第百九十二話 決着
「――報告! 後方より敵影! 織田軍の追手と思われます! 此の儘では半刻もせずに追いつかれます!」
徳川軍本陣から撤退し、一先ず居城である岡崎城に向かおうとしていた徳川軍大将徳川家康とその嫡男信康・本多正信、そして南光坊天海の四名と、彼等が率いる僅かな手勢は、既に織田軍に追いつかれようとしていた。
そして、彼等の疲労は頂点に達しようとしていた。
ただでさえ織田から離反してからは息を吐く余裕も無く、情報を得られず、外部からの協力も得られず、”朝敵”とされ、敵対し戦を始めたかと思えば瞬く間に窮地に追いやられ、武勇名高き数々の三河武士達がその命を減らしていった。
そして、こうして織田軍が追いついて来たと言う事は、本陣に残って家康の影武者となって抵抗を続けていた忠次はつまり――
「……最早ここ……まで……か」
ここにきて、家康は完全に悟る。
最早自分達に勝つ術はないのだと。
思わず、弱気な呟きが口から漏れる。
「――父上!?」
「――殿!!」
家康の呟きに、信康が驚き、正信が嗜める様な声を上げる。
大将の弱気な態度に、兵士達の間にも動揺が走り、撤退する速度が更に落ちる。
「……天海殿」
家康が天海――明智光秀に顔を向け、深く深く頭を下げた。
「……貴方の志、我等が志、それを果たせぬ事、誠に申し訳ない。貴殿に助力して頂いたというのに……」
「家康殿……」
涙を流して謝罪を繰り返す家康に、天海は掛ける言葉が見つからない。
「……天海殿、我等徳川は最早これまででしょう。……ですが、貴方の正体は此方にとって秘中の秘。織田方には知られてはおりませぬでしょうし、我等は例え死のうとも貴殿の正体を口には致しませぬ」
家康の言う通り、織田・上杉連合軍で『南光坊天海の正体が明智光秀である』という事を知る者はいない。
何せ『明智光秀は本能寺の乱の後、落ち武者狩りにあって死んだ』という話を連合軍側は事実として認識しているのだ。
彼の正体を知っているのは、連合軍側には二名しかいない。
だが、それが命取りである事を、彼等は知らない。
まさか未来を――史実の流れや武将達の逸話を知っている人間がやって来ているなど、彼等には想像しようも無い。
「……天海殿、今は逃げ、暫くは身を隠して下され。……耐え忍べば、やがてはまた機会も巡ってきましょう」
「私に……逃げろと申されるか」
天海は、家康と運命を供にする事に決めていた。
だが、家康は自分一人で逃げろと言う。
そんな事は認められなかった。
「はい。国内にはまだ戦いたいと言う剛毅な者もおります。その者等に天海殿をお守りする様に命じておきましょうぞ。……天海殿、どうか我等が意思を、志を――」
暫くの沈黙の後、天海は頷いた。
それを見て、家康はニコリと心の底から安堵した様な笑みを浮かべた。
「ならば行かれよ南光坊天海殿。……徳川の戦に余人は必要無し。……お元気で」
「……えぇ」
天海は家康から数人の家臣を護衛として付けられると、追手が到着する前に姿を隠した。
それを見送り、家康は大きく息を吐く。
「……信康・正信。お前達を巻き込んですまぬ」
「何を言いますか父上。私は父上について行きますぞ」
「……最期まで共に」
信康と正信の返答に儚げに笑って瞑目し、そして真っすぐ追手が来る方角を睨む。
どの様な結末になろうと、己達が掲げたモノが間違いなどではないと信じて。
【視点:須藤惣兵衛元直】
俺と左近殿率いる織田軍遊撃部隊は家康率いる徳川本陣に到達しようとしていた。
ただでさえ酒井忠次と共に本陣に残り、更に足止めとして配置されていた家康直下の兵はその数を大きく減らし、最早俺達だけでも対応出来る程の数となっていた。
故に、一切策を弄する事無く、ただ純粋に突撃を行う。
俺も刀を振り、敵兵を殺し、大将である家康の姿を探すと、直ぐに見つかった。
やはり家康も狭いとは言え一国の主だ。
纏う雰囲気が周囲のそれと違う。
俺は家康を守ろうとする敵兵を斬り伏せながら左近殿と共に家康の目の前までやってくる。
「……家康公ですな。某等は須藤元直と島左近。……御身、捕縛させて頂く」
左近殿が兵に目配せをし、兵達が家康を縄で縛る。
その光景を見たまだ生きている信康や正信以下徳川の兵士達は武器を降ろしていく。
「……ふぅ。やあっと終わったか」
次々と縄を掛けられていく徳川軍の将兵を見ていると、一人いる筈の人物がいない事に気付いた。
「……南光坊天海の奴。何処行った?」




