清麻呂
「こちらに天守清麻呂様がいらっしゃると聞き、伝言を持って参りました。どうかお目通り願えませんでしょうか?」
「その様な者はおりませんが。」
「え?本当に天守清麻呂様はこちらにはいらっしゃらないのですか?」
「今いる者にその様な名の者はおりませんが…。一度古くからいる者に尋ねてみましょうか?」
「ご親切に有難うございます。そうして頂けると助かります。」
「ところであなた様のお名前は?」
「あ、申し遅れました。私は暁と申しますがただの使いの者で私の名をお伝えしたところでどなたもお分かりにはならないでしょう。『一壺天』の使いの者とお伝え下さいまし。」
「え⁉それはそれは。どうぞこちらへお通り下さい。」
先程から暁の相手をしていた巫女は明らかに驚きを隠しきれない様子で、丁重な態度で暁を奥の建物へと案内した。紅葉に彩られた境内を玉砂利を踏みしめながら二人は歩いた。
「どうぞこちらでお待ち下さいませ。古参の者を呼んで参ります。」
暁を小部屋に案内すると巫女は戸を閉めてそそくさとどこかへ行ってしまった。
『一壺天』とは何者なのだろう?高貴な身分の者なのだろうか?そうでなければ巫女の慌てた態度はどう説明すればいいのだろう?
暁は伝言を頼んできた那由他の顔を思い出した。相変わらず何か企んでいそうな悪戯っぽい笑みを浮かべながら言ったのだ。『奴の居場所はここに違いない。もし知らないと言われたら誰にでもいいから『一壺天』からの伝言だと言って、『今夜鳥居の外の森で待っている』と伝えろ。あまり長居はしない方がいいぞ。何を吹き込まれるか分からないからな。伝言だけ伝えたらとっとと戻って来い。それと、清麻呂じゃなくてもいいから必ず誰か来させろと伝えてくれ。」
「何で私が?それ位自分で行けばいいじゃない。」
「お前が行く方が上手く行くんだよ。それともそんな簡単な伝言一つも伝えられない程頭が悪いのか?それなら仕方がないが。」
「それ位できるわよ!」
そう言って来てしまったものの、何だか那由他に上手く乗せられたような気がする。
『一壺天』とは那由他の別名なのだろうか?それとも他の誰かの名を騙って清麻呂という人を誘き出そうそしているのだろうか?一体何の目的で?暁は何だか自分がとんでもない悪事の片棒を担がされているような気がして不安になってきた。ここはあくまで見ず知らずの者から伝言を頼まれただけだと言い張ろう。どう転んでも神社と鬼の関係が良好とは思えない。ここまで来てしまっただけでも迂闊だったと暁は今更ながらに後悔したが、兎に角白を切り通す事に決めた。待っている時間というのは長く感じるものなのか、すぐに戻ると思っていた巫女がなかなか戻ってこず、暁の中で不安だけがどんどん膨らんでいった。
どれ程待ったのだろうか?例の巫女が年老いた神職と共に部屋に入ってきた。下手な事を口走らない様に、そして伝言だけ伝えてさっさとここを逃げ出そうと、暁は少々緊張した面持ちで二人を迎えた。
「これはこれは。『一壺天』からのお使い、ご苦労でございますな。わしは臨元斎と申しまして、ここで一番古参の者でございます。」
『なんだ。優しそうなお爺さんじゃない。これなら大丈夫そうかも。伝言伝えて早く逃げよう。』
暁はそんな事を考えながら、相手がまだ話し終わっていない様子なのにも関わらず口を開いた。
「あの、一壺天からの伝言です。『今夜、鳥居の外で待っている』そうです。清麻呂様にお伝え下さい。他の方でも構わないから必ずどなたか来て下さいとの事です。それでは私はこれで。」
一方的に喋るだけ喋ると暁は早速その場を立ち去ろうとしたが、引き止められてしまった。
「まぁまぁ、そう慌てなさんな。見たところ普通の人の様じゃが、一壺天とはどういうお知り合いかな?」
『来た!』と内心暁は焦ったが、一人で部屋にいる間に考えを重ねて用意しておいた言い訳をすかさず口にする。
「私はただ、通りすがりの男にお駄賃を貰って伝言を頼まれただけです。」
「ほう。それはどんな男でしたかな?」
「え…と、普通の人でした。笠を深く被っていたのであまりよく分かりません。」
「笠を深くか…。その者、大柄で派手な着物を着てはおりませんでしたか?」
暁の脳裏を那由他の姿が過った。やはり一壺天は那由他の別名なのだろうか?
