第十七話 今川からの使者
今回短めです! 申し訳無い!
1555年 五月 尾張国 清洲城
それから数日後。
俺は城内の一室で奇妙丸様、柊殿、勝三を相手に兵法を教えていた。
現在教えているのは孫子。
中国における兵法の代表古典である七つの兵法書”武経七書”の内の一つだ。
”武経七書”ってのは”孫子”、”呉子”、”尉繚子”、”六韜”、”三略”、”司馬法”、”李衛公問対”の七つからなるのだが、詳しくは省くとしよう。
”孫子”では、それまで天運によって左右すると言われていた戦争の勝敗を人為によるものとして、分析、研究して纏め、勝利を得る為の指針を理論化しており、全十三篇からなる。
この時代では既に一般的に読まれているのは魏呉蜀の三国時代の魏王曹孟徳が編纂した”魏武注孫子”である。
さて、”孫子”ってのは基本的には非好戦的で現実主義、主導権を握る事を重視したものだ。
有名なのは『兵は拙速なるを貴ぶ』と言う文だが、実際にはそんな文章は無い。
あるのは『兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧妙なるを賭けざるなり』だ。
『多少拙い手を使おうと早ければ上手くいくことはあるが、長期戦になって巧く戦を進めた例は無い』と言う意味である。
孫子で言いたいのは、簡単に言えば『戦わずに勝つのが一番良いよね』って事。
全く以て至言だと思うね。
ま、この時代――つまりは日本の戦国時代においてって意味だ――では六韜三略の方が重要だとされてるんだが。
奇妙丸様は真面目に、勝三は寝そうになりながら、柊殿は”孫子”は既に覚えたらしく、別の解釈の本を読んでもらっていたのだが、
「――須藤殿」
信長の小姓が急いだ様子で声を掛けてきた。
「……どうなされた?」
「殿がお呼びです。急ぎ評定の場へ」
はて?
信長が俺を呼んでる?
何かした覚えはないんだが。
ま、良いか。
「……今日は此処までです。用事が終わり次第武芸の鍛錬に移りますので、用意しておいて下さい」
そう言い残して、小姓に連れられて信長のもとへと向かった。
「殿、須藤殿をお連れしました」
「……おう、入れ」
小姓の案内で、俺は上段の間に案内され、信長の左前に座らされた。
見れば丹羽殿、柴田殿、三左殿、織田の家老筆頭とも言える将達が揃っていた。
「……此度は一体何用で?」
不思議に思って信長に尋ねると、信長はニヤリと心底愉しそうな笑みを浮かべ、
「面白い事があったのよ。……先程先触れが来てな。今川の現当主殿からの使者が当主殿の書状を携えて来るらしい」
…………はい? 何ですと?
今川の現当主って……今川氏真だよな?
後世においては贅沢に溺れて国を滅ぼした愚かな国主として描かれる事が多い人物だけど……この時期にすぐに使者を送ってくるって行動が随分早いな。
……何が目的なんだ?
史実において今川が織田に使者を派遣したなんて話は無かったと思うんだが……。
「しかも使者として来るのはあの音に聞く太原雪斎よ」
「――ほぅ!」
生きとったんかいワレェ!?
いや、情報としては国を巡ってた時に生きてる事は知ってたけども。
まさかここでその名前が出てくるとは!
後世においては今川義元の右腕として今川家の発展に貢献したことから”黒衣の宰相”やら”軍師”等と高い評価を受けている人物である。
「どういった理由で雪斎が使者として参ったのか、気にならないか?」
そう言う信長の顔には好奇心からか少年の様な笑顔が浮かんでいた。
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