始まりの風が吹く
「ミィ」
図書館の帰り、バス停までの道を歩いていた私は下から聞こえてきたか細い声に足を止めた。
「?」
足元を見ると、小さな子猫が私を見上げていた。
「ニャアー」
目が合うと子猫は私の足にすりすりと身体を寄せてきた。
「可愛い子。でも、ゴメンね。ウチは動物は飼えないの」
抱き上げると子猫はグルグルと喉を鳴らし、私に縋りつくような仕草を見せた。
羽根のように軽い、力を入れたら壊れてしまいそうなその温かな存在に自然と笑顔になる。
私はほとんど無意識にチュッと軽く子猫にキスをした。
「みゆ!」
「え?」
突然名前を呼ばれて顔を上げると、そこには見知らぬ男性が立っていた。
「あ、あの、どこかで会いましたっけ……?」
「え?」
戸惑いながら尋ねると、今度は相手が戸惑いを見せた。
「だって、美夕って私の名前を……」
「あ、みゆ?その猫の名前なんです」
「そ、そうなんだ……」
ばつが悪そうに答えた男性は私の腕に抱かれている子猫に両手を伸ばし、おいでと優しく言った。子猫はぱっと彼の腕に飛び込んだ。受け止めた時の彼の包み込むような優しい笑顔に、私は一瞬見入ってしまった。
男の人と話すことなんてめったにない。
いつも家と図書館の往復だけの私の行動範囲はとても狭く、友人と呼べる人はいない。
「あの……君の名前もみゆっていうの?」
「え?あ、はい……!」
必要以上に大きな声が出てしまった。顔が赤くなっていくのがわかる。恥ずかしい、見とれてしまうなんて……。
「そうなんだ。可愛い名前だね」
「い、いえっ。そんなことは……」
「こいつ、すぐ逃げちゃうんだ。この辺りは車通りが多くて危ないのに。保護してくれてありがとう」
「ほ、保護なんて、そんなんじゃ……ただ、可愛いなって……」
緊張で声が上ずってしまう。
きっと耳まで真っ赤になっているだろう。恥ずかしくて消えてしまいたい。
「とにかく、ありがとう。それじゃ」
爽やかに礼を言うと彼は踵を返し立ち去ろうとした。
「あっ、あのっ……!」
何故こんな行動に出たのか自分でもわからない。
「名前、教えてもらえませんか?」
こんな大胆なこと、今までしたことない。
「もし、良かったらだけど……」
自分の取った行動を客観的に見て、恥ずかしさのあまり語尾は聞き取れないくらい小さな声になった。
馬鹿みたい。なんでこんな……怪し過ぎる。おかしな女だと思ったに違いない。
「何でもないです、ごめんなさい!」
もう顔を上げるのも恥ずかしくて、彼の答えを待たず、私は逃げ出した。
「ちょ、ちょっと待って……あの、佐藤です!」
「え?」
振り返った私の右手は、彼の右手の中にあった。彼のもう片方の手は、子猫のみゆをしっかりと抱いている。
「佐藤春樹です。よろしく、美夕ちゃん」
さっき子猫に向けた笑顔を見せ、彼は笑った。
「また、会えるかな」
たぶん初めての胸の高鳴りに眩暈を感じる。
生きているって、こういうことなんだろうか。
不安と希望が入り乱れる中、私も彼に笑顔で答えた。
◇◆◇
「お、いいねー。恋の始まりって感じで。美夕、目ェ覚まして良かったじゃん」
上から見ていた俺は、隣にいるソールに同意を求めた。
「さあな。私にはわからない」
ソールは素っ気なく答えた。
「あんた神様のクセにわからないこと多過ぎじゃね?しかも気まぐれで人間に力与えてみたり、責任感じてみたり……」
「ああ、そうだな。私はまだまだ未熟だ」
ふてくされたように言ったソールは、ところで、と話題を変えてきた。
「お前が転生をせず私の助手になった理由をまだ聞いてない。何故だ?」
その問いはもう何度も聞かれ、はぐらかしてきたものだ。
俺は転生を選ばず、もうしばらくソールの助手として実体のない存在のまま暮らすことを選んだ。
「……するよ、転生。そのうちね。やってみたいことがまた一つ増えたし」
「何なんだ?新しい遊びでもみつけたのか」
「恋」
「コイ?」
「そ。恋してキスとかしてみたい」
連絡先を交換し合っている美夕達を見下ろしながら言うと、ソールは何やら思案顔で呟いた。
「キス……ね。してみるか?今ここで」
「はあ!?」
反射的に飛び退いた俺にソールはニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべている。
「あのね、俺、男の子よ?」
「それは違う。無意識に前世の性別を引きずっているから自分を男だと思い込んでいるだけだ。その言葉遣いもな。ちなみに私にも性別はない。なので私とお前がキスをしてもそれは異性間のキスにも同性間のキスにも該当しない」
至極真面目にそう述べるソールに俺はげんなりする。
「げー、全然おもしろくないじゃん、そんなの。生産性とか発展性とか……」
「何を言っているのか知らんが、キスするのかしないのかはっきりしろ」
「ヤダヨ、あんたとキスなんかしたら……」
「したら?」
ジィ、と睨むようにみつめてくるソールの顔は、人間界で言うところのイケメンだと思う。
こんな奴とキスしたら……。
「世界が変わっちゃいそう」
「……ああ、そうだな。こことは違う世界に行けるかもしれないぞ。物は試しと言うしな。ここは一つやってみようじゃないか」
さあ、と顔を近付けてきたソールの唇を見た途端、何かが体中を駆け巡った。
「あー、もぉ、やめろって。無理無理、本当に無理だから!」
それを悟られたくなくて、俺は行こ、とソールの袖を引いた。
「どこへ?」
「どこでもいい。どこへ行ったって、きっと楽しいだろ?あんたと俺の二人なら」
「……ああ」
そう頷いたソールの目線を追って俺は眼下の美夕を見た。
雲一つない晴れた空に爽やかな風が吹いて、出会ったばかりの恋の相手と楽しそうに立ち話をする彼女の髪をふわりと撫でた。彼女の新しいスタートを祝福するように。
次に会う時は、美夕がこの世界に別れを告げる時だろう。
あんまり生き急いで死ぬなよ、美夕。幼なじみの分までしっかり生きろ。
「幸せに」
去り際にそう呟いた言葉は、風に運ばれて美夕に届くだろうか。




