「貴方をゆるす。」

 その一言を言い終わるか終わらないかという時、暁の胸の中で何かが弾けた。そして、胸が軽くなる。今まで心臓をぐるぐる巻きに縛り上げていた鎖から解き放たれたようだった。

 同時に一壺天の動きが止まった。目は暁を見詰めたままだ。暁の口から、勝手に言葉が流れ出した。

 「貴方を赦す。だから、貴方の心に安らぎを。貴方のために私が傷付いた全てを赦す。貴方が他の人たちに犯した罪を私が赦す権利はないけれど、私からもその人たちに赦しを乞うから。必要ならば、私がその罪を償うから。だから、もうこれ以上苦しまないで。」

 一壺天が静かに目を閉じた。暁に向かって伸ばしていた手を下ろす。二人の間を風が吹きぬけた。そこで初めて暁は天守閣の四方の窓が全て開け放たれている事に気付いた。今まで刹那や一壺天に意識が釘付けになっていて、周囲を気にする余裕など無かったことに改めて気付かされた。

 一壺天の閉じた瞼の隙間から柔らかい光が滲み出した。ぽろぽろと零れ落ちる光の粒は地に落ちる事は無く、吹き抜ける風に乗って空を舞う。吹き込む風が強さを増し、一壺天の周りを吹き荒れる。吹きすさぶ風に髪を弄らせながら静かに佇む一壺天。部屋の中は風の中を舞い泳ぐ光の粒に満たされ、流れる風がその一部を外へと運び出す。

 暁は出会った時の那由他の姿を思い出した。今、光の嵐の中にいる一壺天は、あの時の満開の枝垂桜の中の那由他と重なる。

 『極楽に、鬼?』

 あの時思わず口にした言葉を思い出した。

 自ら犯した罪に対する慙愧の念。後悔、痛み。『正義とは何か?』自らの安寧を計る為に他者に犠牲を強いる事か?多くの命を救うために多くの他の命を奪う事か?自らの正義を信じ、断罪者として一壺天に挑んだ清麻呂に一壺天を破る事はできなかった。なぜなら、『裁きは既に下っていた』から。一壺天は既に自らの罪を裁き、自ら罰を科していたから。それ以上の罰は必要無かったのだ。必要だったのは本心からの赦し。憎しみや怒りでは赦しを与える事ができなかったから。

 誰が想像し得ただろう?こんな強大な力を持ち、天地さえも意のままに操る一壺天が、誰もが情け容赦ないと信じて疑わなかった鬼が、良心の呵責に苦しんでいたなどと。

 『不味くて喰えない』お陰で、暁が通常ならあり得ない『人が鬼の魂を喰う』なんてことができたから、僅かなりとも一壺天の心の痛みを分かち合えたからこそ辿りつけた答えだったのだろう。『互いの痛みを理解できたら、人は赦し合えるのかもしれない。』暁はそう思った。

 感慨にふけっていた暁がふと意識を一壺天に戻す。光の粒を撒き散らしながら風に吹かれる一壺天の姿は現実のものとは感じられず、このまま消えてしまいそうな儚さを含んでいた。暁はハッと我に返った。何もかも消えてしまわれては困る。何故困るのかなんてことは今は分からなくてもいい。ただ、今ならまだ間に合うかも知れない。風に煽られていた髪の中で、長かった一壺天の角が殆ど消えかけていた。瞼から滲み出す光の粒も途切れ途切れになっている。何とか間に合って欲しいと願いを込めて叫ぶ。

 「那由他、貴方は許さないから!このまま私を置いてどこかへ行ってしまうのは許さない!」

 途切れ途切れの光の粒が止まった。一壺天だった存在は、身体まで消えてしまう事はなかった。静かに目を開けたその瞳の色は一壺天と変わらぬ闇の色。ただ、悪戯っぽくニヤッと笑うその目の光は暁にとって馴染みのあるものだった。暁の緊張が一気に解ける。

 「那由他?一壺天?」

 「どちらでも。暁の好きに呼べばいい。」

 「じゃあ、二つ合わせて那由天。」

 「なんだそりゃ?変に混ぜるなよ。」

 「好きに呼べって言ったじゃない。」

 「ああ、言ったさ。だが混ぜろとも言ってない。大体お前が名を呼んでこの世に縛り付けた方はどっちだった?」

 「那由他…。」

 少し頬を赤らめながら暁が答えた。

 「じゃぁ、ややこしい事言うなよな。お陰でやっと解放されると思ったのにこんな中途半端な状態で取り残されるなんて全くもって迷惑だ。」

 「何?その中途半端な状態って?」

 「これだけ一緒にいたらわかるだろう?刹那の方に行ってた未練がましい罪の意識とかが戻って来た上に一壺天としての力が殆ど消えてなくなったってこと。」

 「え?じゃぁ、これからどうするの?」

 「どうするもこうするもないだろう?お前に責任取ってもらうしかないね。」

 「何それ?何で私の責任なわけ?私が何をしたって言うのよ?」

 「お前が『那由他、許さない』なんて言わなきゃ最後まで解放されて晴れて自由の身になってた筈なんだ。それなのにこんな俗世の穢れたところに足止めしてくれたからにはきっちり面倒見てくれる覚悟ぐらいはあるよな?当然。」

 「それってそもそも私が一壺天を『赦した』から痛みから解放されたんでしょう?感謝してもらうべきじゃない?」

 「そりゃぁきっちり最後まで解放されてれば感謝もしてただろうが結果的に前より悪い状態にされたんじゃぁ感謝することなんて微塵もないね。」

 「じゃぁ、どうすればいいのよ?」

 「そうだなぁ。どうしてもらおうか?取り合えずは、お前、まだ俺の魂のかけら持ってるだろう?今度こそ返してもらおうか。」

 そう言いながら那由他が暁を引き寄せようと手を伸ばす。暁はその手からスラリと身をかわして言い放つ。不敵な笑みを浮かべながら。

 「絶対に返さないから。一生私を追い続けるのね。」


第1章完結です。

第2章に続きます。

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