雪
もう秋も終わりとはいえ、季節外れの大雪が降った。人里離れた場所で日暮れを迎えてしまい、二人は朽ちかけたあばら家を見付けてそこに身を寄せた。屋根も壁も半分崩れ落ち、火を熾す事も儘ならなかったが、吹き荒ぶ吹雪の中、少しでも風と雪を凌げるのは暁にとっては有難かった。那由他は流石に鬼だけあってか、はたまた面の皮同様に全身の皮も厚いのか、全く寒そうではなかったのだが。
冬支度の不十分な暁は壁の隅に縮こまって身体を丸めていたが、寒さにガチガチと震え、歯の根が合わず、ろくに話もできない状態だった。
「お前すごく寒そうだな。そのままじゃ凍えて死ぬぞ。」
「那由他は・さ・さぶくない・の?」
一言発するのにもガチガチと歯のぶつかる音が挟まって思うように言葉が紡げない。
「別に。それより帯を解け。」
「はぁ?な・なに?」
「寒そうだから懐に入れてやる。そのままだと嵩張るし肌を合わせた方が温まるから前袷だけでも開けろ。」
「で・でき・るわけ・ないでしょ!」
「馬鹿が!そのまま無意味に凍死する気か?それなら不味いの我慢してでもこの場で喰っちまうぞ!」
那由他が暁の顎を掬い上げるように掴むと自分の顔の方に引き寄せる。
「やめてよ!」
暁がその手を振り払った。
「何なんだよ!死にたくないならちょっとは素直になれ。じゃあ、この姿なら安心か?」
那由他が暁の母、時に姿を変え、着物の前袷を大胆に開いた。
「は・母上の・姿で・へ・変な格好・し・な・いで!」
「暁、あんまり意地を張らないで。」
那由他だと分かっている筈なのに、母の姿で、声で、そう言われると暁は言い返す事ができず、固まってしまった。暁が動きを失っている間に、バサリと母のだか那由他のだか分からない衣が暁の頭に被さってきた。そのまま暁は頭も身体もスッポリとその衣に包み込まれ、そっと抱きしめられたまま、床の上に横倒しにされた。驚きつつも、暖かさにほっとして、抵抗するのを忘れた。広くて硬い胸に顔を埋めている。母の胸でないことは明らかだ。暁の胸の鼓動が激しくなる。自分の耳の中に響き渡るほどの早くて大きな鼓動が那由他に伝わってしまうのではないかと不安になり、その不安が更に拍動を勢いづける。だが、何故だか同時に睡魔も襲ってきた。心臓は暴れているのに意識は遠のいていく。不思議な感覚だった。
翌朝、暁が目を覚ますと那由他はもうそこにはいなかった。那由他が整えてくれたのだろう。暁は分厚い衣に何重にも包まれ、すっかり冬の装いになっていた。昨夜降り積もった雪の中を歩き出す。時期外れだったせいだろう。あれ程激しく降ったのに、雪はそれ程深くは積もっていなかった。昨夜の事を思い出し、那由他の顔を見るのが何だか気恥ずかしく感じられ、側に那由他がいないのにほっとした。それと同時に那由他が暁の為に衣を揃えてくれたのが嬉しくて、一人で上機嫌になっていた。
午後遅くになって、またいつの間にか那由他が横を歩いていた。
「いつもどこかへ消えちゃうけど何してるの?」
ふと今まで気になっていたことを尋ねてみた。
