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第百六十五話 徳川の窮地

 1565年 三河 岡崎城



「――殿! 殿!」


 南光坊天海こと明智光秀と共に碁を打っていた家康の元に、慌てた様子の家臣が駆け込んできた。


「……どうしたのだ忠次」


 碁を打つのを止め、家康と天海の二人は息を整える家臣――酒井忠次に尋ねる。


「……っ! 長宗我部がっ! 長宗我部が織田に敗れました!」


「――なんと!?」


「……そう、ですか」


 忠次から齎された長宗我部敗北の報に驚く家康と、ただ頷く天海。

 呆然とする家康に代わり、天海が忠次に問う。


「……忠次殿、長宗我部はその後どうなりましたか?」


「はい、どうやら土佐一国の安堵と当主元親の隠居の代わりに織田の傘下となったとの由。当主はまだ若き嫡男である千雄丸となった様ですな」


「……そうですか。……戦支度を尚の事疾く進めねばなりませんね」


 来る対織田及び織田を盟主とする同盟国との戦に向けて、徳川も戦支度を着々と進めていた。

 何しろただでさえ数的にも、立場的にも圧倒的な不利に陥っている徳川である。

 家康は、時折降参した方が良いのではと考えるが、その度に天海含めた家臣達が「諦めてはなりませぬ」と説得していた。


「……家康殿、この三河は周囲を敵に囲まれている以上、陸路での物資の補給は難しいでしょう。武器や鎧、兵糧等、武田の遺臣達を取り込んだ事で兵数も膨らんでおりますから、今まで以上に必要なモノは多い。……西国や畿内方面に潜んでいる反織田勢力と何とか連絡を取り、協力を取り付けねばなりませぬ」


「……だが、織田も九鬼等の水軍を持っておるし、畿内や西国は織田の勢力下ではないか。……それに織田には巨大な忍衆もおる。……長宗我部が織田に降った今、織田の眼は我等徳川にのみ向けられよう。……最早欺けるとは思えぬのだが……」


 家康は、弱気になっていた。

 自分で起こした事ではあるが、これ程の窮地に立たされるのは桶狭間以来と言っても良い。

 いや、それ以上の窮地だろう。

 しかも、敵は強大であり、ほぼ天下を手に入れていると言っても良いだろう。

 一番の問題は朝廷との関係だった。

 織田と朝廷・公家の関係は近衛や細川といった公家や広い人脈を持つ人物によって良好に保たれていた。

 織田がもし、徳川を武田同様朝敵として上申し、それを朝廷が認めてしまえば、味方に付いてくれるであろう反織田勢力の者の中でも協力を躊躇う者も出るだろう。


 言ってしまえば、徳川は既に()()()()()のだ。

 これを引っ繰り返せたとするならば、”奇跡を起こす”しかない。

 だが、家康含め、それに気付いていない。

 ――いや、それを視認しようとしない。


「殿! 殿の目指す世を、我等は見とう御座います! 死んでいった者達も、それを望んでおりましょう!」


 ただ愚直に、『出来る』と信じているのだ。


「……そうだな。……それに報いねばな」


 家康自身は、狡猾な面もあるが、基本的には人が良く、家臣達を大事にする。

 家臣達の声に耳を貸し、家臣達の意志をくみ取り、それを実現しようとする。

 そしてそんな主君を家臣達も慕い、忠誠を誓っていた。

 織田に従軍して参戦した幾度かの戦において、勿論であるが徳川からも死者が出ている。

 その者達が死に際に、家康に言ったのだ。


 どうか天下に太平を――と。

 安寧の世を実現して下され――と。


 皆が言うのだ。

 今にも死にそうになりながらも、家康の手を強く握りしめ、懇願する様に言うのだ。


 徳川の世を――と。


 それに、家康は答えなければと思うのだ。

 例え幼い頃より知る間柄である信長や氏真と敵対しようとも。

 だから彼等は考えもしない。




 自分達こそが、天下泰平の世を遠ざけている一因となっているという事を。




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