第2話
「ぎゃああ!」
自分の叫び声と共に目覚めた雛希は、ベッド脇の目覚まし時計を確認した。時間は六時。いつもの起床時間より三十分も早い。このまま布団に潜ろうかと考えたけれど、ひんやりとした朝の空気で余計目が醒めてしまい、結局起きる事にした。
まぁ目が醒めたのはそれだけではないけれど……。今見ていた夢の内容を思い出して、雛希は頭を振った。
「おはようヒナ! 今日も早いんだね?」
家にいてもする事がないので、早めに支度を済ませて学校へ登校した。先に着いていた遥菜が雛希を見つけてやってくる。ふと、遥菜の手に見覚えのある手袋を見つけた。
「それ、昨日買ったやつ?」
「うんそうだよ!」
昨日雑貨屋で見つけた可愛い手袋――本当は雛希も買おうと思っていたが、トイレに行っている間に遥菜が購入してしまったらしい。恐らくそんな事だろうとは思っていたので、雑貨屋から帰る途中も遥菜が下げていた紙袋の中身は聞かないでおいた。
こういう事が過去に何度かあったので、雛希はその度に遥菜が持つ物を気にしないよう努めなければならなかった。好みが似ていると言われてしまえばそれまでだけれど、一点物の好みまで似るというのは辛い。それも大体は雛希が最初に見つけて買おうか悩んでいる最中に遥菜が買ってしまうのだ。優柔不断な自分が悪いんだと言い聞かせて、その後はなるべく気にしないようにしていた。
けれど今回のこの手袋は最近欲しいと思った物の中でも一番可愛かった。だから雛希は遥菜の手袋から目が離せず、遥菜がそれをカバンに仕舞って雛希を呼ぶまでずっと見てしまっていた。
「ヒナ、今日もついてきてほしいんだけど」
「……二組に行くの?」
「うん!」
ニコニコといつものおねだりスマイルで見つめてくる遥菜の目は雛希が断る事を想定していない様子だ。雛希は普段なら二つ返事で承諾するところだが……今日は違う。朝の夢を思い出して、雛希は口ごもった。
「あー、えーと……私今日は予習やってきてなくて。遥菜一人じゃいけない?」
「え-。ヒナ頭いいから予習なんてしなくていいじゃん。ねぇ行こうよ」
口を尖らせて遥菜が悲しそうな顔をする。咄嗟に嘘を吐いてしまった事に何だか後悔してしまい、雛希は結局首を縦に振った。そしてまた思い出した。夢の中の出来事を――それは昨日の高槻の一言だ。
――誰かに言ったらぶっ殺す
怖かった。あれはもう二度と体験したくない。雛希は夢に見る程に高槻の事が怖かった。
二組の教室へ向かうと、いつも通りのメンバーが隅の方に集まり今日もトランプをやっている。……もちろん高槻嘉文もいる。
雛希は自然と高槻へ視線を向けてしまったが、高槻はこちらを見てはいなかった。トランプを持ったまま何やらノートと格闘しているらしい。ほっとしたのも束の間、遥菜は真っ先に高槻の元へと駆け寄っていった。
「あー高槻君、今日の宿題やってないんだ?」
「……忘れた」
「ばっかでー高槻」
遥菜や他の男子が高槻をからかう中、雛希はそれとなく教室の中を見ている振りをした。話の内容を聞くに、高槻は英語の宿題をやってくるのを忘れたらしい。
「高槻、もう諦めろ。ってことでトランプやろうぜ-。お前の番から進まねぇだろ」
「うるせぇなお前ら。宿題できないだろ! あっち行ってろよ!」
どうやらなかなかのいじられキャラらしい。ふむふむ……と会話に耳だけを傾けて雛希は高槻を観察した。
と、そこまでは良かったのだが。遥菜の一言で思わぬ方へと話が展開した。
「ねぇ高槻君、アドレス教えてよー」
「……は?」
「だって、この中でアドレス知らないの高槻君だけだもんー」
他の男子のアドレスは知ってるのかよっ! とツッコミを入れそうになった。そして高槻は……教えるのだろうか。
「別にいいけど」
「ありがとー!」
アッサリと了承した。何だよみんな可愛い子にはデレデレしちゃって。 ちょっとだけムッとして、雛希は背を向けた。まさか自分に話が振られるとは思わずに。
「じゃあ、そっちのあんたも」
「え?」
何の事だろうと振り返ると、高槻が雛希を見ていた。周りも驚いて雛希と高槻の事を見る。
今なんて言った? 私に話しかけてんの? 高槻嘉文が?