「別に。お前だって四六時中俺と一緒にいるのも面倒だろう?それに俺にはこないだの蛇女みたいなのがよく寄ってくるからな。一緒にいない方だ安全だ。一壺天の時には全く相手にならなかったような雑魚共が今の俺なら何とかできると思うらしい。だからある程度力を付けとくために魂も喰っとかなきゃいけないし。一緒にいない方が良いだろう?」
暁には意外だった。確かにしょっちゅうあんな目に会うのは御免だし目の前で人を喰われるのも困る。それにしても那由他が暁の安全に気を配っていたというのは何だか嬉しかった。
「あっちに村があった。お前一人ならどこかに泊めてもらえるだろう。ちゃんとよく見てまともそうなところを選べよ。」
それだけ言うとまた那由他はいつの間にかどこかへ消えてしまった。
山の麓に小さな集落があった。
『何をよく見て選べって言うのよ。確かに男の一人暮らしとかは避けるべきなのは分かるけど。そんなの外から見ただけで分かる訳ないじゃない。』
また雪が降り始めた。日暮れの近さも相まってあたりは既に薄暗い。人家はまばらで一軒一軒回るのは大変そうだ。暁は取りあえず一番手近な村はずれの家の戸を叩いた。
「旅の者ですが、日が暮れて雪も降り出し、困っております。土間の隅でもいいので一晩泊めて頂けませんでしょうか?」
戸を開けたのは不機嫌な面持ちの初老の男で、暁に緊張が走った。一瞬失敗だったか、と思ったが、奥に男の妻と思しき女も見える。よく見て選んだ訳ではないが、あまり問題は無さそうだ。
「おい、旅の娘さんだと。泊めて欲しいそうだが、いいよな?」
男が中の女を振り返って言った。女は一瞬戸惑った様な表情を見せたが、すぐにハッとした顔つきになって、言った。
「ああ、勿論だよ。この天気じゃ気の毒に。さぁさぁ、早く火の側に。」
「狭い所じゃが、入りなされ。」
男が暁を促す。
「有難うございます。」
『なんだ。意外と優しそう。』ほっとした暁は思わず笑みをこぼしながら中へと進む。悴んだ手足に暖かい囲炉裏の火は何より有難かった。
言葉数は少ないが夫婦は親切だった。粗末だが暖かい夕食ももらい、嫁に出て行った娘が使っていたという夜具まで用意してくれた。二人は娘が遠くへ行ってしまった寂しさを語り、暁は両親を亡くしていることを話した。互いに自らが失った者を補っているような妙な一体感がその場に生まれた。すっかり打ち解け、これまでの寒さや空腹が満たされるとどっと疲れが出てきた。暁は暖かい床で久々の安眠を貪った。
寝入り端、昨夜那由他の懐に抱かれていた時の事が脳裏を掠めたが、あれはただの夢か幻だったような気になり、そのまま暁は深い眠りの淵へと吸い込まれて行った。
眠りについた暁は不思議な夢を見ていた。誰かの会話が聞こえる。誰かは分からないが、知っている声だ。
「この娘は神様のお恵みだ。」
「あの娘の身代わりを遣して下さったに違いない。」
「今夜、この時に来てくれた事が何よりの証じゃ。」
暁の事を言っているのだろうか?ぼんやりした頭の中で夢現に考える。
そうだ、これはあの初老の夫婦の声だ。暁の事を嫁に行ってしまった娘の代わりにするつもりなのか?何か引っかかる。なぜ『今夜、この時』なのか?
