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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

さよなら最終戦争

 其れは今までと変わらない普通の日である、と彼は思っていた。しかし其の考えは忽ち覆されることとなる。と言うのも、目覚まし時計の音に呼応して身を置き上がらせた自分の右手が剣に改造されていたのである。彼は一驚に馳せた、そして如何すればいいのか分からなかった。

 寝癖が髪に染みついていたが、今は其れを相手にする暇は無かった。今までは五本の指や雑然と生えた毛、定期的に切っていて伸びきっていない爪などで構成されていた右手が、あろうことか刀身に改造されていた。神経の感覚は途中で無くなっているようで、何だか右手と言う剣が自分の物では無い別の何かに思えるようになってきた。彼はあたふたしたが、結局何か解決策を講じれる事は無かった。

 既に時計は八時を指している。既に家を出なくては会社に間に合わない時間だ。しかし彼は会社の事など全く念頭に無く、右手に着せられた経帷子についてずっと考えていた。カーテンは閉めたままであるが、同僚たちは既に開けている時間だ。彼は途方もなく彷徨ったが、何時までも寝室に居ては変わらないと思いに臥せ、一応は支度をしてみることにした。しかし、変わらず右手が邪魔になった。と言うのも彼は右利きであった。

 改めて自分の右手を観察するに、途中で剛強に切られた自分の右手の断面から一本の鋼の刀身が差し伸びている。他人から見たら、その光景故に吐き気を齎す人が居るかもしれないと考えるほど血滲んでいたが、全く痛みは感じなかった。麻酔なのか?彼が起こった末を知る由など存在しなかった。

 何もかもを左手で行う事は、彼にとって苦痛であった。彼は今まですんなり行っていた支度が順調に進まなかった。朝ごはんの為に作ろうとした目玉焼きも、今まで右手で割っていたが、左手しか使えない彼にとって卵を割る事は苦難の道であった。漸く数個を犠牲に払って割れた目玉焼きを、フライパンで焼くに手間取った。何時も傍らに置いていたコーヒーを作るにも、かなり時間が掛かってしまった。スーツを着るにも、間違えて右手を使ってしまった事でスーツが破れてしまった。慌てて予備のものを羽織るが、自分の不甲斐無さ、手慣れて無さに彼は悲しみを覚えた。先程点けたテレビでは春麗らかな桜並木が可憐に映し出されている。その淡い桃色と、自分の右手の迸った深紅には、似ても似つかない差が存在していた。


 彼は会社に出勤する為、家を出た。しかし彼は乗っていたバイクが今まで通りに運転出来ない事に気が付いた。片手運転、しかも利き手とは反対の手で操作する事は至難の業に思えた。彼は諦め半ばでバスに乗り込むことにした。だがバス車内は混んでいるだろう。自分の改造された右手を他の客や運転手が見たら、絶叫を上げられてしまう。そうなったら自分の社会生命に傷がつくだろう。歩いて行くにも、通行人に視られたら同じだった。結局、彼は扱いにくい左手で電話を会社に入れた。通話相手の上司は彼の休み願いに素っ頓狂な声を上げて、何時もは真面目なお前がどうしたんだ、と言わんばかりに聞いてきたが、彼は仮病でやり通す事にした。今まで格率に沿って生きていた彼にとって、それは屈辱的な願い出であった。

 彼は高い金を払ってでも、病院に電話すべきかと考えた。だが病院は病院で彼の声を一笑に付せるだけだろう。そう思っては彼は絶望した。まったく先の見えない闇であった。病院に行くにも他の来客者や看護師などに不審者扱いされてしまうのがオチであった。彼は卑屈になり始めていて、彼を形作っていた感情の全てが無くなってしまった。彼は再び寝室で寝込んだ。締め切ったままのカーテンからうっすらと入り込む光背のような聖寵が、彼を残酷にも取り囲んでいた。


 次の日になっていた。起きたら目覚まし時計は十一時になっている。目覚まし時計の音には気づかなかったが、鳴り響く電話の音で起きた様なものであった。幾度も鳴動している気がしてならなかった。彼は電話に出ることにしたが、億劫にさえも感じられた。電話口を当てると、上司の五月蠅い声が入ってきた。今日は大事な会議があって、彼はその中でも大事な存在であった。しかし彼は無断欠勤に近い事を行っていて、上司は怒号に近い声を入れてきた。しかし彼は憔悴しきっていた。けたたましい声にうんざりして、昨日自分が言った事を剽窃して切り抜けようとした。だが向こう側は唐突に電話を切るや、今度は彼の家のドアを叩いては、チャイムを何度も鳴らした。…来ていたのである。彼は再三絶望した。何処かに逃げだそうとさえ考えた。しかし、一体何処へ逃げると言うのか。逃げ出す場所なんて何処にも存在しなかった。

 彼は疲弊そのものを背に載せて、玄関先で五月蠅い声を上げる存在に向かって問いかけた。"すみません、ですが自分にも分からないのです。一体どうしたらいいのでしょう!まるで悪魔に仄めかされたような感覚です!もし現世に神様がいらっしゃるのなら、私の境遇に泣いてくださるでしょう"、と。彼は敬虔な宗教者であった。彼の尋常では無い声をドアを隔てた向こう側で聞いた存在は、腰を抜かしたかのように黙った。沈黙が数分走った後、いいから姿を見せてくれ、一体何があったのだ、と聞き返した。彼は柔らかに言う上司の声が、まるで天使にさえ思えた。この状況が救われるかもしれない、そうとさえ考えた。壮絶な標榜に、彼は何と思うのか?そのような好奇心も出現した。