「あ、そう言えばそんな気もします。兎に角伝言は伝えましたので私はこれで失礼させて頂きます。他の用事があるのに遅くなってしまいましたので急がねば。」
これ以上いたらいつ余計な事を口走るか分からない。暁は襤褸を出す前に急いでその場を立ち去ろうとした。
「それは申し訳ない。この辺りには滅多に人が通りませぬ故、偶然出会った者に伝言を頼まれるなど考え難く、つい訝ってしまいましてな。ではその男にお伝え下され。『今ここに清麻呂という者はおらぬ』と。それに『夜一壺天に会うような度胸者もおらぬ』とな。」
「分かりました。その様に伝えておきます。では私はこれで。」
そそくさと席を立ち、外へ飛び出した暁に向かって先程の神職が後ろから呼びかけた。
「そうそう、娘さん、その男にはあまり関わらぬ方が御身の為ですぞ。何かおかしな様子があれば、すぐに鳥居の内に逃げて来なされ。」
「え?あ、有難うございます。」
振り向いて、軽く会釈しながら暁はそう答えたが、益々何かが心に引っかかる。どういう事なのか?那由他の元に戻ってはならないような、そんな響きを感じた。
そもそも鬼に纏わり付かれて困っていたのは暁なのではないのか?何故先程の神職に助けを求めなかったのだろう?それどころか、那由他と仲間だとばれないように言い訳までして、不安な思いをするなど。暁はいつの間にか自分が那由他の仲間だと気付かぬ内に認めてしまっていたのだ。そしてその企てる何かの片棒まで担いでしまった。今ならまだ間に合うかもしれない。鳥居の外へ向かいつつ、引き返そうかと後ろ髪を引かれ、迷いながら遅々とした歩みを進めるうちに、結局暁は朱塗りの鳥居を潜って外に出てしまった。ぼんやりと考えに耽る暁の前に赤や黄に染まった木々の間から融けだすように、同じような色合いの錦に身を包んだ那由他が現れた。
「ご苦労だったな。清麻呂には会えたか?」
ハッと我に返り、暁は声の主に目をやった。
「いなかったわ。何が『ここに違いない』よ。誰もそんな人知らなかったわよ。」
「そうか。それで伝言は伝えたんだろうな?」
「ええ。臨元斎というお爺さんに言ったら返事が返ってきたわよ。『ここに清麻呂はいない』ということと、『夜一壺天に会うような度胸者もいない』そうよ。」
「へえ。その臨元斎ってのはどんな奴だった?」
「どんなって…小奇麗な身形で、優しそうだったけど。毛は薄めで痩せてたわ。」
去り際に臨元斎に言われた事を那由他に言及しようか迷ったが言葉にならないうちに那由他の方が口を開いた。
「おそらくそいつが清麻呂だ。大方齢をくって呼び名を変え、もう昔の自分は捨てたつもりになってるんだろう。」
そう言い終えるか終わらないかという時、急に那由他は風に乗った様に高く舞上がった。
「え…?」
暁は一瞬で消えた那由他の行方を目で追った。ザザザーっと真っ赤に色づいた椛の枝葉を揺らしながら、那由他が少し離れた木の根元に舞い降りた。そこには木の陰からこちらを窺う巫女の姿があった。暁を案内してくれた巫女だ。どうやら暁の後を付けて来たらしい。
目の前にいきなり降り立った那由他を巫女が驚愕の目で見つめる。巫女に向かって那由他の手が伸びる。
「那由他!」
