第百七十話 全ては整った
1566年 三河 岡崎城
新年になり早数ヵ月、徳川は選択しようとしていた。
最早織田と戦う事を避ける事など出来ようも無く、徳川家家中は来る織田との戦の準備を終えていた。
その殆どが武闘派であり、尚且つ家康に狂信的なまでの忠誠を誓う家臣達が来る戦に向けて気勢を上げる中、家康が厚い信頼を置く徳川家の頭脳ある本多正信は内心とても焦っていた。
(……忍達は任務に失敗。各地に潜む反織田勢力にも協力を取り付ける事も出来ず、しかも陸路も海路も封鎖されて物資を得る事も出来ない。……この武辺者共は今の状態で本気で天下を取れると思っておるのだろうが、現状が見えておらぬ。……物資も援軍も無い状態ではただ飲み込まれるのみ。……考えねばならぬ。徳川が生き残る手段を)
とはいえ、正信とて家康に忠義を尽くす忠臣の一人である。
勿論、正信は反対した。
だが、家康が「織田と敵対する」と決めたならば、その意に沿うだけである。
家康が決心した以降は、家康が弱気になろうともそれを励まし、家康が天下を取れるようにと策を講じていた。
そしてもう一人。
家康の友であり、良き相談役として下座に座る南光坊天海もまた、事態を冷静に見ていた。
だが、彼は一度は織田に敵対し、敗北した人間である。
武者狩りで命を落としかけた自身を助けてくれた家康に対して様々な案を授けた事もあり、彼は家康と共にあると心に決めていた。
故に、彼は一言も言葉を発する事も無く、静観に徹していた。
そして、家臣達を見守っていた家康が口を開く。
その眼には、覚悟を宿していた。
「…………皆、良く聞け。……事ここに至りて、我等は戦支度を終えた。最早後は命を賭し、戦うのみ!」
「「「「――おおおおぉぉぉぉぉっ!!」」」」
家康の言葉に、家臣達が一斉に叫ぶ。
「……正信、先ずは何処を攻めるべきだろうか?」
「はっ! ……されば尾張か信濃、今川領の何れかでしょう。……しかし、今川は織田との同盟によりかつての義元公の代にも劣らぬ――いえ、財力や戦力、状況を考えれば義元公の代以上でしょうか。ならば織田領ではありますが、織田の権威の中枢が京に映った今、兵の数が薄いであろう尾張か、それとも信濃を攻めるべきでしょうな」
「……織田領を攻めねばなるまいか。……いや、私は決めたのだ。天下統一を果たすと! ……ならば織田勢力の中でも更に兵数が手薄であろう信濃を攻めよう」
彼等は知らない。
いや、忍は放っているのだが、織田の忍狩りによって徳川は情報を得る事が出来ずにいた。
それを想定した”軍監衆”によって徳川の知らない内に柴田や滝川・佐久間等の織田の猛将・勇将達が美濃、や尾張に配置されているのだ。
それを知らない徳川は、信濃に攻め入り、思った以上の抵抗を受け、援軍が来るという情報も入った事で信濃から撤退するはめとなった。
京 二条御所
「――殿、失礼致しまするぞ」
二条御所の信長の執務室。
そこに現れたのは、朝廷の元に向かっていた細川与一郎藤孝と近衛前久だった。
そして、彼等が訪れた意味を、信長は理解していた。
「……手前等が来って事は、つまり」
信長が細川藤孝に向けてニヤリと笑みを浮かべ、問う。
それに藤孝も頷き、笑みを浮かべた。
「えぇ。朝廷より『徳川を朝敵として認める』との勅命を頂きました」
藤孝の報告に、信長は一層笑みを濃くする。
「良し! ……なら、漸く始められるな」
「えぇ、いよいよですな」
織田陣営側も、漸く全ての準備が整ったのだった。