恋ってどんなものだろう 好きってどんなものだろう
恋ってどんなものだろう。
好きってどんなものだろう。
僕はそれらを知らずに成長してしまった。
そしてとうとう高校生になる。
*
名物の桜並木は全長にして三百メートルほど、県道添いに高校のすぐそばまで続いている。
今日は入学式、この桜並木をゆっくり眺めようと早起きをした。
桜は七分咲き、僕が好きな開花具合だ。
もうしばらくすると満開となる間際、ぎりぎりのライン。開ききるかどうかの震えるような瞬間は、快い緊張感とすぐそこの春本番を想像させる。ひそやかに、わずかばかりに垣間見えるつぼみのふくらみには初々しい可憐さがある。
たかが入学式、たかが桜。
どれも珍しいものではない。
なのに心が浮かれている自覚があった。
桜を見上げて、ふと思った。
恋ってきっとこんなふうなものなのかもしれない、と。
一面が淡いピンクだ。
*
頭でっかちな自分。
恋も好きもよく分かっていない自分。
だけど僕はずっとこれらに興味があった。
劣等感を抱えながらも、ずっとずっと、これらのことを知りたいと熱望していた。
恋ってどんなものだろう。
好きってどんなものだろう。
目に見えないからこそ気になる。
舌で味わえないからこそ気になって仕方がない。
ふわふわした、いい気持ち?
きゅんきゅんする、切ない気持ち?
どきどきする、高鳴る気持ち?
それってどういう気持ちなの?
同級生たちが恋する相手を見つめてため息をついたり、頬を赤らめたりしているのを、こっそりと眺めつつ、僕はずっとうらやましく思っていた。
本当は一度でいいから、そんな子たちの肩をたたいて軽い感じで聞いてみたかった。
「ねえ、恋ってどんな気持ちなの?」
「ねえ、好きってどんな気持ちなの?」
「恋をするとうれしいの?」
「好きになるってうれしいの?」
「それって、どのくらいうれしいことなの?」
でもそんな勇気もなく、僕はいつも勉強に逃げていた。
そう、勉強はいつもさせられていたわけじゃない。自分からしていたのだ。
なぜって?
だって他にできることがなかったから。
狭い教室、他に逃げる場所がなかったから。
勉強していれば気楽だった。問題はいつかは必ず解ける。解答例を見たり先生に聞いたり、解く方法はいくらでもある。だから全然苦痛ではない。
だけど面白くはなかった。
それよりももっと面白そうなものが目の前にあり、同級生たちがそれらを味わい楽しんでいるというのに、それをできない自分が恨めしかった。だから勉強に本気で熱中したことはない。
なぜ僕に勇気がなかったのか。
それはもう、僕が何に対しても臆病だからだ。
石橋をたたいて渡る。
そのことわざが僕以上にぴったりくる人はそうはいないだろう。
慎重に慎重を重ね、失敗しないように、恥をかかないように、吟味に吟味を重ね、確信を得て、それからようやく行動にうつることができる自分。
そんな僕に、僕自身が嫌気がさしていた。
たぶん恋の醍醐味とは、その不安定さにもあると思っていたから。
誰もがはらはらどきどきしながら恋を楽しんでいるように見えていた。
だからこその喜び、楽しさ、切なさなのではないか?
そんなふうに思っていた。
だから僕は一つの願かけをした。
この地区最難関の高校に合格できたら、その時は恋ができるはずだ、と。
合格率は七割。
親や先生から見れば十分合格ラインに到達する実力らしいが、僕にしてみれば不安で冷や汗がわいてくるような数字だった。
だけど僕は挑戦した。
もちろん滑り止めも受けてはいたけど、それでも僕にとっては人生最大の挑戦だった。
はらはらどきどきする気持ちを、僕は恋をするよりも先に受験で実感した。
そうして僕は合格し、そして今日、入学式を迎えたのである。
これできっと恋ができるはずだ。
*
早めに咲ききった桜の花びらが、命の終焉を告げるかのようにはらはらと散っている。
美しいけれどなんとなく切なくなる。
もう終わってしまうのか、と。
他にもいっぱい咲いているし、まだ開いてもいないつぼみもある。だけど不思議と切なくなる。
その時、ふと思った。
恋ってきっとこんなふうなものなのかもしれない、と。
三日前に出来上がったばかりの制服はサイズが少し大きい。
ジャケットの袖は長くて指先が半分しか出ない。
シャツも同じだ。
ズボンはさすがに裾をあげてあるけれど、ベルトをしているというのに腰回りに緩さを感じる。
これからあとどのくらい体が大きくなるのかは分からないが、もしもすでに成長期を終えていたら、僕はずっとこうして大きな制服に着られていなくてはいけないのかもしれない。
一つため息がでた。
恋ってどんなものだろう。
好きってどんなものだろう。
こんなふうに野暮ったい自分でも恋ができるのだろうか。
こんなふうに野暮ったい自分でも好きって気持ちは分かるのだろうか。
桜の花びらがはらはらと散っていく。
と、突然の強い衝撃に僕の体はあらぬ方に動いた。
「うわっ!」
ぶつかってきた女の子は同じ高校の生徒で、尻餅をついてしまった僕に「ごめんなさい、大丈夫?」と手を差し伸べてきた。
「う、うん。だいじょう……ぶ」
言いながら顔を上げ、僕はその女の子にくぎ付けとなってしまった。
一言でいえば、彼女は春そのもののような人だった。
第一印象は明るくてかわいい子。
声の調子と動きの機敏さからも元気で率直な子なのだと察しがつく。
やや大きな瞳がつやつやと輝き僕を見下ろしている。ぷるんとした唇は果実のようにみずみずしい。走っていたのだろう、頬は紅潮して熟れた桃のようだ。肩よりも短い髪が、傾けた顔に従って斜めにさらりと流れている。
僕と同じように、大きめのジャケットを着て少し長めの丈のスカートを着ているというのに、彼女の場合は野暮ったいのではなくかわいかった。
そう、かわいい。
かわいいのだ。
かわ、いい――?