「ぐっすり眠ってるね。」
「これで手荒な事はせずに済みそうじゃな。」
「今の内に。」
誰かが近づく気配を感じ、暁は目が覚めた。が、既に時遅し。開いたはずの目が捕らえるのはどこまでも暗闇ばかり。どうやら暁は寝ている間に夜具で頭まで覆われ、簀巻きにして縛られてしまった様だ。何とか身を捩ろうと動きかけて、先程の会話の中にあった『手荒な事はせずに済む』という言葉を思い出して動くのを止めた。
暁が大人しくしていると、二人は暁を抱えて運び出した。
『一体どうなってるの?娘の身代わりって何?親切な人達だと思ってたのに…。』
暁は板か何かの上に乗せられ、都合良く積もった雪の中を引き摺って行かれた。
「雪が積もっていてくれて助かったわい。」
「荷車だと音が響くからね。」
「これもみな神様のお導きじゃ。」
ザクッザクッと浅く積もった雪を踏む音と、シャーッという板が雪の上を滑る音だけが夜の静寂の中に響いた。
雪は既に止んでおり、二人の若くはない人間が暁をどこかへ運ぶのには正にうってつけと言えた。
『一体どこへ連れて行く気?私をどうするつもりなの?』
大人しく筵に包まれたまま、暁は夕食時の夫婦との会話を思い出す。
『うちにも娘が一人いてね。丁度あんたと同じような年頃だ。今は出て行ってしまったけど…。』
『どうされたんですか?』
『遠くに嫁に行っちまったのさ。もう当分会えないね。寂しいもんだよ。』
『そんなに遠くなんですか?会いにも行けない程?』
『ああ。滅多な事じゃ会いには行けないだろうなぁ。』
『まぁ、言っても仕方ないことだけどね。』
『ところであんたはどうした?娘が一人でこんな冬場に旅なんて何かあったのかい?』
『故郷の両親が亡くなって…あの…遠くに住んでる親戚を頼って行くところなんです。』
『そりゃぁ気の毒に。近くに身寄りはいないのかい?』
『ええ。私が知ってるのはその遠くにいる遠縁の親戚だけで…。』
苦しい説明をしてその場を誤魔化した。あまり深く突っ込まれると困るので、話を二人の娘に戻した。
『ところで娘さんのお相手はどんな方なんですか?』
一瞬男の表情が強張った。夫婦は目を見合わせ、妻の方が口を開いた。
『通りすがりに見初められて連れて行かれたようなものだから…。相手さんの事はうまく言えんのじゃが、偉い方なのは間違いない。』
『そう、だからわしらには何も言えんかった。』
どうも何か事情がありそうだった。偉い人に見初められたのに親が喜べないというのは何だかおかしい。もっと早くに気付くべきだったのだ。暁は今更ながら自らの愚鈍さを呪った。
『やっぱり何かおかしかったのよ。連れて行かれたようなものってもしかして鬼に攫われたとか?あの娘の身代わりってことは私を何かの身代わりにするつもり?』そこまで考えて何となく事情が読めてきた。
『ちゃんと良く見てまともそうなとこ選べよ。』という那由他の言葉を思い出した。『もしかして那由他は何か知ってたんじゃないの?』そして新たな疑念が頭を擡げる。『ついでにその娘さんを攫ったのも那由他だったりして…。』もしそうなら、ここで慌てて逃げる必要はない。だが、攫われた娘に身代わりを設けることなどできるだろうか?それに那由他ではない他の妖怪が相手だとしたら?『大丈夫。私は不味くて喰べられない。』益々不安になる心を勇気付けようと、色々考えを巡らせるのだが、『でもこないだの蛇女みたいに丸呑みするような妖怪だったら味も分からないかも。』と段々否定的な考えが頭を占めてくる。そうこうしているうちに、一行の動きが止まった。
「ちょっと中を見てくる。」
「ああ、気付かれんように気を付けて。今夜の見張りは与平だったはず。奴ならきっと酒でも飲んで寝てるはずじゃ。」
「ああ。そうだとええんじゃが。」
男の方が様子を見に行ったようだった。妻の方が暁に向かって独り言のようにぼそぼそと呟いた。
