銀狼と異国語とはじめまして
お読みいただきありがとうございます。
あと2話ほどで、加藤サイドが区切りになる予定です。
彼を見つけてから、まる3日が過ぎた。
あれからオレは、恩人であろうその人から苔を取り除き、あの不思議な寝床のようなものに寝かせ、派手な布をかけた。その作業が終わるころ、洞窟の入り口から朝日が差し込み、穴の向こうは外なのだと知った。
周囲を伺いつつそっと外に出てみれば、そこは思った通りの谷底で、目覚めた晩に聞いた恐ろし気な声の持ち主の気配はなかった。しかし、少し意識を向ければあちらこちらにモンスターらしき存在を感じ、やはり危険な死の谷の底にいることを再認識したのだった。
洞窟に戻り、それからはずっと彼の様子をみて過ごした。苔から抱き起した時は冷たく、まるで死人のようだった身体は日を追うごとに熱を持ち、今では燃えるように熱くなっている。息も荒い。時たま苦しそうに呻き、身じろぎをする。その苦しそうな様を見るたび、どうにかしてやりたいとは思うが、結局なにもできないまま、もう3日も経ってしまった。
顔の真っ白さと頬の模様は、どうやら何かで描かれているようだった。彼が汗をかき、顔を寝床やかけ布、腕などに擦りつけるたび、少しずつ剥がれ、薄くなってきている。もしかして消してあげたほうが良いのかと、一度壁の湧水で洗ってみたが落ちなかった。あまり強く擦るのも悪いと思い、半端に薄れたままにしておいた。
『う……くっ…。』
また、彼が身をよじる。徐々に苦しむ頻度が上がっているように思い、心配になる。おろおろと彼に近づいてみては、何をするでもなくまた離れる。看病というもののやり方を知らないことが恨めしい。オレが普通であれば、忌み子などという生まれでさえなければ、この人の役に立てたかもしれないのに。
『……ふっ。…あつ、い。……みず。』
暗い考えに捕らわれそうになったところで、今までとは違う、掠れたような声が届き、はっと顔を上げる。素早く彼のそばに寄り、その顔を覗き込めば。
『……あぁ、お兄さん、起きたんだ…?おはよぅ。』
うっすらと開いた眼の中、見たこともない美しく輝く金色の瞳にオレを映すと、意味はわからないものの、確かに何か声をかけて、彼はニッコリと微笑んだ。
『んー…よく寝た。あ、おはよう。ベット譲ってくれたんだね、ありがとうー。』
這うようにして壁の湧水に向かい、直接なめるように水を飲んだ後その場でまた眠ってしまった彼を寝床に戻してから、2日目の朝。のんびりとした動作で起き上がった彼は、そんなことを言いながら此方を向いて笑った。
溶けかけた白塗りと赤の模様が奇妙だが、警戒のかけらも感じられない態度と他意のない笑顔、それからやはり聞き覚えのない言葉に戸惑う。このような屈託のない表情は、まだ幼い妹を除けばついぞ向けられたことがない。敵意がないのは明白だった。
「……身体は、大丈夫なのか。」
しばらく考え、此方にも敵意がないことを示すように両手を挙げて、尋ねてみる。少し声が震えた。どうやらオレは緊張しているらしい。気づかれないようにそっと、長く息を吐き、呼吸を整える。
『……あれ?あぁ、そうかー…言葉が…。』
オレの返事が遅かったからだろう。コリをほぐすように腕や首を回していた彼がこちらを向き、わずかに目を見開く。オレの目をじっと見つめる瞳は黒い。一昨日目覚めた時は黄金色だと思ったのだが、見間違いだったのだろうか。
不思議に思いながらオレも見つめ返す。また何事か呟いた彼は何度か軽くうなずき、視線を切って立ち上がる。そのままふらりと湧水に向かい、バシャバシャと顔を洗い始めた。
豪快に洗い、どこからともなく取り出した布で顔を拭き、その布を見て顔をしかめる。チラリと此方に視線を向けると少し気まずそうに頭を下げ、足元から何かの容器を取り出してその中身を顔と頭に塗り付ける。しばらく揉みこむようにしてから、また再び顔と、今度は頭も洗っていった。
『ふぅ…。メイクしてたの忘れてた……吃驚させちゃったろうなぁ。』
途中また何事か呟きながら、先ほどよりも丁寧に洗い上げる。みるみるうちに、髪から色が流れ落ち、その色が変わっていく。少し驚いたが、なるほどそうか、とオレは小さく頷いた。
呟きは呪文なのだろう。彼は、先生だったのだ。
村に数年に一度やってくる、力のあるヒューマンをオレは先生と呼んでいた。彼らは摩訶不思議な言葉を操り、超常の現象を引き起こす。たしか先生は自分たちのことを、ケンジャーやマジーシャンと呼んでいたはずだ。
彼がそれなのだとすれば、危険な死の谷にいたことも理解できる。先生たちが言うには、ケンジャーは知識を、マジーシャンは魔素を求めて、身の危険すらも厭わず冒険に出かけるものらしい。オレは彼らが好きだった。マーチャートンや他の様々な理由で村に来るヒューマン達とは違い、彼らは誰一人としてオレを差別しなかったのだ。
家族と毛色が違うと言ったオレに、遺伝、だとか、変異、だとか聞きなれない言葉で何くれと説明をし、オレが理解していないのをみると笑って、とにかく、異常ではないから心配するな、と認めてくれた。
オレが英雄と言われるほどになったのも彼らのおかげだ。村のしきたりなら仕方がない、と言いながらも、谷淵の人目につかない場所で、オレに闘うすべや、生き残るすべを教えてくれた。賢い彼らの言うことはオレには殆どわからなかったが、それでも先生1人につき、必ず1つか2つのことは覚え、できるようになるまで教えて貰えた。
地味なマントを羽織っていた今までの先生たちとはあまりにも違う見た目だったので気付かなかったが、こういう先生もいるのだろう。嬉しくなったオレは、びしょ濡れになった髪を布でガシガシと拭き始めた彼のもとに跪き、挨拶をした。
「先生、はじめまして。オレはトール・タンシュライン。先生たちの教えでヤクトヴォルフ村の英雄になれた忌み子です。先生はケンジャーですか?マジーシャンですか?今回は死の谷に、何を調べに来たんですか?…ここにいる間、一緒にいても、いいですか?」
顔の模様のとれた彼は、思ったよりずっと幼い容姿をしていた。オレより若いかもしれない。桃と黄緑の斑色だった髪は紫がかった黒になり、毛先を中心にところどころが黄金色に輝いている。
挨拶とお願いを一息に言ってのけたオレをキョトンとした顔で眺め、彼は一言呟いた。
『……え?』
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