第百二話 出奔
1562年 備中 須藤隊陣
「……で、どういう事だ?」
”甲斐の虎”武田信玄の死。
それが真実なら、武田の勢力を追い詰める絶好の機会となる。
「――はい。武田信玄の死の確認が取れた訳ではありませぬが、城下にはその様な噂が出回っておりまして」
……ふむ。
こういった場合、『城下の人間の噂』は馬鹿にならない。
将達が口を閉ざそうが、それを又聞きした兵士達全員までが口が堅いとは限らない。
どの時代、どの場所にも喋りたがりはいるものだ。
例えば、一人の兵士が酒の席で酔った勢いで仲間内で話す。
それを聞いた兵士の一人が自分の妻に喋ってしまう。
そして妻が世間話として近所の知り合いに話す。
その様に鼠算式に知る者が増えていく。
「確証はあるのか?」
「どうやら先の戦以降、信玄公の容態が芳しくなかった事は事実の様です。何でも、喀血 (血を吐く事)が多くなっていたらしく、祈祷から薬とあらゆる手段で治療していた様です」
武田信玄は、若い頃から身体が弱く、病気がちだったとされている。
一番有名な死因は”結核”だろう。
結核は当時不治の病であり、祈祷や呪術という眉唾なモノで対処するしかなかった。
武田信玄の侍医だった板坂法印の残した書物には”膈の病”なる言葉が書かれている。
これは胃や食道に食物が停滞してしまい、消化しきれない事を差すらしい。
これを放っておくと、食物が腐り、咳・吐き気・嘔吐等の症状が出始め、詰まっている部分が炎症を起こし、そこが盛り上がる様に膨れてくるのだとか。
更には、”胃がん”やら、暗殺・毒殺説なんてものもあるのだが、今回少なくとも織田軍は手を出していない。
「越後の上杉や北条なんかが暗殺した、とかはないのか?」
「いえ、それは無いかと。両勢力共、情報を収集する役目としての忍は放たれておりますが、殺しの役目を帯びた忍を放った痕跡はありませぬ」
なら、普通に病死……なのか?
「――武田の動きは?」
「はっ! 信玄は『自身の死を三年秘匿せよ』と家臣達に言い残したそうで、跡を継いだ勝頼はそれに従い、葬儀等は執り行われない様ですな」
武田信玄には弟である趙遙軒を筆頭に、幾人もの影武者がいた。
それに信玄を演じさせ、秘匿させるのだろう。
信玄が死んだという確証には乏しいが……。
「――紙と筆を持ってきてくれ。信長に報告し、その指示に従って動くとしよう。それと、甲斐への間者を増やす。伊賀・甲賀両里共、動ける者を放っておけ」
「――はっ!!」
信長への書状を書いた俺はそれを忍に渡し、翌日には”軍監衆”を集めた。
「半兵衛・官兵衛。武田の当主が死んだらしい」
「「――なんと!?」」
両名共、急な報せに眼を見開かんばかりに驚いている。
だが、流石両名とも直ぐに表情を戻し、
「――殿に報告は?」
「既に信長には書状を届けている最中だが、信長の選択によっては、一度中国攻めは中断するかもな。……臨機応変に対応出来る様に仕度しておけ」
「「――御意」」
さて、我等が大将はどうするつもりかね。
その頃 越前 府中
「――待て!! 何処に行く!」
須藤達が毛利に手を焼く間、度々起こる一揆を鎮圧した事で不破光治・佐々成政と共に府中を与えられた前田利家は、慌てた様子で城から出て行く人物に声を掛けた。
「――ァあ?」
振り返った人物は、利家を見ると笑みを浮かべた。
「――っと、叔父貴かぃ」
愛用の槍と、少しばかりのモノを入れた包。
それを軽々と担いだ武者――前田利家の甥である前田慶次郎利益。
「何処に……ってなぁわからねぇよ。当てのない旅さァ。……だが、俺ァ”織田の戦”にゃ飽き飽きしててな」
先の武田との戦、浅井・朝倉攻め。
利益は織田の戦法である”大量の鉄砲を使った戦”を理解はしてても嫌っていた。
「これじゃァ、俺の槍が――武士としての魂が錆びちまう。俺にゃそれが耐えられねェんだ。……叔父貴、織田は恐らく天下を取るんだろうさ。だがな、俺ァそれを支えるよりも”武士としての生き様”に命賭けてぇのさ」
そう言う利益に、利家は苦虫を噛み潰した様な表情を見せ、
「……手前は本当に自由な奴だ。……正直、羨ましいと同時に疎ましいよ。手前程、自由気儘に生きられたらどれ程楽かってな。……俺も、柴田の小父貴も、皆我慢してんだ。……だが、手前はそれが出来ねぇんだな?」
「あァ、そうだ」
「……なら止めねぇよ。勝手に出てきやがれ。殿に――織田の戦に従えねぇ奴は……いらねぇ」
「……あァ、じゃあな叔父貴」
利家をチラリと見た利益は、ただ、ただ真っすぐに駆け出した。
だが、ふと思い出す。
”越後の龍”――あの女との死合を。
命を懸け、腕を競い、死合ったあの時、自分が久し振りに満たされていた瞬間を。
あの様な大将の下で戦いたい。
そう、思った事を。
そんな一時の感情に、流されてみるのも良いかもしれない。
あの大将の下なら、自分の望む戦が出来るかもしれない。
「――行ってみるかねェ。越後に!!」
行く先は――決まった。




