城山国
悪夢から覚め、人心地着いて周囲を見渡すと暁はこざっぱりした何もない部屋にいた。谷間を転がり落ちる際、あちこちぶつけたのだろう。全身がズキズキ痛み、僅かに身体を動かすのにも苦労するほどだった。
衣は白い夜着に換えてあり、足や腕には傷の手当がしてあった。何とか上半身を起こし、部屋を見回すが、殺風景な部屋に暁一人がいるだけだった。あたりもやたら静かだ。障子から差し込む光で陽が高い事はわかったが、時折小鳥の囀りが聞こえるくらいで近くに人の気配は無かった。
暁は立ち上がって障子を開けてみた。
兎に角喉がからからで、誰かを呼ぼうにも声が擦れて出なかった。
夜着姿のまま他人の屋敷の中をうろうろするのは躊躇われ、仕方なく暁は部屋に戻って腰を下ろすとこれまでの事をぼんやりと考え始めた。
暁は今どこにいるのか?自分を助けてくれた身分の高そうな武士は誰なのか?あの山賊達はどうなったのか?これからどうしようか?そして、那由他は今頃どうしているだろうか?などなど。
那由他は高峯城の時の様に、また暁を連れ戻しに来るだろうか?今回は来ないかも知れない。否、来るはずがない。と来て欲しいと心のどこかで期待している自分を懸命に抑えようとしていた。山賊に襲われている時でさえ来なかったのだ。今更来るはずもない。そう考えて、自分自身を納得させようと努めた。そして気持ちを切り替え、今回暁を助けてくれた男について考え始めた。混乱していてはっきり覚えてはいないが、倒れた暁のその後の処置を見ても親切な人のように思えた。危ないところを助けられた事もあってか、暁はまだまともに話もしていないその人の事をすでに信用していた。成頼の時の様に言い寄られたらどうしようか?などとあらぬ事まで想像して余計な心配に思いを巡らしていた時だった。
パタパタと縁側から足音が近づいてきた。誰かが来る。暁はやや緊張しつつ居住まいを正してその誰かが入ってくるのを待ち構えた。
からりと開かれた障子の向こうに現れたのは、暁と同じ年頃の娘だった。
「あ、気付かれましたか。良かった。もう丸一日、眠りっぱなしだったんですよ。おなかとか空いてません?何か持ってきましょうか?」
「水を、お願いします。」
かすかすに乾いた声で暁が言った。
その水は正に甘露の味と言えた。故郷で家の横に湧き出す岩清水を飲み慣れていた暁にとって、他所で飲んだ水が美味しいと思ったのはこれが初めてだった。暁の世話をしてくれた娘は鈴と名乗った。
「私は暁と申します。色々とお世話になり、本当に有難うございます。」
「もしかしてどこかの姫様じゃないですか?暁姫とお呼びした方が良いですよね?」
「え?そのような者ではありません。ただの暁です。」
「そうなんですか?すごく上等の着物をお召しだったし、金子も沢山お持ちだったからてっきりどこかの姫様かと思ってました。森様も何か事情がありそうだと仰ってらしたし。私、てっきりどこぞの姫様が戦で敗れたか何かで落ち延びる途中、山賊に襲われてお供とも逸れて、森様に助けられたんじゃないかと思ってました。」
満更外れという訳ではないものの、よくそこまで想像力が働くものだと関心しつつ、暁はその勘違いをしっかり訂正する。
「あの衣は昔、ある身分のある方をお助けした時にご褒美で頂いた物で、私はずっと山奥で母と二人暮らしをしていた世間知らずの田舎者です。」
「え?それにしては言葉遣いもちゃんとしてるし。そうは見えないですよ。」
このまま話しを続けては余計な事を口走るのではないかと不安になった暁は話しを逸らす。
「ところで、森様とはどなたですか?こちらのご主人?」
「ここ城山国のご家老、森真之丞様です。暁さんを連れて来られた方ですよ。お館様の信頼が厚くてご家来衆の中で筆頭なんですよ。お館様は気難しくて滅多に人にお会いになられないんですが森様だけはお館様にお会いする事を許されているんです。」
「お館様というのはどなたですか?」
「瀬津直忠様です。この城山国をお建てになり、今も次々に近隣の国を併合して領地を増やしておられるんですよ。もしかしてご存知ないんですか?」
自慢げに主人の話をする鈴に、正直に言っていいものか躊躇われたが、暁は頷いた。
「すみません。田舎者な上、この辺りに来るのは初めてで。でもお名前はどこかで聞いた事があるような気がします。」
嘘ではなかった。その響きには聞き覚えがあった。どこで聞いたのかは思いだせないが…。旅の途中、通りすがりの人の話ででも耳にしたのだろうか?