私は貴方を信じます、どうかこの哀れな身体をまじまじとご覧ください!そう言った彼は、ドアを徐に開放した。玄関先の上司は彼の姿を見て、まるで殺人狂を見たかのような恐怖を行動、顔共に顕わにした。玄関のタイルの上に尻餅をつき、顔面蒼白としている。蛇に睨まれた蛙のように怯えきっていて、視線は右手に向かって集中していた。目元も揺れ動いていて、動揺している。希望を失った、死んだような眼であった。上司はそのまま、何度か転び躓きながら、走り去ってしまった。言葉にもならない叫び声を上げながら。彼は無神経な右手の剣に究極的なを覚えながら、縋っていた葦が切れたような気がしてならなかった。不意に流れてきた涙を着ていたスーツの裾で払拭しては、再び寝込んだ。彼の中のまともな信頼は、ずたずたに裂かれたも同然であった。


 更に日が経過した。彼は窶れ衰え、全てを拒んでいた。彼は一回、マスコミに自分をネタにして貰うことを考えたが、何も悪いことなどしていない自分が知らない存在達々の晒し者となることが潔しと出来なかった。テレビの前で呑気に腰下しては日々を娯楽などに勤しむような馬鹿げた有閑階級どもが自分をネタにして荒唐無稽に嗤って見せるのが簡単に見えた。彼はざっと持っている考えを慣れない左利きでメモ書きしてみるも、一つも全く以て効果的なものは無かった。右手に起こった現象は我が身とて知らぬ、かのモラリストでさえ驚嘆に近い悲鳴を上げるだろうし、のんびり懐疑主義的な立場に自己を擱ける自分の愚かな姿に我ながら赧然とする思いである。然しそれでも時間は裕に過ぎ去っていく。だが彼の右手が自然に戻ってくることはなかった。時と言う存在は、まるで彼を欺き続けるかのように。

 彼は改めて自分の右手の兇刃が鋭利新刀たる切れ味を誇っていることを知らしめさせられた。と言うのも、既往あれだけ嫌悪していたスーツをも容易く破り千切り、倫理的に考えてみて一番善いと思える言論でさえ簡単に破滅させた一企業としての自分を破壊した。零落淡々たるもので、今彼が立っている立場は落魄れたが所以なのかどうかさえ分からない。しかし彼にとって"絶望こそ真理"であった。右手の剣を自室の木柱に思いっきり突き刺してみると、苦とも思わせない入り込みように、彼は一種の現実性を否定させて生誕した絶望を生み出した。それは今まで俗物に惑わされて作られた似非の絶望などではない。漆黒を遥かに超越した究極的な本質の悪、不条理さえ物語ることの許されないような絶望そのものであった。彼は何時の間にか自分の境遇が高邁なものにさえ考えられた。ルシファーが氷の中で復活で待っているように、彼自身もあらゆる奢侈強欲な現実たるものからさよならを告げ、今や彼は無我の存在と化していた。


 おお、我らが主よ!かつてピコ・デラ・ミランドラは「神は人間に自由意志を与え、それによって人間は自らのあり方を決定できるところに人間そのものの尊厳がある」、と仰った。しかし其れは現実という神の上の存在に服従しているだけに過ぎないのではないのか!貴方は現実を恐れている。内心腰を抜かし、懼れるところの存在に空威張りし、全世界に誇って君臨している。それは貴方を神たらしめている現実に恐れを為し、現実の持つ一切の災厄を貴方の力だと偽ってきたのだ!

 おお、我らが主よ!何故貴方は神の定めた規則たるものから外れた事象が起こったときに無視を図るのだ。貴方は現実を完璧に知っていない。貴方の狭い見識の中で生育した理性は、我々より尊く、そして純粋であろう。しかし貴方は嘘を吐いた、「現実は神の手の中である」と。

 おお、我が主よ!現実の一切を恐れ、畏敬し、身を震わすことを我々に見せず、まだ空威張りを続けるのであれば、この私が貴方の正体を暴こう。この右手が変わってしまった今、貴方は現実の本質を知らないでいる!そしてそれを知ったフリをして我々に全知全能の立場に居る!

 おお、我が主よ!貴方が全知全能であれば、我々を現実たるコキュートスから救済なさってください。…私だけではありません。現実に食い物にされ、身を売られたり、無理に働かせられたり、窮乏に苦しみ、人間関係に難儀する彼らにも、見えざる救いの手を差し伸べて下さい。―――――もはや貴方の嘘も露呈しました。貴方に力は無い、貴方は現実という怪物の威を借るキツネそのものだ!


 翌朝、彼は右手の刃で自分の首を切り裂き、早世した。彼が紅に塗れて大の字でベッドに寝ていた傍ら、彼の自室は物で散らばっていた。彼を敬虔たるものにしていた多くの聖書やそれの解釈本、名言箴言だけ集めた上辺だけの本、神の全知全能を讃えるイコン。それらはずたずたに引き裂かれ、跡形も無くなっていた。

 彼の死は世間で話題になったが、時間を経るにつれて大衆の興味は失われ、警察も自殺と片付けて終わった。ただ、部屋内で荒らされたかのように思えた〈神への供物〉は、血の跡を描いていたがために他殺とも最初は考えられた。しかし彼の安らかそうな顔を見て、誰もが自殺と考えることを得なかった。

 彼が謁見した上司は、彼の死について適当にあしらい、何事もなかったかのように彼の死は終わったのであった。

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