「悪く思わんでおくれよ。子に先立たれる親というのはそれはそれは辛いもんなんじゃ。あんたなら他の親も泣かさずにすむ…。」
『先立たれる?』暁の不安は的中したようだ。やはり二人の娘は生贄か何かにされるのだろう。そして暁はその身代わりにされようとしているのだ。『冗談じゃないわ!』差し出される先が那由他なら、このまま差し出されて直接悪態をついてやりたいと思うのだが、那由他が生贄なんて回りくどい方法を取る訳がない。おそらく違うだろう。このままでは他の鬼だか妖怪だかの餌食にされてしまう。相手が女一人の今なら何とか逃げ出せないだろうか?暁は身を捩ってぐるぐる巻きの筵の中から抜け出そうとしてみたが、思ったよりしっかり縛ってあるらしくびくともしなかった。あまり派手に動くと女に気付かれるだろう。そうすれば向こうは『手荒な』手段に訴えるかもしれない。暁の中で焦りが膨らむ。
そこへ、サク、サク、と雪を踏む足音が近づいて来た。
「どうだった?行けそうかい?」
女の問いに対する答えは、
「帰ろう。」
という重々しい男の一言だった。
「え!ここまで来たってのに一体どういう事だい?」
女が食ってかかる。
「もう手遅れなんじゃ。兎に角夜が明ける前に戻るぞ。」
男の声は涙声のように震えていた。
「なんでじゃ?折角代わりの娘が見付かったのに!小雪を、小雪を早く連れ出さにゃぁ!」
「だからもう無駄なんじゃ!」
男が叫ぶ。女がその声に気圧されたようだ。
「しぃ!静かに。誰かに聞かれたらどうするんじゃ?」
声を押し殺して女が男を諌める。
「兎に角急ぐぞ。」
二人はまた暁を乗せた板を引き摺って行く。一度通って道ができたからだろう。帰りは行きよりも速かった。
二人は暁を家の中に戻して縄を解いた。
「本当によく眠ってるわ。」
「よっぽど疲れてたんじゃろう。」
「それにしてもあそこまで行ったのに戻って帰るとは一体どういうことじゃ?」
今度は女の方が声を荒げている。
「小雪はもう死んどった。」
「え!」
二人の間に思い沈黙が流れた。その後、男が静かに話し出した。
「お社の中を見てみたら案の定、見張りはいなかった。祭壇の前に棺桶が置いてあるだけじゃった。だからわしはすぐにでも小雪を連れ出そうと縄を解いて蓋を開けてみたんじゃ…。じゃが、小雪は中でぐったりして冷たくなっとった。呼んでも揺すっても駄目で、息ももう無かった…。」
男が泣きながら絞り出すような声で語った。
「う…。ぐ…。」
女も泣き出したようだった。
「何で、何で小雪が…?代わりにこの娘が死ねば良かったのに!」
「しぃ!やめなさい。やはり神様がお決めになられた事じゃ。わしらにはどうにも変えられんという事じゃろう。一度は諦めたんじゃ。諦めるしかなかろう…。」
「小雪、小雪…。」
女が泣き崩れたようだ。
外で小鳥の囀りが聞こえる。夜が白みかけていた。そろそろ朝だ。暁は居た堪れなくなってきて、
「うぅん。」
とわざとらしく寝返りを打った。
「ほら、起こしちまうぞ。」
二人はごそごそと朝の支度を始めた。
二人が落ち着いてきたようなので、頃合を見計らって暁は起き出した。
夫婦はどちらも平静を装ってはいるが、目が赤く腫れ、泣きはらした跡が見て取れる。しかし暁は素知らぬふりをして言った。
「おはようございます。」
「ああ、おはよう。昨夜はよく眠れたかね?」
「ええ。お陰様でぐっすり。こんなにまともに眠れたのは久しぶりです。」
「そいつは良かった。」
「もうすぐ朝餉ができるよ。」
「何かお手伝いします。」
皆が昨夜何も無かったかのように自然な振る舞いを装う。だが、互いに何か居心地の悪さを感じているような、ギクシャクした雰囲気になっていた。鈍感な暁にも、長居は無用だと分かった。
「今日は村で大事な儀式があってな。わしらはもう出かけにゃならん。」
「私ももうお暇します。先を急ぎますので。これは昨夜のお礼です。」