鈴はお喋りだった。話を続けるうちに、鈴も家族を山賊に襲われて亡くしていると分かった。鈴の父親はもともと城勤めの侍だったが山賊討伐の際に命を落とし、身寄りのなくなった鈴は父の同僚の伝手で城に置いてもらっているのだと言う。
鈴の話によれば城山では領主が遠征で留守の間に山賊がよく現れ、城山の侍達は戦から戻ると山賊討伐、山賊が落ち着けばまた戦、の繰り返しだそうだ。
暁は鈴に自分が高峯という国の出身で、今から国に帰るところだということまでは話した。
「そうですか。森様が傷が癒えるくらいまではここにいてもいいと仰せでしたよ。」
「それは助かります。森様は本当に親切な方でいらっしゃいますね。」
「そうなんです!本当に気配りも細やかで、目下の者にも親切で、城で働く者みんなから慕われておいでなんです!それに頭も切れるし、お館様の信頼も厚いし、戦上手で兵を纏めるのもお上手なんですよ!」
鈴は森の話になるとやや興奮気味になった。鈴が森の事を慕っていそうなのが暁でさえも見て取れた。
「鈴さんは森様の事を余程尊敬しておられるのですね。」
暁がそう言うと、鈴は少しはにかんだ様子で、
「暁さんには思いを寄せる方はいらっしゃらないんですか?」
と暁が思いも寄らなかった質問を投げかけてきた。
『思いを寄せる方』と聞いた瞬間、暁の脳裏を那由他の姿が翳めたが、『違う、あんな奴、絶対に思いなんか寄せてない!』と自ら必死で否定する。
「いいえ!そんな人いません!」
不自然な程必死の否定に、鈴はくすくすと笑いながら、
「いるみたいですね。どんな方なんですか?」
と更に追求してくる。
「だから、いませんってば!」
暁の態度に鈴はまたくすくすと笑いながらも話を変えた。
「ところで暁さんはここまで一人で旅をしてたんですか?お供もなしで?」
「連れが一人いましたが、別れました。私は、急に故郷に帰る用事ができたものですから。」
「そのお連れの方ってどんな人だったんですか?」
「え…と、我侭で、捻くれてて、意地悪で、偉そうで、女好きで、いつもふざけてて、薄情な人です。」
「よくそんな人と一緒に旅ができましたね。『女好き』って、一緒にいてて何もなかったんですか?」
「え?別に…。特に何も。『目も口も肥えてるから上玉しか相手にしない』って私に言ってましたから。」
「目も口も?変な事いう人ですね。それに暁さんだったら十分『上玉』だと思いますけど…?」
「いいえ、そんなことないです。」
慌てて否定しつつ、『しまった。余計な事言っちゃった。だってそもそも人じゃないんだもん。』と思っていると、益々冷静さを失ってしまった。
「あ、そうだ、そう言えば暁さんのお父様のお名前は?」
「え…?」
ついうっかり答えかけて暁は固まってしまった。何故、父の名を聞かれるのか?こんな遠い国だ。父の名を言って何か拙い事があるだろうか?しかもつい最近できたばかりの新しい国だ。本田家と敵対している事はないはずなのだが…。不安そうに固まってしまった暁を鈴が更に追求する。
「何と仰るんですか?」
「どうして急にそんな事を聞くんですか?」
暁が切り返す。
「いえ、先程も『どこかの姫様かも』と思ってたってお話したでしょう?森様からお父上のお名前を聞き出すように言われていたのをふと思い出したので。何か言えない理由でもあるんですか?」
そこまで言われると逆に隠すのが不自然だ。
「いえ、急に聞かれたのでどうしたのかと思って…。父の名は、本田春臣です。もうずっと昔、私が幼い頃に亡くなりましたが。」
一抹の不安を抱えつつ、告げた。
「本田春臣様ですね。わかりました。」
「多分どなたもご存知ないでしょう。ただの一介の田舎武士ですから。」
念のため、そう釘を刺しておく。
鈴が部屋を出てからも、暁の中に不安が残ったが、その後暁が心配する様な事は何も起こらなかった。やはり、父の名など誰も知らないのだと、ほっとしたような、少しがっかりしたような、複雑な気持ちでいた時だった。鈴が暁を呼びに来た。
「森様がお呼びですよ。何かお話があるそうです。」
暁は緊張しながら鈴の案内で森の待つ部屋へと通された。『もしかして父の事で何か言われるのだろうか?』という暁の不安は全くの杞憂で、森は暁を襲った盗賊の事を尋ねただけだった。
終始にこやかで穏やかな物言いの森は、見た目は若そうなのだが落ち着き払った物腰がやや年寄り臭く、若いのかそれなりの年なのか分からない奥深さを持っていた。そしてそんな森を見てさえ、同じように年齢不肖な奥深さを持っていた那由他の事が思い出され、森と話している間中ずっと暁は頭の中を占める那由他を追い払おうと必死で、あまり話しに集中できていなかった。
「ところで暁殿は高峯国のご出身とか。確か隣は豊川国でしたな?」
「はい、そうですが…。」
「実は豊川国からここ城山国に色々な話が持ちかけられておるのだが、東国の事情はこちらの方まであまり伝わって来ぬので今丁度調べを進めておるところでしてな。わしが暁殿をお助けしたのも何かの縁。宜しければ少々東国の様子を聞かせてはもらえませんかな?」
「ええ。私の様なものの話で宜しければ喜んで協力させては頂きますが…。」
「それは有難い。では早速お館様の所にご案内しよう。」
「え?お館様?森様にお話するのではないのですか?」
「珍しくお館様が直々に会われると仰せでな。鈴から聞いておるかも知れぬがお館様は少々気難しいところがおありだ。くれぐれも失礼の無い様、心がけて下され。嘘偽りなども瞬時に見破られる眼識をお持ち故、正直にお話するように。」
森はにこやかにそう告げたが、告げられた内容は暁に緊張を強いた。
そうして暁は森に連れられて城の中心に位置する天守閣へと向かった。