他人に対して初めて思いついたその言葉。
意識した瞬間、僕の頬は彼女よりももっと赤くなった。
頬どころではない、首元から顔から耳まで一瞬にして赤くなった。
鏡を見なくても分かる、絶対に赤くなっている。
心臓の音がうるさい。
鼓動がうるさい。
息が苦しい。
ただこの子のことを意識しただけなのに――。
これは……絶対に『恋』だ。
これは……絶対に『好き』だ!
確信した瞬間、『うれしい』を光の速さで通り過ぎ、すぐ別の感情で体が硬直した。
恥ずかしい。
こんなみっともない自分を見られていると思うと恥ずかしい。
今、僕は地べたに尻をつけ、ありえないほど赤い顔をしている。
羞恥心で身もだえしたいのを必死で押し殺すのを、彼女は不思議そうな面持ちで見ている。それどころかよりいっそう強く僕のことを見つめてきた。
もともと僕は恥ずかしがりやで、恥ずかしい思いをするのが苦手なのだ。
だから恥ずかしい思いをするようなことは事前に全力で回避するようにしていた。
なのに……こんなふうに突然恥ずかしくなるなんて。
こんなふうにいたたまれなくなって、なのに何もできなくなるなんて……。
恋ってこんなにすごいものだったのか。
好きってこんなにすごいものだったのか。
今、出会ったばかりだというのに。
たった一目、見ただけなのに――。
立ち上がることができない。
腰が抜けてしまったわけもないのに、全身に力が入らない。
かといって彼女の手を取るなんて、そんなこと余計できない。
ずっと目の前に出されている彼女の手は、僕のよりも小さくてふっくらとしている。
触りたい。
けど触ったらきっと僕は今以上におかしくなってしまう。
触りたい。
けど触ったらきっと彼女の手を汚し傷つけてしまう。
尻と一緒に地面についている手の平が痛い。
コンクリートのでこぼこや小石は容赦なく、もうずっとじくじくと僕のことを突き刺している。
我慢できないくらい痛い。
けれど彼女の手を取る勇気はまったくなかった。
すると彼女が尋ねてきた。
「もしかして立てなくなっちゃった?」
それにこくこくとうなずく。
喉は干上がっており声は出せそうになかった。
というか、どういう声で何を言えばいいかがとっさに思いつかなかった。
彼女の眉がひそめられ、それに僕の胸が勝手にきゅっと絞られた。
「し、心配しないで!」
「え?」
「心配しなくていいから! 大丈夫だから!」
馬鹿みたいに大きな声が出てしまい、額から一気に汗が噴き出した。
もうこれ以上どうすれば恥をかかないですむのか分からない。
恋ってこんなに難しいことなのか?
好きってこんなに難しいことなのか?
穴があったら入りたい。
コンクリートにドリルをあてて、地球の中心、マントルまで潜って消えてしまいたい。
そういう突拍子もない想像が思いつく自分にまた嫌気がさす。
すべてが悪循環だった。
どうすれば事態が好転するのか、まったく分からない。
受験で願掛けなんかしても無意味だったんだ。
こんな僕では恋なんてできるわけがなかったんだ。
でも……でもこの好きっていう気持ちはどうしたらいいの?
どうしたらいいの?
