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たとえばこんなディストピア  作者: おきをたしかに
*キスから始まる異世界転生*
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新しい朝

 いい匂いがする。パンの焼けるいい匂い。それから、いつも優しい母の声。

「美夕、起きてる?朝食の用意出来てるわよ」

「はーい」

 毎朝ベッドから起きる度に思う。


 信じられない。


 自分がこうして普通の生活を取り戻したことが。

 自分自身の力で身体を起こし、自分の足で歩いていることが……私は未だに信じられない。

 夢を見ているんじゃないだろうかと疑ってしまう時もある。

 鏡を見て確認する。夢じゃないと。

 

 私は、生きているんだ。


◇◆◇


 私は十三歳の時から六年間意識不明だった。

 生まれつき病弱だった私はいくつもの病を併発し、小学校を卒業する頃にはもう自分の力では起き上がることさえままならない状態だった。

 入退院を繰り返して、体調の良かった時に許可が出た一時退院で自宅に戻った時、浴室で倒れそのまま意識不明になった。

 眠っていた間のことは、当たり前だが覚えていない。どんな夢を見ていたのかも。

 十九歳の誕生日に突然意識が戻り現在に至るわけだが、覚醒してからの日々は目まぐるしく、驚くことの連続だった。

 六年ぶりに見た両親はすっかり老け込んでいたし、鏡で見た自分の顔もだいぶ変わっていた。

 筋力が衰えていたのでリハビリはかなり辛かったけれど、今はもう自力で歩くことが出来るようになった。

 私が眠っている間に医学が僅かばかり進歩して、通院や投薬治療を続けながらではあるが普通の暮らしを送ることが出来るようになった。

 がらりと変わった世の中に追いつこうと、今も本やパソコンでいろいろ勉強中だ。服の流行り、携帯電話の機能……新しいことを見聞きする度に胸が高鳴る。

 生きていることがこんなにも素晴らしいことなんて、以前の私は知らなかった。

 欲しいものを全て手に入れたようで、今はとても幸せだ。


 ただ一つだけ、私が六年という月日と一緒に失ったものがある。

 それは記憶だ。 

 といっても一部だけなので生活に支障はない。

 私が忘れてしまったのは、仲の良かった幼なじみの男の子のことだ。

 彼の写真もあるし、私自身がつけていた日記にも度々彼は登場する。

 だけど私は彼を知らない。全く覚えていないのだ。

「あんなに仲が良かったのに。将来美夕はなっちゃんのお嫁さんになるんだっていつも言ってたのよ」

 母はそう言うけれど。

 彼と自分の絵を描いたスケッチブックが大切に保管されていたけれど、絵にも覚えがないし、実を言うと興味もない。子供の頃のことだもの。

 ただ、初恋だったであろうその相手の男の子のことをきれいさっぱり忘れてしまっている自分を少し薄情だと思う。

 いつか会える日が来るだろうか、その彼に。

 彼は今どこで何をしているのか母に尋ねたことがあるが、遠くに引っ越してしまったそうでわからないそうだ。その時、少しだけ母が顔を曇らせていたような気がする。だけど私は理由を尋ねはしなかった。正直なところ、覚えてもいない男の子のことなどどうでもいい。そう思ったから。


「美夕、大丈夫?やっぱり送っていこうか?」

 トーストを頬張る私に母が提案してくれた。

「ううん、大丈夫。一人で行ける」

 今日は図書館に行く予定だ。

 私は今通信制の高校に籍を置いている。まだ長時間の外出は身体に負担がかかる為、いつもは家で過ごすことが多い。

「借りたい本って何の本?」

「電子工学の本を何冊かね」

 母特製のふわふわのオムレツを口に運びながら答えると、母は妙な顔で私を見た。

「なあに?」

「人って変わるものなのねえ。美夕は昔は童話が大好きで自分でお話を書いたりもしてたのよ。ママ、美夕は童話作家になるのかなーって思ってた」

「子供の頃の話でしょ、それは。童話なんて十九、二十歳の子は読まないわよ」

「そうだけど……そろそろ料理の勉強もしてみない?今日のお夕飯、ハンバーグよ」

「料理~……結婚してからでいいわ」

 料理には全く興味がない。実を言うと結婚にも。

 私の母は料理が得意で良妻賢母を絵に描いたような女性だ。尊敬はするけれど、自分が彼女のようになれるか、なりたいかと聞かれたら……今はまだわからない。

 朝食を終え、身支度を整えながらふと思う。

 料理には興味ないけど……ハンバーグの作り方くらい覚えておいて損はないかな。母の手伝いにもなるし。

「美夕~、もうバス来ちゃうわよお。本当に送らなくて平気?」

「うん、お昼までには帰ってくるね。あ、あと、ハンバーグの作り方、やっぱり教えてもらおうかな」 

 玄関で靴を履きながらそう言うと、母は嬉しそうに微笑んだ。

「わかったわ。一緒に作りましょ。いってらっしゃい美夕、気をつけてね」

「いってきまーす」

 玄関を開けると、眩しい太陽と爽やかな風が私を出迎えてくれた。

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