名を叫んで駆け寄ろうとする暁を一瞥すると、那由他は片方の掌を暁に向け、制止するような仕草を取った。すると暁は自分の意志とは関係なくその場に釘付けにされた。金縛りというのだろうか?瞬き一つできなくなって、駆け出そうとする体勢のまま固まってしまったのだ。その間にも那由他は伸ばした手を巫女の体にまわす。叫び声を上げようと開かれた巫女の口は那由他の口で塞がれた。全てはほんの一瞬だった。
恐怖に怯えた眼差しで那由他を見ていた巫女は抱きすくめられた当初は抵抗の素振りを見せたのだが、那由他に魂を喰われてしまったのか、すぐに力なく那由他の腕に身を任せ、目を閉じていた。
人の目の前で人を喰らうなど、無神経にも程がある。と動けない苛立ちに更なる怒りが輪を掛ける。心臓がもやもやした思いで疼いた。一面の紅葉、巫女の白い着物と緋袴、極彩色の着物に黄金色の髪の那由他。唇を重ねている二人の姿は、鬼が人を喰っているという様には見えず、まるで本物の恋人同士か何かの様に自然で美しかった。そしてそれを目の当たりにする暁の心には嫉妬とも焦燥とも憧憬ともとれる何とも言えない思いが渦巻いた。
那由他が腕を緩めた。巫女は倒れこみはしなかった。代わりに閉じていた目をゆっくり開くと、うっとりとした表情で那由他を見詰める。それを見る暁の胸には益々心臓を圧迫するような重い気持ちが圧し掛かった。
那由他は優しい手つきで巫女の髪に触れながら、その耳元に何やら囁いた。巫女はこくんと頷くと静かに神社の方へと戻って行った。
巫女の後姿を見送った那由他はニヤッと悪戯っぽい笑みを浮かべながら暁の方を振り返った。暁と那由他の目が合った瞬間、暁の体は自由を取り戻した。体が固まるに任せていた暁は急に放り出されたようになり、ガクッとよろけた。
「ご苦労だったな。お陰でうまく引っかかってくれたよ。」
「一体何をしたの?」
「ああ?さっきの女のことか?」
巫女以外にも、暁に対しても、そして暁を神社に使わして伝言を届けさせた真意も、色々と聞きたい事はあったが取りあえず頷くと、那由他は言葉を続けた。
「魂を半分喰ったんだ。魂の一部を奪われた人間は奪った者の言いなりになる。便利だろ?」
「あの人に何をさせる気?」
「ちょっとした雑用を頼んだ。これで清麻呂も出てくるかもな。さっき言ってた爺が清麻呂かどうか確かめられるぞ。」
「一体清麻呂って誰なの?それに一壺天も。那由他に言われた通り『一壺天』からの伝言だって言ったらすごく怪しまれたみたいで無事に帰れるかすごく不安だったんだから!」
那由他はニヤニヤしながら素直に答えようか暁をからかおうか迷っている様子だったので、これ以降那由他が何を言おうが素直に信じられない気がした。
「『一壺天』は昔の俺の名だ。」
『やっぱり。』疑わしいとは思いつつもそこの部分は辻褄が合うので信じられた。だが、昔のとはどういう事なのだろう?清麻呂も名を変えたというのなら、昔二人の間に何があったというのだろうか?
那由他は話を続けた。
「清麻呂はその『一壺天』を切った男だ。」
「え?切られたの?」
それで一度死んだのか?だから『昔の』なのだろうか?
「ああ。それで一壺天は二人に分かれたんだ。俺と、俺の片割れとに。」
切った結果が鬼を滅ぼすどころか鬼の数を倍にしてしまったとは。清麻呂もさぞ不本意だった事だろう。もしかするとその為に何らかの事情で名を変えなくてはならなくなったのだろうか?