暁は町の宿で払う程度の銭を差し出したが、二人はそれを断った。
「そんなの気にしなくていいんだよ。それよりこの先、気を付けてな。」
「色々お世話になり、有難うございました。お二人ともお元気で。」
「ああ、あんたもな。」
暁は二人に見送られて歩き始めた。昨夜の雪は暖かい朝日を浴びて溶け出していた。あの夫婦が暁を引き摺って通ったと思われる太い線が雪の上にまだ薄らと残っていた。暁はその線の続く先を目で追った。向こうの山の手前に神社の鳥居が見えた。五石神社の朱塗りの鳥居とは違い、枯れ木色の粗末な鳥居だった。薄積りの雪だったが、辺りは一面真っ白の雪景色だ。
村の中を通り抜ける。家々では人々が起き出し、朝の仕度をする気配が感じられた。一見すると平和な村にしか見えない。
村外れまで来ると、道の先に続く橋が落ちているのが見えた。橋の向こうの道はまた山に繋がっている。橋の周りには神職や巫女らしき人を含む何人がが集まって何やら儀式の準備でもしている様子だった。
暁はぐるっと周囲を見回してみた。川が村と向こう岸とを隔てている。他に橋はなさそうだ。
暁は思い切って橋の近くに集まって来ている村人に声を掛けた。
「あの、すみません。どこか向こう岸に渡れそうなところはないですか?」
「うん?橋は見ての通り落ちて渡れないよ。」
「あんた見かけない顔だね?どこの娘だい?今日が大事な儀式の日だって知らないのかい?」
「すみません。通りすがりの旅の者なので…。どこか他に川を渡れるところはないでしょうか?」
「そうだねぇ。今日はまだ水も少ないから、ここから少し下ったところで川まで下りれば岩伝いに渡れるんじゃないかねぇ。」
「つかぬ事をお伺いしますが、一体何の儀式で?」
「人柱だよ。こないだの大雨で橋が流されて新しい橋を建てるんだ。」
「人柱を立てて橋が流されないように神様のご加護を頂くんじゃよ。」
「村の娘が身を差し出してるんじゃ。よそ者は自力で川を渡るんじゃね。」
村人の中にはあからさまにつんけんした態度を取る者もいた。
これ以上長居は禁物だ。
人柱の娘は昨夜泊めてくれた夫婦の娘だろう。やっと暁に事情が呑み込めた。暁は娘の代わりに人柱にされるところだったのだ。それが娘が既に棺桶の中で息絶えていたお陰で身代わりにされずに済んだということなのだろう。『危なかった』と思う。暁を娘の身代わりにしようとした夫婦への憤りを感じない訳ではないが、二人の交わしていた言葉を思い出すと気の毒で胸が苦しくなる。何とも遣り切れない思いが胸を締め付けた。
村人に教わった通り、少し川を下ると川まで下りられる傾斜の緩やかな土手があった。暁は川縁まで下りると、雪の積もった石の上を滑らないように細心の注意を払いながら渡った。向こう岸には道らしき道も無く、暁は藪を掻き分けながら、なんとか橋の向こうに続いていた道へと辿り着いた。
川向こうの村を振り返って見ると、橋の袂には先程よりも多くの人が集まり、そろそろ儀式が始まろうかという神妙な雰囲気になっていた。あの夫婦がどこにいるのかまではよく分からなかった。『こんなところに長居は無用。』と思い、暁は重い心を引き摺りながら先を急いだ。
「やぁ、娘さん、一人かい?」
もう橋も見えなくなり、山が深くなってきた所で旅姿の若い男に声を掛けられた。
「いえ、連れの者がもうすぐ追い付くはずです。」
「そうか。そいつは残念だな。じゃぁさ、この先の峠に茶屋があるからお連れさんが来るまでそこで一緒に待たないか?娘さん可愛いからちょっと付き合ってくれたら何かご馳走するよ。」
「はぁ。」
どうしたものか暁が迷いながら曖昧に答えると、
「馬ぁ鹿。お前まだ懲りてねえのか?学習能力ないだろう?ちょっと『可愛い』とか言われただけで餌に引っ掛かって知らない奴にのこのこ付いて行くなよな。」
男の姿は那由他に変わっていた。
