3-2 補佐官カイラシュ
「お待ち申しあげておりました、サヴィトリ様」
サヴィトリは数秒の間、自分の目の前で起こっていることが理解できなかった。
「城の門扉は常に開放されてて、国民なら誰でも簡単な手続きをするだけで中に入れるんだよー」とか、「城の中は青と白のモザイクタイルで装飾されててもっと綺麗なんだよー」といったジェイのガイドを聞き流しているうちに、サヴィトリは城門の前まで辿り着いてしまった。もちろんヴィクラムも数歩遅れてついてきている。
ヴィクラムの手前、一応禁城の中に足を踏み入れておくべきだろう。とは思うが、サヴィトリの足はどうしても門の前で地面に縫いつけられたように動かない。
「サヴィトリ?」
ジェイが不思議そうに顔を覗きこんでくる。
ちょうどその時だった。
城側から一人の女が歩いてきた。
同性でありがなら、サヴィトリの目はその女に奪われる。
(あれって、洞穴で会った人じゃ……)
記憶力に自信があるほうではないが、あの顔は忘れがたい。
男女の誰もが美しいと賞するような容貌と、高い位置でまとめた艶やかな菫色の髪、並の男以上の長身。
名前は聞かなかったが、確かに数日前、洞穴でニルニラを追い払ってくれた人物だった。色とりどりの珠のついたかんざしによって髪が彩られているせいか、今日はより一層華やかに見えた。
(城の女官だったのか?)
不躾だと思いつつ、サヴィトリは仔細に女をながめてしまう。
サヴィトリと目が合うと、女は嫣然と微笑んだ。一直線にサヴィトリの方へとむかってくる。
あの時はどうも、といった他愛のない会話を交わすのとは、違った雰囲気を漂わせながら。
「お待ち申しあげておりました、サヴィトリ様」
ふわり、とサヴィトリの鼻先にほんのり甘い柑橘の香りがかすめる。
大して面識のない女に名前を呼ばれた上に、いきなり抱きしめられた。
この非現実的な現実を理解し受け入れるのに、サヴィトリはたっぷり三十秒かかった。
(どうして私の名前を知っているんだ? ……いや、よく考えてみれば前に会った時も呼ばれていた?)
サヴィトリがゆっくり顔をあげると、本当に嬉しそうに微笑む女の美しい顔が近くにあった。状況の異常性を差し引いても、なんとなく顔が赤くなってしまう。
いや、顔が赤くなる原因は他にあった。単純に息苦しい。長身のせいか、女はやたらに力があった。抱きしめられている、というより抱き潰されていると言ったほうが正しい。
「ああ、申し訳ありませんサヴィトリ様! 嬉しさのあまり、つい……」
女は慌ててサヴィトリの身体を離すと、恥ずかしそうに頬を赤らめた。
どういう反応をすればいいのかわからないサヴィトリは、助けを求めるようにジェイの方に視線をむける。
だが、すぐ隣にいたはずのジェイは、なぜかおびえるようにヴィクラムの影に隠れていた。サヴィトリと目が合うと、さっと完全に頭を隠してしまう。
「今更隠れたところで無駄ですよ、ジェイ殿。すべて拝見させていただきましたから」
獲物を見つけた猛禽のように女は目を細める。サヴィトリにむけた笑みが嘘のように、その表情は薄ら寒い。
「あはは、いつからですか?」
ジェイはかわいた笑い声をあげ、尋ねた。
「一緒にハリの森に行ったじゃありませんか」
女の答えに、ジェイは首をかしげる。ジェイと共にハリの森に行ったのは、二人。
「馬鹿力でつかまれたせいでまだ跡が残っていますよ」
と言って女は頬にかかった髪をかきあげた。よく見なければわからないが、うっすらと赤く、指の跡のようなものがついている。
「え、じゃあ、先輩? え? 怪我は? え? あれ?」
ジェイは首を最大限までかたむけ、女の顔を指差す。
「尾行・変装・早駆けは我がアースラのお家芸です。道中でのサヴィトリ様に対する数々の無礼な振る舞い、申し開きの必要はありませんね?」
女は口の端を残酷に吊りあげ、軽く手を二回打ち鳴らした。
それに合わせて、どこからともなく女が着ているのと似た長衣――これが官服なのかもしれない――を着た男が二人現れ、両脇からジェイを羽交い絞めにした。そのままずるずると城門の奥へと引きずっていく。
「うそおっ! 絶対あれ先輩だったじゃーん! 言い訳ぐらいさせてえぇぇぇぇっ!」
姿が完全に消えても、ジェイの悲愴な叫びだけがいつまでも響いた。
ほどなくして、我に返ったサヴィトリはジェイを追いかけようと一歩踏み出す。だが、それをさえぎるように女がサヴィトリの正面に立った。
「ではサヴィトリ様、参りましょう」
女は何事もなかったかのように満面の笑みを浮かべ、サヴィトリの手を大事なものでも扱うように両手で包みこむ。
サヴィトリは熱に浮かされたようにふらふらと手を引かれるままについて行きそうになるが、肩にかけられた大きな手がそれを止めた。
「遠戚の令嬢に対する態度にしてはずいぶんと大仰ですね、補佐官殿」
ヴィクラムだった。
口調こそ丁寧だったが、ひどく冷めた視線を女に投げつける。
補佐官、というのがどの程度偉いのかサヴィトリにはわからないが、少なくとも一部隊の隊長よりも高い地位にいるらしい。
サヴィトリの肩にかかったヴィクラムの手を、女は鋭く打ち払った。
「おや、雑用上がりのあれの世迷言を本気にしていたのですか? まったく、人を見る目がありませんね。このお方は――」
言いかけた女の口を、サヴィトリはとっさに両手を押しつけて無理矢理ふさぐ。色々まずい、と思ったがやってしまったものは仕方がない。
