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もう一人の鬼

「はぁ…。」

 正志朗は深い溜息をついた。

 考えるべき事は山程あるというのに、心を占めるのは奥方の百合ゆりの事ばかりだった。ふと気付くと何かに付けて色々な考えが百合へと繋がって行く。折角再会した姉との会話の中で一番心に残っているのが『あの夫婦は上手くいってない』という百合と成頼なりよりに関する事というのは自分でも情けなくなる程だ。   

 あれ以来行方の知れない姉の事も気になる。地下牢の事も聞きそびれたまま、その後牢に近付く機会もない。ただ時だけがむなしく過ぎていく中、百合に対する思いだけが着実に育っていた。

 何度喉元まで出かかった言葉を飲み込んだことだろう。彼女を思う気持ちも、自分が彼女に釣り合う血筋である事を認めて貰いたいが為に出自を明かそうとする事も。口にすれば命に関わる事ばかりなのだ。やっとここまで辿り着いた努力も年月も、全てを無駄にしてしまいかねない。

 時折百合が見せる切ないとも悲しいとも取れる表情に惑わされ、もしかしたら彼女が自分の手を取ってくれるかも知れないなどという淡い期待に踊らされてはならないのだ。

 やっとここまで来たのだ。今は耐えて、必ず成頼を廃し、百合を含めてこの高峯を取り戻す。本来であれば自分が手に入れている筈だった全てを取り戻すのだと、決意を新たにすることしか正志朗にはできなかった。


 「はぁ…。」

 深い深い溜息。今日これで一体何度目だろう?

 あの満月の夜以来、百合の心には鬼が巣食ってしまったようだ。薄暗がりで、いきなり抱きすくめられ、唇を奪われた。こんな屈辱はないと言うのに、あの苦しい程の口づけを思い出す。あの時、百合の魂を持っていかれたのではないかとさえ疑う程の強烈な印象。姿さえまともに見てはいない。息苦しさに薄れゆく意識の中で、ただ目に焼き付いたのは金色の瞳。それすらも、闇夜に浮かぶ望月もちづきを見誤ったのではないかと思うようなおぼろげな記憶。

 あの時、隣の部屋で控えていた楓が物音に気付かなければ、あのまま鬼に喰い殺されていたのだろうか?

 その方が良かったとさえ思える。こんな苦しい思いを引きずって生き永らえるくらいなら、あの鬼になら喰い殺されたかったと。

 あの夜、妙な物音に気付いた楓が百合の部屋の襖を開けると、百合が見知らぬ男に抱かれてぐったりしていた。楓が大声で助けを呼び、警備の侍達が駆けつける中、その者は百合をその場に捨て置き、縁側から庭へと逃げたのだ。その後、城中が騒然とするなか、成頼の部屋に鬼がでて、暁を攫っていった。その事実も百合の心を逆撫でる。

『何故私ではなくよりによってあんな小娘を…?』蝶よ花よと育てられ、『みやこにもこれ程の美姫はおるまい』と言われて続けてきた百合が、何故あんな山奥から出てきた小娘などに嫉妬心を抱かなければならないのか?

 百合という妻がいながら、わざわざ暁を牢から助け出した上、自室に連れ込んで人払いまでしていた成頼が何をしようとしていたか位分からない程百合も馬鹿ではない。が、そんな事よりも百合の心を射抜いていったあの金色の瞳の主さえもが百合ではなくあの娘を連れ去った事こそが百合を嫉妬に駆り立てる。

 成頼は、暁を連れ去ったのは髪も瞳も金色の鬼だったと言っていた。

 『きっと楓が来たから私を諦めたのだ。』とも思ったが、あの小娘はわざわざ成頼のすぐ側から連れ去った事を考えると釈然としない。『今頃あんな小娘、もてあそばれて喰い殺されているに違いない。』だから、連れ去られたのが百合自身でなくて良かったのだと自分を納得させようとするのだが、心の奥底に『玩ばれて喰い殺されてもいい』と思っている自分がいるのに気付いていた。次に会う時が自身の死を意味するとしても、もう一度会いたい。今一度、あの腕に抱かれたいと思う心をどうしても抑える事ができなかった。だが、どうすれば会えるというのか?向こうが出向いてくるのを待つ以外に成す術は無い。

 「はぁ…。」

 心の中に降り積もる思いを溜息で吐き出す事しか百合にできる事は無かった。

 外から虫の音が聞こえる。今年は殊更夏が短かった。夜ともなると既に秋の気配だ。縁側の障子を開け放ち、月に思い人を重ねつつ、また一つ切ない溜息を洩らす。

 そんな百合をあざ笑うかの様に月に雲が掛かり始めた。闇が深さを増す中、突然何者かの気配。

 「半分喰い残して放っておくとは迷惑な話だ。」

 闇の中に黒い影。聞き覚えのある声。百合はハッとした。ずっと待ち焦がれていた者にやっと会えた。一瞬そう思ったのに、何か違和感を覚える。だが、悲鳴を上げて助けを呼ぶ気にはならなかった。

 「あの時の者か?」

 思い切って尋ねた。高鳴る胸の鼓動。恋焦がれていた者の様な気がする。なのに恐ろしい気迫。駆け寄りたいのに近づけない。『やはり楓の言った通り鬼だったのか…?』身動き取れないまま百合が鬼を見詰める。暗がりの中、目を凝らして見えるのは闇に溶け込む黒い髪と長く伸びた角。漆黒の瞳。あの時目に焼き付いたのは金色の瞳だった。『別の鬼なのか?』

 「あいつは今忙しくてここには来られない。なのにお前があんまりうるさく呼ぶから代わりに迎えに来てやった。」

 鬼の黒い瞳が百合の目を見詰める。一瞬、恐怖に身じろぎしたが、すぐに全身の力が抜け、意識が薄らいでいく。鬼が百合に向けて手をかざす。風が吹き抜けた。バタン!と百合の体は力なくその場に崩れ落ちた。バサッと黒い衣をひるがえし、鬼は闇夜に消えた。

 「奥方様、如何いかがなされました?」

物音に気付いた楓が襖を開けた。楓の目に飛び込んで来たのは、床に倒れている百合と、衣を翻し、一瞬の内に消えた大きく真っ黒な影。

 「奥方様!」

 楓が百合に駆け寄った。助け起こそうとするが既に息がない。

 「誰か!曲者じゃ!奥方様が!奥方様が…!」

 楓の悲痛な叫びが夜の城に響き渡った。


 

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