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イナイチ  作者: タイヨウノトウ
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6月4日 土曜日(2)

 彼女の名前は氷川さんという。僕らが高校一年生のとき、学期末に成績上位者が表彰されたときに、一人だけ、女生徒の名前が呼ばれた。それが氷川さんだった。初めて会話をしたとき既に氷川さんは僕のことを知っていた。君が一番なん、すごいね、と言ってくれた。それから氷川さんはすごく勉強したのかもしれない。進級すると、いつのまにか僕は一番ではなくなった。

 高校三年生の夏、僕が部活動を引退するころには、氷川さんは全国模試でも上位に名を連ねるようになっていた。脚の故障で終わった僕の青春は、深い余韻となって凝縮されて、ころんと転がった。一生懸命勉強したつもりだったけれど、大学には受からなかった。氷川さんは笑顔で神戸へと旅立ち、僕は福岡の予備校に通うことになった。センター試験の点数の関係で、授業料は少し、安くなった。僕の抜け殻は雨に運ばれて川を流れ、海を漂った。脚は痛まなくなったが、肺が小さくなっていった。そのうちゆっくりゆっくり沈んで、何も見えなくなった。何度も水面にあがるのが苦しかったから、そこで僕は魚になることにした。自分より弱いものを見付けては食べて、たくさん泳いだ。

 回遊していた魚は、福岡の街で小さな古着屋を見付けた。ミルという店だった。オーナーのハマダさんは、またいつでも来なよ、と言ってくれた。魚は何度も何度もミルを訪ねて、たまには服を買った。ハマダさんは優しかった。本当かどうかわからないけれど、今日は君が来るかもしれないと思っていたよ、と言ってくれたりした。ミルは海の中にあるわけでもないのに、居心地がよかった。


 ミルのコーヒーの匂いを覚えた頃、一度だけ、心配してくれていた担任の先生に呼ばれて、母校の水面に顔を出した。そのとき、氷川さんも来ていた。僕は魚だから、あまり話したくなかった。氷川さんは、変わっていた。制服以外の姿を初めて見たから、印象に残っている。高価なものは身に付けていないけれど、柔らかく、自信に満ちた空気があって、どこか少しちぐはぐだった。


 魚は海底でじたばたして、なんとか大学に受かった。嬉しかったと思う。ミルでコーヒーを飲ませてもらっているときに氷川さんの顔が思い出されて、メールしてみたら、喜んでくれた。遊びにおいでと言ってくれた。それから魚は住処を探して、大阪に潜った。大学に行く準備を始めた。いつの間にか、氷川さんとつきあうことになった。氷川さんのためにも、大学に行くためにも、魚ではいけないだろうと思って、髪を切った。服はミルで買ったものがあった。確かに見た目は取り繕えたけれど、染みついた臭いや、再び陸へと上がることへの恐怖は拭えなかった。つまり僕は、人の皮をかぶった魚だった。長い間海底にいたから、人と接するために水面に出るのが億劫で、何もない自分が恥ずかしかった。

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