「そのもう一人の片割れはどうしてるの?」
「どっかそこら辺で好き勝手に暴れてるよ。あっちは派手な事が好きだからな。」
那由他の派手な衣を見ながら暁は内心『同じじゃない。』と思っていた。
今まで知らなかった那由他の過去を垣間見た事で、暁はこれまでよりも那由他に近付いた気がして、先程の巫女の件で引きずっていた胸のモヤモヤした気持ちが少し晴れてきた。
「で、自分を切った清麻呂さんにもう一度会って何をする気?」
「さあ?どうしようかな?懐かしい奴に久々に会うんだ。昔話でもしながら一杯やろうか?」
いくらなんでもそれは無いだろうと思いつつも、那由他なら本当に自分を切った男相手に酒盛りもやりかねないとも思えた。
「それならわざわざ私が呼びに行かなくても自分で会いに行けば良かったじゃない。」
何故こんな回りくどい方法を取るのか、いつもの那由他らしくなくて不思議だった。
那由他は少し不貞腐れたような顔をして言った。
「俺はあの結界の中に入れないんだ。あの鳥居から向こうへは行けない。」
以外だった。暁が何の気なしに通り過ぎていたところに那由他が入れない様な結界があることと、そんな事実を那由他があっさりと話した事の両方に暁は驚いた。だが、同時に不安が胸を過ぎる。そんな結界の中にいる清麻呂をわざわざ呼び出してまで何をしようとしているのか?少なくとも昔話などではないだろう。何か厄介な事をしようとしているなら、暁はその一端を担ってしまったのではないのだろうか?自分が手伝ってしまったが故にとんでもない事が起こるのは嫌だった。先程の巫女にしても、既に一人の犠牲者を出してしまったのではないだろうか?その事に暁の胸が痛んだ。
二人は話しながら秋色に彩られた森をぶらぶら歩いていた。そしていつの間にか神社の鳥居近くまで戻っていた。
程なくして例の巫女が何かの包みを抱えて鳥居の向こうの石段を下りてくるのが見えた。
「お前はそこで大人しく黙って見てろ。」
那由他は暁にそう告げると、自らは鳥居の近くまで巫女を出迎えに行った。
巫女は抱えていた細長い包みを那由他に手渡した。
「魂讃星は?」
と那由他が巫女に訊く。
巫女が首を横に振った。
「まぁいいか。これだけでも十分な収穫だ。よくやった。」
そう言いながら那由他が巫女を腕に抱きながら唇を重ねる。
『またあんな事を!』木の陰から二人を見ていた暁はむしゃくしゃして飛び出して行きたい衝動に駆られたが、あんなところに出て行って何をしようと言うのか?二人を引き離すのか?何の為に?巫女が那由他に喰い殺されるのから守る為か?躊躇する暁は今度は金縛りをかけられている訳でもないのに同じように固まって動けなかった。その間にも巫女は那由他の腕の中でぐったりした。暁は那由他が人を喰い殺す現場を初めて目にした。自分も二度程喰われかけた筈なのだが、苦しくてすぐに意識が遠のきあまりよく覚えていない。あの巫女もそうだったのだろうか?那由他は力を失った巫女をそっとすぐ側の楓の根元に横たえた。眠っているかのような安らかな表情だった。
暁の中で『鬼が人を喰い殺す』という行為が、今まで考えていた恐ろしくて醜悪な事から、何やら神聖な儀式の様なものに変わっていた。
那由他は巫女の持ってきた包みを開いた。美しい錦の布の中から、刃が七又に分かれた剣らしき物が現れた。まるで木の幹から枝が七本伸びているような、不思議な形だった。
那由他がその剣の柄に手を掛けようとしたその瞬間、バチッと雷の様な光が柄から迸った。
「痛っ!」
那由他が剣を取り落とした。布越しに剣を持っていた左手で引っ込めた右手を庇うように包み込む。バサッと剣が包み布ごと降り積もった落ち葉の上に落ちた。
「『伊邪七岐』など盗んでどうするつもりだ?」
いつの間にかそこには臨元斎と名乗った老人が現れていた。
