キスで異世界へ
きっかけは俺自身の自殺未遂だった。
「どこへ行くの?」
自宅マンションのベランダから飛び降りようとしていた俺に、何処からともなく現れた女は言った。
「知ってるの?そこから飛び降りた後、自分がどこに行くのか」
「……知らね。どこでもいいんだ……ここじゃなければ」
見知らぬ少女が突然自宅に現れた違和感も、彼女が今まで見たこともないくらい美しい容姿だったことも、その時の俺にはどうでもよかった。
あの時の俺は身も心もズタボロだった。
学校の奴らは俺のことを“ゴミ“と呼んだ。
何が理由で始まったのか、自分ではわからなかった。
目つきが悪かったのか、受け答えが悪かったのか……いろいろ思い悩んだ。
後からイジメのきっかけを知った時は、ナンダソレって思った。
いや、きっと理由なんて要らなかったんだ。
単なる暇つぶし。ストレス発散だ。皆楽しそうにやってたよ。
俺にとって、学校は地獄だった。
殴る蹴るの暴行は当たり前だった。
持っていた金はすべて奪われ、好きだった女の子の前で素っ裸にされて便器に顔を突っ込まれ……思い出しただけで吐き気がする。
死ねばいいって思った。
俺を虐める奴らも、遠巻きに見て笑う奴らも、見て見ぬふりをする奴らも。
殺してやりたい。
だけど、そんなこと出来るわけなくて。疲れて……逃げ出すことを選んだ。
「どこでもいいんだ……」
繰り返し呟いた俺に、あの女はこう言った。
「じゃあ、私が決めてもいい?」
俺を覗き込むその瞳は赤く妖しく輝いていた。
その中に映るのは、ちっぽけで惨めな自分……。
「……ああ、いいよ」
自暴自棄になっていた俺の返事を聞き、ニッと笑った彼女の唇は桜色で形が良かった。
それが急接近してきて――――。
「……!?」
◇◆◇
キスをされたのだと気付いた瞬間、ぐにゃりと視界が歪んだ。
そこから先はよく覚えていない。
途端に地面がなくなった。自分が上に向かって飛んでいるのか、それとも下に向かって落ちているのかわからなくなった。
重力から解放されたようでもあり、押し潰されそうなGを感じているようでもあり……。
眩暈と吐き気を堪えながら俺は目を開けた。
「ど、どこだ、ここは……」
そこは緑の草原だった。
昔絵本で見たような、男の子と女の子が羊達とのどかに遊んでいる風景。
「ようこそ」
「!?」
声の主は、先程俺の家のベランダに現れた女だった。
「ようこそ、フェアビューランドへ」
ニッコリ笑いながら俺の傍らで花を摘む彼女は、妖精のように綺麗だった。
「ふぇ、ふぇあびゅ……」
「フェアビューランドだよ、はい」
「?」
彼女は摘んだ花で作ったレイを俺の首にかけ、歓迎の印だといって頬にキスをした。
「あの……き、君は……」
「私はルシフェル。あなたはナツキ」
「なんで俺の名前……?」
「知ってるよ。五十嵐夏生、十六歳。得意科目は生物と数学。苦手なのは体育と……人間関係。最近学校を無断欠席してる」
名前どころか俺の全てを把握しているような口ぶり――――はっきり言って不愉快だ。
「ストーカーとかじゃないだろうな?」
「ストーカー?違うよ」
ルシフェルは、じっと俺を見据えてこう言った。
「私は貴様の主人だ」




