3-3 見知らぬ王
大きく翼を広げた猛禽の姿が彫りこまれた木製の扉を、カイラシュは軽く握った手で叩いた。
静まり返った通路に思いのほか低い音が響く。高官ですら滅多に立ち入らない場所であり、サヴィトリとカイラシュの他に人影はない。
この猛禽は金翅鳥といい、国の紋章とは別の、タイクーン個人の紋章であるとサヴィトリは教わった。タイクーンの私室の扉の装飾の他に、衣装や装飾品といったものにもこの図案が使用されるのだとカイラシュは言う。
「禁色や装飾品の規制のない国ですがこの金翅鳥だけは別で、タイクーン以外の者が使用すると厳しい罰則があります」
カイラシュの説明を聞きながら、サヴィトリは扉に彫られた金翅鳥を指でなぞった。技法がどうだとか専門的な知識はないが、脈打っているかのような力強さを装飾から感じる。
しばらくして、中からしわぶきと短く弱々しい応えがあった。
「補佐官カイラシュ・アースラ、まかり越しましてございます。サヴィトリ殿下をお連れいたしました」
カイラシュは朗々とした声で伝える。
殿下と呼ばれ、サヴィトリは居心地の悪さを感じた。様という敬称をつけられるのも抵抗があるが、それ以上にタイクーンの娘という立場を言外に押しつけられているようで嫌だった。
押しつけられた、といえば今着ている服もそうだった。
カイラシュの着ているものと似たデザインの長衣。何かはわからないが肌触りのよすぎる素材が使用されている。サヴィトリがひらひらとしたドレスを着ることを断固拒否したためこの服に落ち着いた。本当は元着ていた服を返してもらいたかったが、どさくさにまぎれて洗濯されてしまった。どうも最近、他人に流されてばかりいる。
今度はさほど待つことなく返事があった。
カイラシュは、失礼いたします、と断ってから観音開きの扉を押し開いた。先に部屋に入ると、中にいる人物に深々と礼をしてから、目配せでもってサヴィトリを招く。
サヴィトリはそっと窺うように中に入る。
一国の長の部屋にしてはあまりに簡素で殺風景だった。置いてある家具は天蓋のついたベッドと本棚、テーブルと椅子が二脚。サヴィトリが暮していた部屋ならばそれらが置いてあるだけで十分だが、広さが二倍三倍も違うため、がらんとした印象を受ける。
ベッドに身体を横たえていた人物がゆっくりと上体を起こした。カイラシュがその人物の背に手を当てて介添えをする。
似ていない。
それが現タイクーンを見たサヴィトリの最初にして唯一の感想だった。
サヴィトリの髪は陽光のような柔らかな金色で、タイクーンの髪は濡れた大地のような褐色。
サヴィトリの瞳は常緑樹の葉のような深い緑で、タイクーンの瞳は夜空のような深い藍。
髪や目の色素もまるで違えば、パーツの形の一致も見られない。隣に並んでも誰が親子だと思うだろう。それに、歳も親子というには離れていた。病臥でやつれているせいもあるかもしれないが、六十を超えているように見える。
ふと、サヴィトリは相似点を必死に探している自分に気が付き、軽い嫌悪感を覚えた。自然と寄ってしまった眉間の皺を指の腹で押し伸ばし、心を抑えるように服の胸元を強く握りしめる。
上体を起こし終えたタイクーンは、サヴィトリの方に視線をむけた。焦点を合わせるように目を細める。
サヴィトリは一度深く息を吐いてから、タイクーンの方に近寄った。久方ぶりの親子の再会にしては足早に。
ベッドの脇に立つと、サヴィトリは素早くタイクーンの胸倉をつかみあげた。右の拳を頭のうしろまで引きあげる。
「何をするのですか!」
握り潰してしまうのではないかというほど強く、カイラシュはサヴィトリの手首をつかんで止めた。
「ちょっと一発殴ろうかと思って」
サヴィトリは飄々と答える。左手はまだタイクーンの胸倉をつかんだままだ。
「そんなのは見ればわかります!」
カイラシュはヒステリックな声をあげる。更にサヴィトリの手首を握る力が強まった。
眉をしかめずにはいられないほどの痛みになってきたので、サヴィトリは諦めるように息を吐いた。胸倉をつかんでいた手も離す。
「私は言ったはずだ。『寿命を縮めることになるかもしれない』と」
「だからって誰がいきなり殴りかかると思いますか! 誰が!」
サヴィトリの眼前に指を突きつけ怒鳴りつけた直後、カイラシュはあっ、と口元に手を当てた。つかんだままだったサヴィトリの手首を慌てて離し、勢いよく頭をさげる。
「申し訳ありません、サヴィトリ様にご無礼を……」
