異世界転生、売ります
「お兄さん!おにーいさん!」
軽い調子で声をかけると、下を向いて歩いていた男は迷惑そうに顔を上げた。
歳は三十代前半といったところだ。おおかた俺のことは怪しい商売の勧誘か何かだと思っているんだろう。
まあ、実際そうなんだけどね。
「暗い顔しちゃって。何か嫌なことでもあった?仕事クビになったとか、オンナノコにフラれたとか」
「……」
あからさまな嫌な顔。
「あー、ごめんねえ。俺って怪しいよねえ。自分でもそう思うよ。でもさ、話だけでも聞いてみてくんないかな。聞くだけならタダだから」
「え、いや、いいです」
「そんなこと言わずにさ」
男は俺から逃げようと、踵を返して立ち去ろうとした。そいつの腕を掴んで耳元でこう囁く。
「異世界転生、売りますよ」
「……!?な、な、何言って……」
男は馬鹿にしたような表情を見せた。
「宗教の勧誘なら、間に合ってます」
「違うよ、そんなんじゃないって」
「……何にしても、結構ですから」
心底迷惑だと書いてある顔で俺を睨み、彼はまた歩き出した。
「あっそ。じゃあいいよ、他の奴に売るから。誰もアンタを知らない、新しい世界への切符」
奴が足を止めた。
――――ターゲット、ロックオン。
「何を……馬鹿なことを……」
ホラ、引っかかった。
「嘘だと思ってるんだろ。でもな、実際行けるんだぜ。通行料を払えばな」
「……」
疑心暗鬼で俺を睨む彼に、わざとへらへらしながら話した。
「いくらか知りたいんだろ?十円」
「十円?」
男はせせら笑い、財布を取り出した。
「やるよ、だからもう構わないでください。ね?」
そう言って男は俺に百円玉を一枚握らせた。
「お釣りは要らないから」
厄介払いをした気でいるんだろう、男はまた歩き出した。
「……毎度あり。じゃ、行こうか」
後を追ってきた俺に男はいい加減にしてくれと目で訴えた。
「行くって何処へ?」
「言っただろ、異世界だよ。誰もアンタを知らない場所」
男は初めて俺の顔を真正面から見た。軽蔑の眼差しだ。もう何度も味わった……。
「ハハハ……そんな世界に行けたらいいですね。けど、どうやって?」
「キスだよ」
「はあ?」
「キスすんの、俺と」
「じょ、冗談じゃない、何で見ず知らずの男と………………っ!」
有無を言わさず唇を奪ってやった。
ひくついてやがる。ちょっと強引過ぎたかな?
いや、こうでもしないとこのタイプはダメなんだ。
自分で自分のこと決めきれない優柔不断な臆病者。
自分を見ているようで腹が立つ。
「……!」
唇と唇が触れた瞬間、男の今までの記憶が俺の中に流れ込んで来る。
『採用通知、何処からも届かないの?資格ばかり取っても、就職出来ないなら意味がないのよ……』
『お前ももう三十三だ。とっくに就職してなきゃならん歳だぞ。結婚して子供がいたっておかしくない年齢だぞ。それがいつまでもこうして親のスネを齧って……』
『兄貴っていつまでこの家に居んの?一日中部屋に引きこもってさ……恥ずかしいんですけど』
『バイトでいいから、何か始めたら?少しは外の空気を吸って……』
急流の川の流れのように、この男の人生が俺の中に入って来る。
ゾクゾクとするこの感触には、いつまでたっても慣れることが出来ない。
そもそも俺はキレイなおねーさんが好きなんだ。男とキスなんて、やりたくてやってる訳じゃない。
仕事だ、仕事。
老いも若きも、男も女も、この世は心の寂しい奴らで溢れている。
家族がいても恋人がいても、学校や仕事があっても……ふとした瞬間訪れる孤独。
暗い暗い海の底の色をした闇。
みんな気付かないふりをして日常生活に戻るけど、一度生まれたその闇は消えることがない。
心の隙間に吹き込む北風。
それに耐えられなくなった時、人は逃げ出したいって欲望にかられる。
人はみんな寂しい生き物なんだ。
そんなお前達を連れてってやるよ。夢のような異世界へ。
そこは誰も自分を知らない場所。
一度は思ったことある筈だ。現実から解放されたいって。
わかるよ。俺もちょっと前までそうだったんだ。
――――あの女に会うまでは。
「いってらっしゃーい。ハッピーなニューライフを~」
俺の声はキスした相手の耳には届いていないだろう。もうあっちの世界に着いてる筈だ。
彼が居た場所にはもう何もない。何の痕跡も残さず、文字通り蒸発したんだ。
大丈夫、誰もお前のことなんか捜さないよ。
ヒラヒラと手を振りながら空を見上げると、カラリと晴れて雲ひとつない青空が広がっていた。
「あと、十八人……」
次の標的をみつける為、俺はまた歩き出した。