誰か教えて。
どうすればいいのか教えて。
一生のお願いだよ、誰か助けてよ――。
本気で祈り、気づけば目をつぶっていた。
*
「その願い、叶えてあげるね」
朗々とした声に、つられて目を開けると、なぜかそこに天使がいた。
くりっとした明るい巻き毛の上には光るわっか、白い布を緩やかに体に巻きつけた幼児ともいえる少年の姿、背には白く大きな翼。一見して天使だとわかるフォルムで、そいつはそこに現れた。
「え?」
桜と入学式、女の子。
初めて自覚した恋と好き。
それに――天使?
そして彼女の動きは止まっていた。
「……え?」
「はいはい、立って立って」
急かされ、よろめきながらも立ち上がると、天使は満面の笑みを浮かべて言った。
「さあて。じゃあ二択だよ。いいかい?」
「二択? え? というかどういうこと?」
「まあまあ、いいから。じゃあ問題。これからの未来、君は二つのうちのどちらかを選べるよ。どっちにする?」
ありえないほどに軽い口調で、天使は勝手に話を進めていく。
「その一。彼女と君、どちらかはこの高校に不合格になり、この出会いはなかったことにする」
「ええっ!」
「ちょっと、ちゃんと聞いてよ。その二、今すぐ好きだと告白してふられて正気に戻る」
「おい待て!」
とっさに反論していた。
「その一はともかくその二はどういうことだよ」
「どういうことって?」
くりっとした瞳であどけなく見返されたが、言いたいことは言わなくてはいけない。
こいつ、聞き捨てならないことを言いやがった。
「告白して、というのはまだいいよ。だけどそのあと、ふられるっていうのはなんなんだよ」
「それが?」
心底不思議そうな顔をされた。
「君、知らないの? 一目ぼれの恋なんてかなわないのが道理なんだって」
彼女は今も動かない。
一時停止する彼女はまるで完璧な映像のようだ。
桜の花びらも空に浮かんだままの不安定な状態を保っている。
「やっぱり、世の中には道理っていうのがあるんだよねえ」
話を蒸し返していく天使。
「正常な世界に戻すためには、僕がさっき言った二択しかないんだよ」
そして天使は最終宣告をした。
「さ、どっちを選ぶ?」
*
「よし。分かった」
僕は天使を見据えて宣言した。
「願いは取り消す」
ややあって、天使はぽんと手を打った。
「なあるほど。その手があったね」
そして天使は去って行った。
ただ去り際に言われたのは、僕はこれで『一生に一度のお願い』を行使する権利を失ってしまったそうだ。
だけどそれでもよかった。
僕はずっと知りたかったんだ。
恋ってどんなものだろう、好きってどんなものだろうって。
一度知ったらもう知らなかった頃になんて戻れなかった。たとえどんなに困難な感情でも――。
だから、その一を選ぶことは絶対にあり得ない。
でもその二もダメだ。
初めて知ったばかりのこの恋を、一瞬で捨てることなんてできるわけがない。
恥ずかしいのは嫌だ。
だけどそれ以上にこの恋を失う方が嫌だ。
自分をまもることよりも大切にしたいことがあるなんて、初めて知った。
「あれ? いつの間に立ったの?」
世界が正常に動きだし、彼女が差し出したままの自分の手を恥ずかしそうに引っ込めた。
「本当にごめんね」
それに僕は首を振り笑ってみせ、それから震える声を押さえつつ言った。
「僕、たぶん君と同じ一年生だよ」
「あ、やっぱり?」
僕とぶつかってからずっとすまなそうにしていた彼女、その表情がようやく晴れやかになった。
「そうだと思ったんだ」
「あ、あの」
両の拳を握りしめ、決死の思いで願いを口にする。
「学校まで、一緒に……行かない?」
*
うん、やっぱり。
恋に必要なのは奇跡なんかじゃない。
天使も神様もいらない。
勇気だ。
勇気と、それとちょっとしたハプニングだ、きっと。
決して恐れないこと。
覚悟を決めること。
大切にしたいことを選ぶこと。
恋をするためにはそういう強い気持ちが必要なんだ。
心の中でさっきの天使に語りかける。
『一生のお願いなんてなくても、僕は恋をあきらめたりなんかしないよ』
*
「そういえば、さっきはどうしてあんなに急いでいたの?」
「あはは、ごめんね。クラス割を見たかったの」
「クラス割?」
「うん。顔が分からなくてもさ、名前だけ眺めてどんな人か想像するのって楽しいんだよ?」
「へえ、そういう楽しみ方があるんだ。知らなかった」
「そういえば」
隣を歩く彼女が僕の方を見て尋ねた。
「名前、なんて言うの?」
「僕? 僕は――」
さわさわ、と連なる桜の枝が揺れ、淡いピンクの花びらが空高く舞い上がっていった。