「久しいな、清麻呂。あんまり老けたんで誰だか判らない位だ。こんな山奥にこそこそ隠れて、そんなに俺が怖かったのか?」
「そっちこそ。切られた恐怖で色が抜けたか?一壺天。それに随分と大人しくなったではないか。こんな回りくどい方法とるなどお主らしくもない。てっきり他の何者かが一壺天を騙って何か企んでおるのかと思ったわ。」
「色々と事情があってね。それよりお前に聞きたい事がある。」
「こちらもお主に聞きたい事がある。一の姫をあんなにしたのはお主か?」
「ああ。俺達だ。あいつの腹を借りて新しい体を作り直した。腹から出ようとしたが大きくなり過ぎていて普通に生まれることができなかった。もがいている間にいつの間にか臍の尾を通してあいつの魂を喰ってしまっていてな。仕方なく腹を破って外に出たんだ。まぁ、あいつとしては本望だったから良いんじゃないのか?安らかな死に顔だったろ?」
「ああ。恐ろしいほどにな。それにしても俺達とはどういうことだ?」
「お前に切ってもらったお陰で二人に分かれたんだよ。俺と、もう一方の片割れとに。」
「道理で以前と違うと思ったわい。何を企んでいるのかと思ったがそれが今のお主の実力と言う訳か。ならば今度こそ切り殺せるかな?」
「試してみるか?もう一度『伊邪七岐』で。まぁ、また数が増えるだけだろうがな。」
「それでも一人ひとりがそれだけ弱くなってくれればまだ救いもあるというもの。」
「けど、戻ろうと思えば何時でも戻れるんだぞ。」
「なら何故戻らん?」
「一度戻るとまた二人に分かれられるか分からないからな。今はこの方が楽しいからこうしてるだけだ。」
「なるほどな。ではわしがいくら伊邪七岐を振るったところで何の意味も無い訳か。お主らを楽しませるだけならもう伊邪七岐など振るうまい。して、聞きたい事とは?」
「魂讃星はどこだ?」
「何の事かな?」
「一壺天が首から下げてた鏡だ。」
「ああ、あれならわしがその伊邪七岐でもって砕いてやったわ。」
「こんな物で砕けたか?」
「何とかな。」
「馬鹿な事するなぁ。あれがあれば痛い目に会わずに済んだのに。ところでこいつだが、どうすれば使いこなせる?」
「それはおいそれとは使いこなせんよ。『明き清き直き』心を持つ、選ばれし者のみが揮える神聖な剣だ。それ相応の修行が必要じゃな。」
「じゃあお前以外に使える奴はいないのか?」
「さあな。今のわしにももう使いこなせるかどうか。」
「仕方ないなぁ。それじゃぁお前を喰うしかなさそうだな。」
「わしを喰ってどうする?そんなにその剣が使いたいのか?それを使って今度は何をする気だ?」
「別に大した目的がある訳じゃない。ただ、これが使えれば一壺天に戻ってもまた好きな時に二人以上に分かれる事ができるだろ?」
「全く何を考えておるのやら。わしを喰ったとてお主にその剣が使えるとは限らんぞ。それにわしとて大人しく喰われてやる気はない。」
「それでもお前は俺に喰われに来た。要はあいつの魂の側にいたいんだろう?例え俺に喰われる事になったとしても。」
「全てお見通しという訳か。」
「今までこそこそ隠れてた奴がもう何時死んでもおかしくない齢になって漸くのこのこ出てきたんだ。他に考えられるか?確かにあいつは女としては最高だった。数百年生きた中であれだけの女はあいつだけだ。多少不満があるとすれば骨の髄まで一壺天に惚れ込んでいたことくらいかな。何をやっても喜ぶから甚振り甲斐がなかった。」
「それでも姫をなかなか喰わなかったのは一壺天も相当姫を気に入っていたという事なんじゃろう?」
「まぁ面白い女だったからな。結局は喰っちまったが。」
「惨いことを…。」
「お前はあいつを全く理解できてない。あのまま生き長らえて老い衰える事の方が本人にとっては余程耐え難い苦痛だって事が分かってないなら、お前にあいつを追う資格なぞない。」