説明や弁解をするのも面倒くさくなったサヴィトリは女の腕をつかみ、勢いで城門をくぐって中に入った。ヴィクラムの視線から逃れるように、城の中を少し歩く。
「いきなり連れこむだなんて、意外と大胆なんですね、サヴィトリ様」
女はぽっと顔を赤らめ、頬に手を当てた。
(……なんだろう。この人気持ち悪い)
とサヴィトリは失礼なことを思ったが、もちろんそんなことはおくびにも出さない。
「ああそうだ。申し遅れました。わたくし、タイクーン補佐官のカイラシュ・アースラと申します。気軽にカイとお呼びくださいね。カイラシュ、って意外と呼びづらいらしくって」
カイラシュは笑顔を絶やさず、折り目正しく礼をした。
サヴィトリもつられて頭をさげる。
「あの、カイさん。私は人を探しにクベラに来ただけであって、本当はこの城にも来る予定なんて――」
「すべて存じあげております」
カイラシュはサヴィトリの言葉を途中でさえぎった。
「ひとまず、身を清めましょう。あんな穢れた男どもと一緒にいてさぞむさ苦しかったでしょう。ね?」
顔の前でぱんと手を打ち、カイラシュは首を少しかたむけた。
言葉の意味がわからず、サヴィトリも同じように小首をかしげる。
次の瞬間、サヴィトリの身体がふわりと浮いた。あっ、と声をあげる間もなくカイラシュの肩に担がれ、どこぞへと連れて行かれる。
サヴィトリの体格はごく平均的なものだ。それを軽々と担ぎあげるなど、とても女性の仕業だと思えない。抱きしめられた時も無闇やたらに力が強かった。
「え? え? え?」
サヴィトリは戸惑うあまり、落ち着きなく首を巡らせることしかできない。もしこんなことをしたのがジェイであれば鉄拳制裁で事がすむが、女性相手に手荒な真似をするのはためらわれた。
城中ではこのようなことが日常茶飯事的に頻発するのか、それとも厄介事にかかわらないよう受け流す能力が高いのか、誰一人としてサヴィトリ達に注意をむけない。
ジェイの言っていた青と白のモザイクタイルによる装飾を楽しむ暇もなく、気付いた時にはサヴィトリは浴場に運ばれていた。そこにはあらかじめ手配でもしてあったのか、数人の女中が控えていた。全員、サヴィトリとは親子ほども歳の離れた女性だった。
カイラシュはそっとサヴィトリの身体をおろし、一言、よろしくお願いしますと頭をさげる。
女中達は間髪入れずにサヴィトリに群がり、あっという間に服を脱がしてしまった。サヴィトリが呆気に取られているうちに、事はどんどん進んでいく。
抵抗する隙も与えず、女中達は生クリームのような泡で満たされた湯船にサヴィトリを放りこんだ。「補佐官様とはまた趣の違った美しいお嬢さんねえ」などとのんびり会話をしながら、手際よくサヴィトリの身体を隅から隅まで磨きあげていく。
湯からあがり泡を流し終えると、今度は身体に香油をすりこまれた。微かにリンゴに似た甘い香りがする。
バスローブを着せられ、大きな鏡台の前に座らされたところで、サヴィトリはようやく一息つくことができた。
どっと疲労が押し寄せてくる。トゥーリからランクァまでの行程の方がよほど楽だった。
「どの色もよくお似合いで困りますねえ」
様々なドレスをサヴィトリに当て、カイラシュはそのたびにうっとりとため息をつく。
「あの、これは一体どういうことでしょうか」
サヴィトリは困惑気味に尋ねた。今すぐに逃げ出したいが、さすがにバスローブ一枚で見知らぬ土地をうろつくのははばかられる。
「これからサヴィトリ様にはタイクーンにお会いいただきます。これはそのための準備です」
カイラシュの言葉に、サヴィトリは反射的に立ち上がった。
「冗談じゃない! 私はそんなものに会いに来たわけではない!」
ぎりと歯ぎしりをし、サヴィトリはカイラシュをにらみつける。突然のことに、女中達は短い悲鳴をあげた。
カイラシュはサヴィトリの顔を見つめ返した後、深く頭を垂れた。
「サヴィトリ様のお心は察するに余りあります。ですがどうか、一目だけでも今のお姿をタイクーンに。度重なるご不幸により、タイクーンは臥せっておいでなのです」
臥せっている、という部分に心が微かに揺さぶられたが、それを断ち切るようにサヴィトリは頭を左右に振った。
「見ず知らずの小娘が会ったところでなんになる! 意味のないことだ!」
「いいえ、サヴィトリ様はご母堂――ラトリ様によく似ておいでです。わたくしがまだ幼かった頃、よく遊んでいただきました」
カイラシュは懐かしむような視線をサヴィトリにむける。
ラトリ。
サヴィトリは口の中で数度その名前を繰り返す。自分の母親の名前を初めて聞いた。自分自身にかかわることなのに、あまりに知らないことが多すぎる。
「だったらなおのこと亡霊に会わせてどうする。寿命を縮めることになるかもしれない」
サヴィトリは視線をさげ、自分の身体を抱くように腕をまわした。
サヴィトリが命を奪われかけた頃、タイクーンが何をしていたのかはまったく聞かされていない。だが、サヴィトリを手放したことは事実だ。よほど神経の図太い者でない限り、負い目を感じているだろう。サヴィトリと会うことが精神の負担になることはあれど、快方へとむかわせることはない。
「それもまた、詮なきことです」
カイラシュは静かに目蓋を伏せた。長い睫毛が頬に暗い影を落とす。
サヴィトリはそれ以上何も言わず、鏡台の前に座りなおした。