覚醒へ
五十嵐夏生――――その名を聞いた時、何故か大きく脈打つような鼓動を感じた。
「……」
そっと胸に手を当ててみたが、俺の心臓は動いていなかった。そもそも今のこの身体は実体じゃないんだ。中を割って見たわけじゃないけど、臓器とか血液の類は入ってないんじゃないかな。たぶん空っぽだと思う。
「で、目を覚ます気にはなった?」
俺は自分の身に起きた変化は無視して美夕に尋ねた。
美夕は俺の問いに目を伏せた。
「あなたが言うように、結果にこだわらずいろんなことをやってみたいって気もする。だけど……」
「だけど?」
「今話した幼なじみの男の子に悪い気がして……彼が死んだのは、私のせいでもあるから」
「そうなのか?」
「否定は出来ない」
答えたのはソールだった。
「五十嵐夏生は彼女の暴走を止め、歪んだ空想の世界を消滅させる為にその命を差し出した。結果、犠牲になる筈だった人間達は事なきを得、そのほとんどが今もこの世界で元の姿のまま生活している」
「……何だそりゃ。全然わからん」
首を捻る俺にソールはどこか切なげに笑った。
「お前は知らなくていいことだ」
「死に神さん……あなたは知ってるのね、三年前のことを。私、わからないの……なっちゃんが死んだ瞬間、ルシフェルの声が聞こえたの。彼は私を生け贄に差し出してフェアビューランドを消滅させるつもりだったって。その為に転移のキスをしに来た筈なのに……どうしてなっちゃんはあの時私にキスしなかったのかしら。それに彼、私にあんな暗示を――――」
「それは五十嵐夏生本人にしかわからない」
「そう……」
二人の会話は俺には意味のわからないものだった。なのに何故だろう、トクン、トクンと……空洞の筈の俺の身体はまた鼓動を感じていた。
「五十嵐夏生はお前は悪くないと言っていた。眠っているお前がどんな夢を見ても何を想像しても罪にはならないと」
「なっちゃんがそんなことを?だって私は彼とルシフェルにあんな酷いことを……」
「あの一件については私にも責任があると感じている。ルシフェルに力を加えたのは、この私だからな」
「……ルシフェルが言ってた神様って、あなたのことだったの……!?」
「ああ。あの頃の私は人間という生き物が不可解で仕方なかった。醜くて意地汚くて自己中心的で、それなのに博愛や自己犠牲の精神も持っている……そんな矛盾だらけのお前達人間に興味があった。だから……偶然出会ったルシフェルに力を与え、アレがどんなものを創るのか見てみたくなったのだ。結果、自殺を図って死ぬ予定だった五十嵐夏生の魂はルシフェルと共にこちらの世界と異世界をさ迷い、あの事件を引き起こした。ある意味私のせいだとも言える。それで私は、彼の死後……」
「なあ、俺ってこの場に必要?」
二人の会話に入れず、俺はソールの袖口を引っ張った。
何となく、その話はして欲しくなくて。わざとわがままに振る舞った。
「ああ……すまない。笠原美夕、話はここまでだ。肉体を覚醒させる道を選ぶか、このまま眠り続けて肉体が朽ちるのを待つか。いずれにせよ、いつかは死ぬ。それが自然の摂理だ。ただ、お前がここで目覚めるかどうかで幾人かの人間の人生が多少変わる。それだけだ」
ソールはなだめるように俺の肩に手を置くと、美夕にはいつもの無表情でそう言った。それは誰かに死を告げる時の顔と同じだった。
「美夕、どーすんの?あんたの人生だ。あんたが決めなきゃ」
「……」
美夕は不安げに揺れる瞳で俺を見、そして頷いた。
彼女の心は決まったようだ。
◇◆◇
「暗いし、怖いわ」
「大丈夫」
暗闇の中、俺は美夕の手を取り歩いていた。
「目を覚ましたら、なっちゃんのこと忘れてしまうのね……」
彼女が呟いた言葉に俺はどう返したらいいかわからなかった。
「忘れた方がいいってことなのかな……」
誰に言うでもなく、彼女はまた呟いた。
「大丈夫だよ。絶対楽しいことばっかだって!」
根拠なく励ます俺に美夕は困ったように笑った。そしてつないだ手に力を入れて不安そうに言う。
「ねえ、何も見えない。私、本当に目を覚ますことが出来るの……?」
そんな彼女に俺はソールに教わった通り、光の方へ導く。
「何も見えないのは、君が目を閉じているからだよ。さあ、目を開けて。怖くなんかないよ」
「うん、ありがとう」
「美夕……」
「何?」
目を開けてこちらを向いた途端、彼女は眩しい光に包まれて俺の前から姿を消した。
もう彼女には聞こえないとわかっていて、俺は言った。
「ガンバレ、美夕」
目覚めればきっと、そこは光あふれる世界。
祝福を、美夕――――始まったばかりのこれからに。