一番驚いている様子だったのは、雛希よりも遥菜だった。納得いかなさそうな顔をして携帯を持ったまま雛希を見ていた……けど、急に笑顔になると雛希に駆け寄った。
「ヒナ、そういえば英語の宿題やってるでしょ? 高槻君に見せてあげたら?」
「え!? いや、そんな……解答合ってるか自信ないし……」
「高槻君助かるでしょ-? ヒナこう見えても成績いいんだよー。ね?」
いやいやこの状況で友達でもない女子から宿題借りないでしょ! 遥菜の考えている事が理解出来ず、雛希は何も言えずに黙るしかなかった。むしろ雛希が困ると言うよりはここでいきなりこんな事を言われた高槻の方が困るのでは……と思った。が、
「じゃあ見せて。一限までに間に合わないから。貸して」
何で! 断れよ! 雛希は心の中でがっくりとうなだれると、小さく頷いた。
雛希が宿題を取りに行こうとした時、高槻も立ち上がった。想定外だ。雛希は驚いて振り返った。
「い、いや、高槻君はここにいていいよ」
「そうだよー高槻君はトランプやってようよー」
遥菜が雛希に賛同したが、高槻は手に持っていたトランプを遥菜に差し出した。遥菜は首を傾げてそれを受け取った。
「じゃあ瀬古が俺の代わりにやってて。俺は宿題借りてくる」
「えっ、ちょっと高槻君!」
遥菜の声を無視して、高槻は教室を出て行った。遥菜はしばらくその様子を見ていたけれど不機嫌そうに男子の輪の中へ戻って行ったのを見て、雛希も高槻を追って教室を出た。
「あ、あの……」
「何」
廊下で恐る恐る話し掛ける。高槻は非常に機嫌が悪そうな顔をしていた。雛希は思い切って――けれど小声で――昨日の事を言ってみた。
「私、遥菜には言ってないから! 本当に!」
一瞬沈黙する。高槻が雛希を見たまま何も反応しなかったからだ。雛希が不安になって口を開きかけたところで、高槻が動いた。ポケットに手を入れて、携帯を取り出した。
「アドレス教えて」
「え!?」
「アドレス教えろって言ってんだよ」
聞き返した事が相当気に入らなかったのか、口調が命令形になった。怖い! やっぱり昨日と同じだ!
雛希は「はい」と返事をすると携帯を取り出してアドレスを教えた。
「別に誰かに言ってないかどうか確認するときぐらいしかメールしねぇから」
あぁそう、私と普通にメールする気はないってことですか。それも監視用ですか。別に何かを期待したわけではないけど、何となく癪だ。
携帯を閉じてポケットにしまったけれど高槻は二組に帰ろうとしない。不思議に思って見ていると、更に不機嫌そうになった高槻が一言。
「宿題」
んにゃろう! 私は便利屋ってか!? と言ってやれればいいのだが、何せ上からあの怒った顔で見下ろされると怖い。そういえばアドレスの件ですっかり吹っ飛んでたけど宿題を貸すっていう理由でここにいるんだった。雛希は返事もせず教室へ入ると宿題を持って帰ってきた。
「はい」
「どうも」
「ちゃんと返してください」
「返すに決まってるだろ」
ノートを受け取ると、今度こそ高槻は二組へ戻って行った。
放課後になり、雛希はざわつく廊下で掃除当番の遥菜を待っていた。
「これ持ってて!」
とさっき渡された物を見つめながら溜め息を吐く。遥菜のカバンと、可愛い手袋。本当は私も欲しかったのになぁ……と思うと余計に可愛く見えてくる。まだ使い始めだから綺麗でモコモコしている。いいなぁ、羨ましいなぁ。雛希は手袋を裏返したりして眺めていた。
ふと、目の前で誰かが立ち止まったので顔を上げた。
「たっ、高槻君」
「お前……それ」
高槻はごみ箱を持ったまま立ち尽くしている。視線は雛希の持つ手袋に集中していた。
「何でお前がそれ持って……」
「ち、違う! これ遥菜のだから!」
なぜ高槻が驚いた顔しているのかは分からないけれど、これを持っている事がいけないらしい。自分の持ち物ではない事を言って難を逃れようとしただけなのに、逆に高槻の怒りを買ったらしい。そう顔に書いてある。
何で!? どうしてよーーー!? 雛希は怒った高槻を見て、思わず手袋を後ろ手に隠した。
