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3 紫苑の麗人

 ヴィクラムの背が見えなくなってからほどなく、不意にサヴィトリの頬を冷たいものがかすめていった。

 空を仰ぎ見る。

 さっきまで穏やかに晴れていたはずが、薄墨のような雲がたれこめてきている。雲の流れは速く、サヴィトリが空を見ている間にも、ぽつぽつと雨粒が落ちてきた。


(にわか雨か)


 ヴィクラムには待っていろと言われたが、風が吹きはじめ、雨も確実に強くなってきている。木の下でしのぐのは難しそうだ。

 サヴィトリは手で頭をかばい、来た道を慌てて駆け戻る。確か来る途中に、雨をしのげそうな洞穴があった。

 その記憶どおり、少し道を戻った所に洞穴があり、サヴィトリは急いで中に入った。

 まるでその瞬間を見計らっていたのか、打ちつけるように強く雨が降りはじめる。遠くの方で、雷の轟音も聞こえた。木の近くにいては危なかったかもしれない。勝手な行動はするなと言われたが、さすがに今回の場合は仕方がないだろう。


 サヴィトリはふーっと息を吐き、改めて洞穴の中を見た。天然の洞穴にもかかわらず、奥の方からあかりが漏れている。誰か先客がいるのかもしれない。


(少なくとも、熊の寝床とかではなさそうだな)


 雨がやむまでの暇潰しにと、サヴィトリは洞穴の奥へと進んだ。次第に内部が明るくなっていく。


 ほどなくして、地面に置かれたランタンと、その隣にうずくまるような女の姿が見えた。


「大丈夫ですか!?」

「……? どなたかは存じませんが、お気遣い、ありがとうございます……」


 弱々しく応え、女はゆっくりと頭をあげた。

 美しい、という形容以外、サヴィトリの頭には浮かばなかった。切れ長の赤い瞳も、通った鼻梁も、薄く朱を刷いた形のいい唇も。どれ一つとっても完璧に近いパーツが、卵型の顔の上に理想的に配されている。

 サヴィトリの顔を見て、女は一瞬目を見開いた――ような気がした。誰か見知った顔に似ていたのだろうか。


「あの、どこか具合でも悪いんですか?」


 女は無言で頭を横に振った。だが、その身体は小刻みに震えている。


(寒いのかな。それとも何か怖い目にでもあったとか?)


 サヴィトリが思案していると、洞穴の入口から強烈な白い光が差しこんできた。きっかり五秒後に耳をつんざくような轟音が響く。


「――苦手なんですね、雷」


 サヴィトリは、しがみついてきた女の背中を優しくさする。思いのほか女の力は強く、つかまれた部分が痛んだが、どうにか顔に出さずにすんだ。


「……はい。ご迷惑をおかけして申し訳ありません。こればかりは、幼少の頃から」


 青ざめ震えるくらいなのだから、よほど苦手なのだろう。

 サヴィトリはそれ以上何も聞かず、握りすぎて色をなくした女の手に、自分の手を重ねる。初対面にもかかわらず、なぜか放っておくことができなかった。


「お取込み中のところ、失礼するのでございます」


 洞穴の中だというのに、ピンクの傘をさしたニルニラが現れた。まだこのあたりにいるとは思わなかった。


「失礼だとわかっているなら帰れ」


 サヴィトリは一瞥すると、すげなくしっしと手を払った。


「あたしだってあんたさんみたいなケダモノ相手ならこんな仕事最初から受けなかったのでございます! 騙されたのでございます! 被害者なのでございます!! なんで今日はあんたさんとのエンカウント率がこんなに高いのでございますか!?」