サヴィトリが何かを言う前に、くつくつという含み笑いがサヴィトリとカイラシュの耳に入った。
「まったく、母親譲りの気性の荒さよ」
とタイクーンは呟き、何かを思い出したのか大きくふき出した。
「私も彼女にはよく拳で殴られたものだ」
タイクーンは自分の頬を指先でつつき、にやりと口の端を吊りあげる。
「それに……君が殴りたくなる気持ちもわからなくでもない。壮健であったならば甘んじて受けたが、あいにくとこのような身だ。老齢ゆえ快方へとむかう見込みも薄い。もっとも、私の代わりにこの国を治めてくれるというのなら、むしろ引導を渡してもらいたいくらいだが」
「タイクーン! たとえ冗談であってもそのようなことを仰らないでください!」
カイラシュに叱責され、タイクーンは屈託なく笑った。その笑顔は若く、悪戯好きの少年のようだった。
ひとしきり笑うと、タイクーンは顎をさすり、懐かしむようにサヴィトリを見た。
「初めて見た時は赤い子猿のようだったが、なかなかどうして似るものだな」
「失礼ですがタイクーン、フランクすぎやしませんか」
カイラシュは軽く頭を押さえる。
「堅苦しいのは性に合わん。しかし前々から思っていたのだが、カイラシュは若いのに小言が多いな。そのうち胃をやられるぞ」
タイクーンの予想外の闊達さに、サヴィトリは呆気にとられる。
こけた頬や蝋のような肌、骨と血管の浮き出た手などを見ていなければ、本当に一発ぐらい殴っていたかもしれない。
「さて、これから君はどうするつもりだ? このままクベラにいるのか、それともあの男の所へ帰るのか」
ふっとタイクーンの表情が変わった。突き放すような言い方をする。
「強引に私をここに連れてきておいて、おかしなことを聞くんですね」
サヴィトリはなんとなくむっとし、眉間に皺を寄せてしまう。
タイクーンが自分のしたことをしらばっくれたせいなのか、急に素っ気のない態度を取られたせいなのかはわからない。
「サヴィトリ様をあの森から連れ出したのも、わたくしがここに連れてきたのも、タイクーンのあずかり知らぬことでございます」
サヴィトリの矛先を変えさせるように、カイラシュは言った。
「タイクーンが命じたのであれば、そもそもあんな雑用あがりの青年がサヴィトリ様の迎えになど行くはずがありません。どういう経緯があってか、彼があの森を迷うことなく進めることを知った右丞相殿が独断で兵を派遣したのです」
「……二人の王子に立て続けに死なれて、後継者がいなくなってしまったから?」
ランクァまでの道中でジェイに聞いたことをサヴィトリはふと思い出す。
「率直に言えばそうです。何も知らない田舎暮らしの娘を引っ張ってきて傀儡にでもしたかったんでしょう。まったく、わたくしを差し置いたことといい、万死に値します」
サヴィトリの言葉にうなずき、タイクーンの前であるにもかかわらずカイラシュはさらりと右丞相を批判する。
丞相とつくくらいなのだから国の最高位、またはそれに準ずる官吏だろう。補佐官というのがどれだけの地位であるのか、サヴィトリは少しだけ気になった。
「とはいえ、そもそも原因は私が心労ごときが元で臥せってしまったせいだろう。色々と騒がせてしまいすまなかった」
すっとタイクーンは頭をさげた。
さすがのサヴィトリもこの行動には困り果ててしまう。
一国の主が、つい数分前に自分を殴ろうとした小娘に頭をさげている。会って早々殴りかかった自分も自分だが、タイクーンの思考回路はわけがわからない。
「いえ、あの、とにかく頭をあげてください。一度、クベラに来たいと思っていましたから」
「そう、か。慰めでもそう言ってくれて嬉しい。ついでにこの国のことを好きになってもらって、本音としては跡を継いでくれれば助かるが……まぁ、多くは望むまいよ」
タイクーンはサヴィトリに微笑みかけた。
快活で気持ちのいい人物だということは感じたが、何かが心の中でわだかまっていてサヴィトリはどうしても笑い返せない。
それを察したのか、タイクーンは視線をカイラシュに移した。
「私のことはいいから、彼女の手助けをしてやれ。見知らぬ土地で不便なことも多いだろう」
「言われずともそのつもりでございます」
カイラシュは含みたっぷりに笑って敬礼をする。
「気が利きすぎて涙が出るな」
タイクーンは大袈裟に目元をぬぐってみせた。
カイラシュに伴われて、サヴィトリは王の私室を後にする。
一度として、サヴィトリと名前で呼ばれることも、父と呼ぶこともなかった。