「お前……瀬古には言ってないって言ってなかったか!?」
「言ってない! 言ってないよ! 本当だってば! ってか、何で遥菜がこれ持ってる事が高槻君を怒らせる……」
そこまで言って、はたと思い当たる。ちょっと……この感は当たってたら……まずいんじゃ……。
「あの……まさか、これ」
「言うな! それ以上何も言うな!」
そう言うなり高槻は辺りを確認した。特に誰も二人の事は気に掛けておらず、ただの雑然とした放課後の風景だけがあった。
高槻は視線を雛希に戻すと、諦めたようにうなだれた。
「これ……高槻君が編んだの?」
雛希がそっと聞くと、キッと睨み返される。まずい事を聞いてしまったようだ。
「い、いや、別に言いたくないならいいよ! 聞いてごめん!」
咄嗟に謝ったと同時、教室から遥菜が出てくるのが見えた。高槻と二人でいるところを見られるのがまずいと思ったが、遥菜はこっちに気が付いてしまった。
「あれ? 高槻君と……ヒナ、どうしたの?」
楽しくなさそうに、遥菜は雛希ではなくて高槻に聞いた。遥菜は雛希に荷物を持っていてもらったお礼を言うと、荷物を受け取って雛希と高槻の間に立った。そして――高槻の前で手袋をはめた。
「……いや、今日の宿題のお礼を言ってただけ」
「そうなんだ! また必要な時があったら言ってね? 私が配達しまーす!」
あたかも自分が宿題を見せたと言わんばかりの振る舞い。今日の宿題も高槻が雛希に返しに来たのではなく、二組まで遥菜が取りに行ってそれを雛希に渡したのだった。雛希はその言い方を聞いて少し困って俯いた。
「今度は友達から借りるからいいよ」
「えーそんな事言わないでよー」
「いいよ。借りるなら自分で借りに来るから」
高槻が雛希を見た。けれど雛希はそれに気が付いていなかった。遥菜は不満そうに分かった、と一言だけ言うと、雛希の方に振り向いた。
「ヒナ、帰ろー」
「あ、うん!」
「じゃあね、高槻君。バイバイ」
遥菜に促されて雛希も荷物を持って帰ろうとした――が、高槻は遥菜の声に返事をせずただ黙っていた。
「え? 高槻君、これ気になるの?」
左右に振っていた遥菜の手を凝視している高槻に気が付いて、遥菜が尋ねた、一瞬ぎょっとした表情になった後、高槻はブンブンと頭を振った。
「これ買ったばかりの手袋なの! 可愛いでしょ?」
高槻が自分の持ち物に注目してくれた事が嬉しかったのか、遥菜は高槻の前でポフポフと手袋を合わせてアピールした。
「お、おう……」
「高かったんだけどね、これ一点物なんだよ! だから私しか持ってないんだ!」
高槻の視線が手袋を見た後……雛希に移る。雛希はただ頭を振った。私は言ってない! 言ってないから! という思いを込めて。それが高槻に届いたどうかは分からないけど。
「そうなんだ……じゃあ俺ゴミ捨て行くから」
「うん、バイバイ高槻君」
去っていく高槻の後ろ姿が見えなくなると、雛希と遥菜も玄関へと向かった。
「何かさぁ、高槻君変じゃなかった?」
「え!? そうかな!? 別に普通じゃない!?」
「えーそう? っていうかヒナも何か変」
遥菜の言った事にビクッと反応してしまったけれど、幸い自転車に鍵を差し込んでいる最中の遥菜はそんな雛希を見てはおらず、雛希はほっと息を吐いた。
自転車に乗り冷たい風を切りながら家へと帰る途中も遥菜の“高槻君”は尚も続いた。
遥菜と別れて信号待ちをしている最中だった。ポケットの携帯がブルブルと着信を伝えたので取り出す。
「メール?誰からだろう」
宛先には見覚えが無かった。が、件名を見て雛希の心臓が跳ね上がった。
『件名 高槻です』
そして下の本文に目を通す。鼓動はどんどん速くなる。
『話がある。今週の休み、ニットカフェまで来い。誰にも見られたり言ったりするなよ。』
う、嬉しくない……誰もがうらやむ学校のイケメンに誘われたというのに、これっぽっちも嬉しくないのは何でだ!!
雛希は信号が青になったのにも気が付かず、三回もメールを見返した。そしてポケットに携帯をしまうと、はぁと大きな溜め息を吐いて自転車を漕ぎ始めた。