那由他の容赦のない言葉に臨元斎は傷付いた様な悲しい目をした。
暁は完全に蚊帳の外で、二人から忘れ去られている様だった。暁自身、何がなんだか分からない昔の話に口を出すこともできず、ただ二人の会話を耳を欹てて訊いていた。ただ頭を占めるのは『一の姫』の事。その為、二人の会話が危うい方向へと向かっていることにあまり注意を払えなかった。おそらく那由他が萎びた老人の口を吸うことなど考えられなかったからだろう。
「お前には借りがある。何か言い残す事はあるか?まぁ、お前を喰えばお前の考えている事も全て俺のものになるんだが。」
「わしを喰うのは構わんが、一つ頼みがある。最後に一目、一の姫の姿を見たい。」
「気の毒だが無理だな。俺はあいつの魂を半分しか持ってないから姿を取るには足りないんだ。片割れを呼び寄せて一壺天に戻れば見せてやれるんだがな。そこまでしてでも見たいか?」
「一壺天か…。わしの我儘のために奴をこの世に呼び戻すのは忍びない。諦めるしかないという事か。」
「俺はどっちでもいいんだぞ。どうせお前を喰ってこいつが使えるようになれば一壺天に戻った後もいつでもまた分かれられるんだ。さっきも言ったが一壺天には戻ろうと思えばいつだって戻れるんだから。」
「一壺天を切った事はわしが生涯で唯一成し遂げた事。それをむざむざ死に際に無駄にはしたくない。」
「そうか。じゃあ覚悟はいいな?」
そういい終わるか終わらないうちに、臨元斎の返事など元より待つまでも無く、那由他の手がか細い老人の胸元に伸びた。左手が老人の骨ばった肩を押さえる。右手の鋭い突きが真っ白な神職の衣装を、柔らかい鳩尾を突き破る。
赤黒く染まった拳が何かを抉り出し、那由他の無表情な口元へと運んだ。那由他は握っていた塊を口に押し込み、一息に飲み下した。一陣の風が吹いた。真っ赤に染まった臨元斎の脱殻が支えを失ってドサリと崩れ落ちた。
暁はただ、叫ぶ事も忘れて呆然とその惨劇を見ていた。
那由他はしばし地に落ちた遺骸を見下ろしながら、何かを待っている様子だった。だが、何もおこらなった。
「だからこの喰い方は嫌なんだ。」
ボソッと那由他が呟いた。真っ赤に染まった手から血の滴りを振り払いながら。
西に傾いた秋の日が茜色の光で凄惨たる景色を照らし出す。天と地とを繋ぐ色とりどりの赤。朱塗りの鳥居、血に染まった臨元斎。そこから流れ出る朱が落ち葉の紅に塗り重なる。日に透ける色づいた木々の葉、降り積もった紅葉、巫女の緋袴。それらを見下ろす黄金色の鬼。全てが夕日を受けて赤みを帯び、二つの死体と一人の鬼を含む痛々しい筈の光景は、不思議な一体感に包まれ、神々しい程の美しさを纏っていた。
二人の命が奪われた現場を美しいと感じるなど、暁は自らの感性に空恐ろしさを覚えつつも、その感覚を否定し切る事ができなかった。それはあまりにも現実の死からかけ離れている様で、まるで夢か幻でも見ているような心持だった。
臨元斎の死体を見下ろす那由他は、どこか物寂しげで、残念そうな表情を浮かべていた。勝ち誇った様子も、いつも暁をからかう時に見せる悪戯っぽい笑みも、そこには無かった。
何かを待つように立ち尽くす那由他。それをただ呆然と見詰める暁。
『大人しく喰われてやる気はない。』そう言っていたのに、何の抵抗もなく清麻呂の魂は那由他の中に飲み込まれていった。
既に清麻呂の魂は、それ程までに衰えていたというのか?敢えて喰らう必要などなかったのかも知れない。何の抵抗も感じない。なのに完全には取り込めていない。那由他には清麻呂が何を考えていたのかがまだ分からない。魂を完全に取り込めていない証拠だった。
「清麻呂の奴、耄碌し切って何の力も残ってなかったのか…?」
妙な後味の悪さと一抹の不安を抱えつつ、那由他が地に落ちたままの剣に手を伸ばした。
バチッ!