「ああ、さっきはどうもありがとう。しかし今日はやけにヒステリックだな」

「具合が良くなったようで何よりなのでございます――じゃなくて! 年頃の女子は情緒不安定なのでございます!」

「女子という歳でもないくせに何を言うか。女子呼ばわりしていいのは十四歳までと法で定められている。まったく違憲はなはだしい」

「今のその発言で、あんたさんは世のすべての女性を敵にまわしたのでございます」


「あの、十中八九違うとは思いますが、この方はお友達ですか?」


 ないがしろにされていた女が控えめに尋ねた。


「あ、巻きこんでしまってすみません。なんか一方的に付け狙われているみたいで」

「人をストーカーみたいに言うんじゃないでございます!」


「そうですか。ストーカー、ですか」


 なぜか、女は目を細める。サヴィトリは背筋に薄ら寒いものを感じた。


「……ではこれより、介抱していただいた御恩をお返しいたします、サヴィトリ様」


 ゆらりと女は立ちあがる。うずくまっていたため今まで気付かなかったが、女の背は高く、サヴィトリと頭一つはゆうに違う。百八十センチ以上あるかもしれない。


(でっかい……って女の人に失礼か)


 女の背にかばわれるような状態になったサヴィトリは、ぼーっと女の顔を見上げる。さっきまで雷に震えていたのと同一人物だとは思えない。


「っ! なんであんたさんがこんな所にいるのでございます!? 馬鹿じゃないのでございます!」


 女の顔を見て、ニルニラは顔を引きつらせ数歩後ずさった。


(知り合い? それともこの女の人有名人?)


 状況がまったく読めないサヴィトリは、女の背に隠れて成り行きを見守る。


「御託はもう結構です。死にますか? それとも死にますか?」


 ビーフにしますか? それともチキンにしますか? と尋ねる乗務員のようにビジネスライクな笑顔で女は宣告した。


(……この人も明らかに関わっちゃいけない人種だった気がする)


 サヴィトリはこの場から逃げ出したい衝動に駆られたが、そのためには女とニルニラの二人を突破しなければならない。


「どっちもお断りでございます!! もう、ほんと今日はついてないのでございます! 星占いで十一位とか一番微妙でもやもやするのでございます! ああもう帰る帰る帰る!!」


 好き放題わめき散らすと、ニルニラは地面に向かって小さな玉を投げつけた。地面に当たると同時にもうもうと白い煙が立ちこめる。せまく通気性の悪い洞穴内ではなかなか煙が晴れない。


(思いっきりやられ役の逃げ方だな)


 と思いつつ、煙を吸いこんでしまったサヴィトリは激しく咳きこむ。


「失礼いたします、サヴィトリ様」


 声が聞こえた、と思った瞬間にはもうサヴィトリの足が地面から離れていた。視界が悪くて見えないが、横抱きにされて運ばれているようだ。


 煙とはまた別種の白さに目がくらむ。次にサヴィトリは目を開けた時には、雨で湿った山道が見えた。しばらくぶりに顔を出した太陽によって、そこかしこに残った露がきらきらと光っている。


「やんだみたいですね」


 サヴィトリの身体をおろし、女は空を見上げた。


「え、ああ、うん。はい」


 煙を吸ったせいか、ぼんやりしていたサヴィトリはよくわからない相槌を打ってしまう。


「では、またお会いしましょう、サヴィトリ様」


 女はたおやかな所作で頭を垂れると、まるで幻だったかのようにすっと去って行ってしまった。


(……名前聞かなかったな。でも関わり合いになると危なそうだし、まぁいいか)


 ニルニラの取り乱しようといい、女自身の言動といい、間違いなく一般人ではない。


(煙くさい。早く帰ってジェイに八つ当たりして風呂に入ろう)


 とはいえ、一人で帰るわけにもいかない。

 ヴィクラムを探すために休んでいた木の所まで戻るか、それとも洞穴の前でじっとしているべきか考えていると、見覚えのある姿が見えた。ヴィクラムだ。木のあった方向から道をくだってくる。


「勝手に動いてすまない」

「いや、雨に濡れて体調を崩すよりはいい。それより……」


 ヴィクラムは喉元に手を当て、言葉を濁した。


「ヴィクラム?」

「……いや、あいつがこんな所にいるはずもないな」


 自分に言い聞かせるように独りごち、ヴィクラムは目蓋を伏せた。

 何か事情がありそうだが、サヴィトリはあえて触れも憶測もせず、帰途についた。


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