恋人気分
【第75回フリーワンライ】
お題:
離れられる距離感で
滑らかな肩をそっと包んで
愚者の恋
フリーワンライ企画概要
http://privatter.net/p/271257
#深夜の真剣文字書き60分一本勝負
落とした拍子に開いた二つ折りの財布。ぼくはそれをちらりと見て、
「あの、お財布落としましたよ」
手渡した。
それが彼女、眞貝綾との出会いだった。
ぼくらはアンティークショップに入った。
小物を手に取る彼女の隣に立ち、ちらりと横顔を盗み見る。二人の肩と肩の間に、一歩分の空白を置く。ほんの少し足をずらすだけで、お互いの呼吸がわかるだろう。でも、今はこれでいい。つかず離れず。この距離の居心地がいい。
横から見る綾は小顔、小鼻でまるで作り物の人形のようだった。さらりと揺れるショートボブからなんとも言えない爽やかな香りがする。
綾は真剣にグラスを比較していた。この世の終わりにする苦渋の決断のように眉根を寄せて。
緻密な細工の施された左がいいか、小さくて丸っこい右のグラスがいいか。
どっちがいいだろう?
綾が並木道をずんずん歩いて行く。ぼくはその数歩後ろ。
うーん。右がいいと思ったんだけどな。あの細工は見るからに繊細だったし、美しい工芸品ではあったけど、可愛らしい綾の雰囲気には合わないと思った。今もそう思ってる。
行く手の先にぼくの好きなカフェテリアが見えてきた。
どうだろう、あそこで一休みして気持ちを切り替えるというのは?
ふと見ると、ぼくの前を歩いていたはずの綾がいなかった。きょろきょろと彼女の姿を探すと、道の端にある手摺りに立ち止まって、流れる川を見下ろしていた。
何を見ているのかと覗き込むと、この辺りでは珍しい鳥がいた。白鷺だ。
チケット売り場を離れると、彼女はずかずか進んでいった。
ぼくは少し恥ずかしげに、売り場へ声をかける。
「今の彼女と同じのを」
売り場の向こうで不審そうな顔をしながらも、きちんと大人一枚を手渡してくれた。シリーズものの映画最新作だった。ぼくらが生まれる前からあるスペースオペラ。何年かぶりの新作で話題になったが、意外とミーハーだ。
彼女がお構いなしに場内へ入っていくから、ぼくはジュースもポップコーンも買えなかった。
今日はどうにも噛み合わないな。
夕暮れが近付く駅前は混雑してきていた。
人の波に巻き込まれてしまって、彼女との距離が随分近い。彼女もぼくも窮屈そうに歩く。
時間的にも、デートの締めにしても、そろそろディナーにしたいところだが、この辺りだとどの店がいいだろうか。そして、どう彼女に声をかければいいだろうか。ぼくの胃袋は専門店の肉厚ハンバーガーを求めている。彼女が納得するかどうか。
迷っても仕方がない。無難にお伺いを立てよう。彼女の触れると崩れそうな華奢な肩を、そっと包むように手を伸ばす。
すい――不意に向きを変えた彼女はその手を逃れた。そのまますたすたと離れていき、人波に乗って鉄砲水のように駅の改札口へ消えていった。
幻になった彼女の肩を掴むことが出来ず、ぼくはその右手を下ろした。
「何が駄目だったんだろう」
一人呟く。
確かに今日はずっと噛み合わなかった。彼女――えーと、なんて名前だっけ? 今朝拾った財布の身分証で見たんだけど――の行動は一事が万事ぼくの逆を行っていた。
見知らぬ女性のすることはさっぱりわからない。
やっぱり、きちんと声をかけないとデートにならないな。
『恋人気分』
主に「愚者の恋」というお題から思い付いた、「違うのかよ!」みたいなオチ。時間があればもうちょっと細部凝りたかった。
彼女の名前を「まがい(まがい物)」とか「あや(言葉の綾)」から取ってみたり、白鷺を登場させてみたり、そこはかとなく恋人関係が嘘であることをほのめかすワードをちりばめてみたのだけど、読んでてわかってもらえただろうか。