「何よ!ちゃんと連れがいるって言ったじゃない!何て言って断るか考えてただけなのに。大体人をからかってばかりのくせに偉そうな言い方しないでよ!」
「少なくともお前よりは賢い。昨日も『ちゃんとまともそうなとこ選べよ』ってわざわざ忠告してやったのによりにもよって一番ややこしいところに転がり込んだだろう?」
「知ってたなら教えてくれればいいじゃない。前は男の一人暮らしのとこには行くなって言ってたくせに。昨日の家だって本当だったら若い娘さんのいる家で何の問題もなかったはずなのよ。あんな特別な事情、外から家を見ただけで分かる訳ないでしょう?」
「人にも『勘』ってものがあるだろう?普通は経験積むと磨かれて何となく避けなきゃいけないものも分かってくる筈なんだがなぁ…。お前、本っ当に進歩のないやつだな。」
暁だって好きで進歩が無い訳ではないし、以前の世間知らずに比べれば随分世の中を分かってきているつもりなのに、ずけずけとそんな言い方をされて悔しかったが、言い返せるだけの十分な実績もなく、自己嫌悪に陥ってしまった。
「どうせ私は馬鹿で進歩がないわよ。じゃぁ、那由他はどうして教えてくれなかったのよ。」
「黙ってたらお前がどうするか見てみようと思ったから。案の定、一番 拙い所へまっしぐら、だったな。」
散々人をこけにして、ずっと人の災難を笑って見ていたなんてどこまでも人の神経を逆撫でする。腹が立つが、怒れば相手を益々喜ばせるだけだと分かってきた暁は、話題を変えた。
「それにしても人柱だなんて…。あんな事して本当に『神様のご加護』なんてあるのかしら?」
「ある訳ないだろ。」
はっきりきっぱりと那由他が否定する。
「え?そうなの?じゃぁ何であんな事を…?」
「生きてる人間の気休めだ。誰かが自分達の為に死んでくれないと安心できない人間って結構多いからな。」
「何それ?そんな事の為に殺されるなんて最低!昨日の小父さんも小母さんも可愛そうだわ。そんな無意味な事の為に娘さんが死ぬなんて。娘さんだって気の毒に。」
「そうそう、そんな気の毒な女にならなくて良かったな。ついでに付け加えとくと生き埋めなんて更に気の毒だから俺が喰っといてやった。」
「じゃぁ、那由他がやったの?」
「お陰で命拾いしたろう?感謝しろよな。あの娘が生きていたら今頃お前は身代わりに生き埋めだ。」
身代わりで生き埋めはご免だが、昨夜の夫婦の嘆きを思い出すと那由他が二人の娘を喰い殺してしまった事を手放しで歓迎はできなかった。
「他に何かいい方法って無かったのかしら?二人とも良い人達だったのに。」
「娘の身代わりに殺されそうになったのにお優しい事だな。親がいなければ悲しむ者もいないって考えていたような奴等だぞ。親以外にもそいつが死んだら困る奴がいるなんて考えてもなかったんだろう。大体、人は他人の痛みなんて分からないんだ。自分の知ってる痛みから想像することしかできない。あいつらは自分達が親だから親をやってる者の痛みしか理解できないのさ。」
「那由他は身内が死んだ時の気持ちを知らないからそんな事言えるのよ。」
母の死に直面した時の事を思い出して言う。
「じゃぁ、お前は身内を喰った時の気持ちを知ってるのか?」
「え…?それって…?那由他は身内を喰べた事があるの?」
「さあな。今まで色んな者をいっぱい喰ってきたから。一族纏めて喰った時は先に喰った奴の意識を引き摺りながらそいつの家族を喰ったりしたし。」
那由他はそうはぐらかしたが、暁はきっと喰べたのだろう、という気がした。身内すら喰べるという行為の持つ重々しさもさることながら、那由他が暁に、『お前に俺の痛みは分からない』と暗に告げた気がして、心に重石が乗った気分だった。
暁にとって那由他はまるで底なし沼だ。知れば知るほどその深みに嵌る。暁がどう足掻いても、もう抜けられそうにない。『付いて来てはいけなかったのか?』今更ながらそう思った。暁の心に、再び迷いが芽生えた。