「うっ!」
剣の柄に那由他の指が触れるか触れないかのところで、また柄から小さな雷が迸り、那由他を弾き返した。
「くそ!役立たずめ!」
苦痛に顔を顰めながら、那由他が吐き捨てるように言った。
「暁、お前これ持ってみろ。」
思い出したように那由他が暁を振り返って言った。
「え?無理よ、そんな痛そうなの。」
「人なら大丈夫だ。こいつは鬼が嫌いらしいから、さっきみたいなのは鬼にだけだ。」
「本当に?」
恐る恐る暁が剣に近付く。そっと手を伸ばしてみる。ビクビクしながら近付けた手は、果たして雷に弾き返される事は無かった。絹の紐を巻きつけた柄に手を掛ける。滑らかな手触り。
剣を拾い上げた暁に向かって那由他が更なる指示を出す。
「そいつを両手で構えて気を送ってみろ。」
「気?どうやって送るの?」
「兎に角しっかり構えてみろ。」
暁が剣を両手で握った。結構重い。両手でも持ち上げるのは困難で、切っ先は下を向いたままだ。
「何だ?その屁っ放り腰は。気合を込めてしっかり構えろ。」
「これでもしっかりやってるつもりよ!」
「全く役たたずめ!こうするんだ。」
言いながら那由他は暁を後ろから包み込むように手を添えてきた。暁は妙な緊張を感じて体が強張った。剣を握る暁の手を那由他の大きな右手が包み込む。暁の背に那由他の胸が覆いかぶさる様に重なった。
「膝を少し曲げて腰を落とせ。重心を安定させるんだ。丹田に力を入れて剣の切っ先向かって気合を込めろ。」
「え?丹田?」
「臍下丹田。下腹だ。目の前の敵を切るつもりで気迫を持ってみろ。」
暁に指示を出しながら、那由他はいらいらとじれったく感じている様子で、暁に指示した事を自らが実行してしまったようだ。
暁の手に那由他の手から温もりが伝わる。何かぞわぞわした感覚が暁の手の中を流れた。剣の柄と、暁の手と、那由他の手が不思議な一体感を持って繋がった。七つに分かれた剣の刃の周りにきらきらと細い光が滲み出した。それはまるで木の枝から瑞々しい新芽が芽吹いているようにも見えた。その細い光が次第に繋がり、剣の先端に向かって光の帯が生まれていく。金属の剣を軸に、その周りを光の刃が覆った様な形だ。どうやって切るのか不思議だった七又の剣が、今、一枚の光の刃を纏う剣となった。
「なんだ、やればできるじゃないか。」
そう言って那由他が手を離すと、剣を覆っていた光の刃はするすると吸い込まれるように剣の中に戻って行った。
後にはまた例の七又の剣の刀身が残った。暁は呆然とそれを見詰めながら言った。
「今のって私じゃなくて那由他が出したんじゃない?」
「もう一回お前一人でやってみろ。」
「こう?」
暁は両手で力を込めて剣を握った。しかし刃先を辛うじて地に着かない程度に浮かすのが精一杯で持ち上げる事はできず、光の刃など現れる兆しも無かった。
「駄目だな。何度言ったら分かるんだ?こうだ。」
再び那由他が手を重ねる。先程と同じ様に生まれる一体感。刃先へと光が伸びた。
「やっぱり那由他じゃないとだめなんじゃないの?」
「今の感覚を覚えとけ。一人でできるようにするんだ。」
「一体何の為に?」
「いつか何かの役に立つかも知れないだろ?」
「一壺天に戻った後、私に切らせる気?」
「まぁそれも悪くないな。」
「私がこの剣を使えるなら、那由他がさっきの人を喰い殺す必要なんて無かったんじゃないの?」
「あいつがそれを望んだから。」
「え?どういう事?」
「お前には関係ない。」
突き放された気がした。二人の過去を知らない暁には確かに関係のないことなのだろう。だが、今この剣を使えと言うならば、理由や事情を説明して欲しかった。だが、暁にはそれ以上那由他を追求する事ができなかった。一壺天のこと、一の姫のこと、聞きたくてたまらないのに那由他の口から真実が告げられるのが怖かった。暁の望む内容ではないことを那由他から聞かされるのが怖かったから。




