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イナイチ  作者: タイヨウノトウ
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5月27日 金曜日

九州出身の僕は、浪人を経て、大阪の大学に入学した。大学生活も気づけば2ヵ月が経とうとしていた。僕は、大学の友達には言っていないけれど、毎日のように神戸から通学していた。

 知らない言葉を聞いた。大学にはやはり関西の人間が多いけれど、全国各地から様々なバックグラウンドを持つ人間が集まっていることは知っていた。僕も大阪の生まれではない。その日、イナイチという言葉を発したのは広島出身の前原という友人であったので、大阪もしくは関西の方言ではないのかもしれないと思った。

 「朝からチャリでイナイチ爆走してきた。」

彼は言った。


 ゴールデンウィークが過ぎると講義に出る学生が減るらしいと聞いていたが、知った顔は皆さぼらず講義に出てきていた。しかし、連休を通して何か決定的な変化が彼(女)らに起こっているような気がした。休み時間の講義室には熱気が充満し、男女が会話をして、笑い声が響いた。講義中は居眠りをする者が増えたが、教官に質問する者も出てきた。サークル活動に必要な大きな道具を持ち歩く者があったり、朝から運動部のジャージで現れる者があったり、髪の毛を明るくする者があったり、誇らしげに先輩の話をする者もあった。つまり彼らは大学生になっていた。僕に起こった変化と言えば、イナイチの意味を知ったくらいであったと思う。もうすぐ六月にもなろうというのに、僕の日々は入学して何も変わっていないのではないか。もっと浮かれてもいいのではないか、未成年とはいえ大学生ならば酒を飲んでも許されるのではないか、やりたいことはないのか、そもそもなぜ大阪に来たのか、なぜさっさとサークルを選ばないのか、性欲はないのか、そういう声もあった。


 イナイチとは京都市南区から神戸三宮に至る国道171号線の通称である。その間に北摂、北伊丹、西宮を経由する、高貴な道のりである。大学に近い区間は片道二車線を基本として交通量は豊富であり、沿道にはコンビニより自動車販売店のほうが多い。健全なバスケットボールサークルに所属している前原は、週に何度かどこかの体育館でバスケットボールを楽しむためにイナイチ沿いに自転車で移動する必要があるようだった。このまま梅雨を迎えることはできないらしい。近いうちに原付を購入したいと言っていた。そのために彼は塾講師のバイトを始めていた。一方で、僕はまだバイトをするでもなく、サークルに入ることもなく、むやみに友達を作るでもなく、部屋に引きこもっているわけでもなかった。講義が終わるとすぐ下宿に戻り、最寄りの蛍池駅から阪急電車に乗って神戸の御影駅まで行き、次の日の朝、御影から石橋まで阪急に乗った後大学へ行く。それが僕の日常であり、客観的事実であり、揺るがすことのできない心の行いであった。休日は前原を含む何人かのグループで空いている者たちが集まってゲームをしたり、飯を食ったり、合コンについての意見を交わしたりしていた。空っぽであり楽観的であり腹立たしくもある週末であった。加速する時間だけがするすると足元を通り過ぎ、いっそこのまま取り残されてしまえと思うこともあった。


 講義を終えた僕は下宿に戻って着替えと次の日の講義の持ち物を取って蛍池から阪急に乗る。豊中岡町曽根服部庄内三国ときて十三で神戸方面へ向かう特急へ乗り換える。ここからは教科書を開いて予習をすることも多い。西宮北口か岡本あたりでローカルに乗り換えて、御影を待つ。この頃にはすっかり日が落ちて、ガラスに映る人影がはっきりと見えるようになってくる。六甲を過ぎると本をしまって、ドア付近を見遣る。何を食べようかと思う。彼女の好きなドラマのことを考える。左足のつま先を右足のかかとでとんとんとたたきながら、電車のドアが開いたら順番を待って、ホームに降りる。


 今日も御影に到着すると、一瞬、どろんとした空気がまとわりついて、生き物のにおいがした。歩き出すと、さわやかな風がそれらをさらっていった。エスカレーターを上ると、改札の向こうに、長い髪を前におろしてのっぺらぼうになった彼女が気を付けをして待っていた。

「おもんないで」

小さく髪が揺れて肩に力が入った。

「なんでわかったと?」

笑って、髪をまとめた。


  彼女は、神戸の大学の二回生である。僕らは同じ高校の同級生であったが、僕が浪人した分、彼女の方が一つ上の学年になっている。あまり化粧をせず、黒い髪を巻くこともなく、変な靴を履いて、猫背で、似合っているのかよくわからない服を着て、サークルで使う大きな楽器を背負って大学に通っている。もう1年以上神戸にいるくせに、少しも九州の方言が抜けていない。

 「今日、金曜だけんドラマ見な、帰ろ」

彼女は、大きなカブトムシのような後ろ姿で、ゆらゆらと歩く。

 「セグウェイ買って、セグウェイ」

 「無理やわ」

楽器を持とうかと提案しても無視されるから、彼女に合わせてゆっくり歩いた。



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