第百三十二話 妙覚寺にて
1564年 妙覚寺
突然柊達の目の前に現れた、この島清興と言う名前を、柊は耳にしたことがあった。
確かあれは生まれたばかりの吉千代をあやしながら、須藤と世間話をしていた時。
様々な話をする中で、『大将を補佐する才を持つ将は誰か』という話になった。
夫婦の会話とは言い難いだろうが、如何せん須藤はてんでそのての話題など持ち合わせておらず、柊もまた、須藤より兵法や学術を学んだ身である為、会話が出来てしまうのである。
柊自身は、織田家では半兵衛や官兵衛に加え、丹羽長秀や柴田勝家等、それ以外では今川家当主氏真を支える重臣朝比奈泰朝、武田の四天王を上げた筈だ。
一方、須藤が出した人物の内の一人に、今柊達の目の前にいる”島清興”なる人物の名を上げていた。
元は大和の地で三好や松永と領地等を巡って争っていた筒井家の家臣であったが、同じ筒井家家臣である中坊秀祐領の農民と自身の領の農民による水利の争いの責任を取り、筒井家を辞した。
それ以降の動向は分からなかったが、京にいたらしい。
「若様、この御仁は我が夫、元直も『大将を補佐しうる器有り』と認める御仁に御座います。力をお貸し頂けるなら、心強いかと愚考致します」
「……信用出来るかどうかはわからぬな。……縁とは誰との縁なのだ?」
信重が左近に尋ねる。
左近は懐より文を取り出し、近くにいた柊に渡した。
そして思い出し笑いを浮かべ、
「いやぁ、流石名高き伊賀や甲賀・甲斐の三つ者のいる織田の忍。私のいる場所等お見通しだったらしい。忍が、その須藤惣兵衛殿からの文を渡してくれましてね」
その言葉に、信重や柊は驚く。
「――確認しよう。柊」
「はい」
柊は左近から受け取った文を信重に渡す。
信重は柊から文を受け取ると、それにざっと眼を通す。
『京の守りが薄い今、信長を排したい勢力にとっては好機であり、恐らくそれは実行に移されるだろうから、どうか京に駐留し、織田の窮地を救ってくれないか。信長がいる本能寺に近くには自分の兵を潜ませているが、妙覚寺にいるであろう嫡子、信重様が心配だ。某の持ちうる知識や技術の全てを教えた妻を向かわせるが、窮地にある事に慣れてはいないし、女である事を理由に従わぬ者もいるだろうから心配だ。向かってくれるならば、妙覚寺に向かってくれ。報奨は自分が出来うる事なら何でもしよう』
そう書かれていた。
文章の一番最後に、須藤の押印があるのを見ると、本物だろう。
「――須藤、お前と言う奴は!」
自分達が無茶をするだろうからと、信重に遠慮なく諫言出来る仲にある柊を向かわせ、更には島左近と言う須藤も認める歴戦の猛者をも送ってくれた。
その事に、信重は感謝したし、感動した。
「流石我が師だ。……島左近とやら。この窮地にある我等に手を貸してくれるか?」
信重の問いに、左近は頷いた。
「牢人の身にありますが、私の持つ全てを以て、須藤殿の期待に応えて見せましょう」
「――良し、では軍の指揮をお主に預けよう。須藤が認めたその腕、見せて見よ!」
「承知!」
自信満々な笑みを浮かべて応じる左近に頷き返し、今度は柊を見る。
「――柊、我等がすべき事は『京からの脱出』。――相違ないか?」
「――はい。先ずは細川殿のおられる丹後に向かう様にと。殿を救出しに向かった者達も、丹後に向かう手筈となっております」
信重は柊に頷くと、後ろに控えていた将兵達を振り返る。
「――聞いたか! 我等はこれより京を脱出し、丹後を目指す! 皆、地を這い、泥を啜ってでも生き延びよ! ――では参る!!」
「「「「おおおおおぉぉぉぉぉっ!!」」」」
兵達を鼓舞し、左近や柊と共に先頭を駆ける信重の姿は、紛れもなく信長の血を感じさせ、それが一層将兵達の心を奮わせた。