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『勇者リリアと魔王のフィアンセ』Eden Force StoriesⅣ(第四部)  作者: 瀬尾 碧


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『第ニ話・1 : 喪失の王都』

その頃、王都は大変な騒ぎになっていた。


最初に異変に気づいたのは医療塔の医師団だった。

深い眠りに沈んでいたはずのリリアの胸に宿っていた魂脈が、突如として計測符から消え去ったのだ。


「……反応が、途絶えた?」

「ちょ、ちょっと待て! もう一度だ、もう一度計れ!」


老医師の声は、確認ではなく独り言だった。

何度も扱ってきた符を見つめながら、それでも指先だけがわずかに震えている。


四十年来、どんな瀕死の患者でも一度は光らせてきたこの符が――

初めて、ただの石のように冷たかった。


若い医師が符を重ね、魔力を流し込む。

刻印は光らない。

二枚目も、三枚目も、沈黙したままだった。


「だめだ……何度やっても……消えてる……魂が、もう……」


「……魂脈が、ない」


誰かが、はっきりとそう言った。


「魂脈が……消えています。断絶じゃない。流失でもない。

“最初から、そこになかった”――そうとしか言えない……」


誰も、次の言葉を選べなかった。


若い医師が、喉を鳴らす。

符を握った指が震え、床に落としたことにすら気づかない。


「……さっきまで、あったんです……」

「昨日もこの符で脈を見て、『安定してます』って言ったんです……」


誰に言うでもなく、そう呟いて、崩れるように膝をつく。

ざわめきが塔の一室を駆け抜け、十数人の医師が一斉に詰め寄った。


「急げ、蘇生符を!」

「……だめだ。脈そのものが、ない。呼び戻せる段階じゃない」


声が重なり、手元の器具は次々に落ち、ガラス管が床で砕け散った。

誰もが信じられず、震える手で測定を繰り返すが、刻印板は沈黙したままだった。


そして次の瞬間――。

ベッドに横たわっていたリリアの肉体が淡い光を帯び、花弁が散るように、ゆっくりと透けていき――

「待て――!」と誰かの叫びが、形になる前に。

音もなく、消えた。


「に、肉体まで……!」

「……うそだ。目の前で……」

「勇者殿が――忽然と、消えた……」


それは、誰もが二度と口にしたくなかった結論だった。


リリアが消えたあとのベッドには、さっきまで彼女の体温を吸っていたシーツの窪みと、胸元に置かれていた小さな押し花の栞だけが残されていた。

つい数秒前までそこに「命」があったことを証明するものは、それだけだった。

無機質な照明が、その現実を逃がさぬように照らしている。


白衣の群れは総立ちになり、遅れて理解が追いついたように、悲鳴と怒号で室内は地鳴りのように震えた。


「記録にねえぞ、こんなの……!」

「……伝承にも、存在しない」


誰もが診断具を取り落とし、まるで足場を失ったかのように廊下へ飛び出した。


「リリア様がいない! 勇者様が消えたぁ!」


その叫びは、魂脈を伝う誤作動のように王都へ滲み出し、気づいたときには、街そのものが同じ震えを共有していた。

誰ひとり状況を理解しないまま、ただ“何かを失った”という感覚だけが、先に広がっていく。


──そこから先は、噂が噂を呼んで、腐敗した水が低きへ流れるように、理性の隙間を縫って街を呑み込んでいった。


「魔王軍にさらわれたんだろ!」

「いや、神殿が……勝手に天へ……!」

「城が隠してるんだ、そうに決まってる!」

「……死んだんだよ、もう戻らねぇ……!」

「……リリアさま、どこ行ったの?」


誰かの子どもの声だった。

その問いは、あまりにも小さく、そして真っ直ぐだった。

答える者はいなかった。

誰ひとり真実を知らない。

それでも「死んだ」という言葉だけが、選ばれ、繰り返され、人々の心に、冷たい刃のように突き刺さっていった。


「女神様が……死んだ……?」

「やだ……やだよそんなの……」

「あり得ねぇ……あり得ちゃ……ならねぇ……!」


市場の中央で、老女が地面に崩れ落ちた。

乾いた石畳に膝を打ちつけ、胸を叩いて泣き叫ぶ。


「女神様ぁ……どうか……戻ってきてぇ……!

あのお方がいなけりゃ……この王都は闇に沈む……!」


子どもたちは怯えて母親に縋り、母は震える声で「きっと帰ってくる、絶対に」と繰り返した。

何度も、何度も。


だがその言葉は、信じるための言葉ではなく、自分自身を必死に縛りつける祈りにすぎなかった。


そして恐怖は、人々の口から口へと移り、噂が噂を生みながら、言葉そのものが責任を失って転がり始めた。


「女神さまの中に封じられた、ザッハトルテの封印が……

もう、持たんようになる……」


「勇者様がおらんかったら……

王都防衛の封印は、次の夜明けまでもたねえ……」


「魔王軍が来たら……

終わりだ。逃げ場なんか、どこにもねぇ……」


その声は瞬く間に王都を覆い、人々の胸を冷たく締め付けていた。


「二度と勝てるもんかよ……

あの黒鎧の軍勢に……」


「前の戦で、どんだけ死んだと思ってんだ……

名前も残らず、消えたやつが……」


「次に攻められたら……

もう終わりだ。今度こそ、立て直せねぇ……」


嗚咽と恐怖は広場を震わせ、祈りと絶望がないまぜになって、王都そのものの心拍を乱しながら、街を呑み込んでいった。


──だが、その混乱が怒りへと転じるよりも、少しだけ早く。

──まずは静かな祈りがあった。

街角の教会に駆け込んだ人々が蝋燭の灯にひざまずき、涙で頬を濡らしながら震える声を重ねる。


「女神様……お願いだ、守って……」

「リリア様……もう一度でいい、あのお姿を……」


その声は嗚咽の合唱となり、壁を震わせながら、夜そのものに縫いつけられていった。


──だが、神殿の大広間では反発が始まっていた。

壇上の神官と巫女たちは必死に説く。


「試練だ……これは天が与えた試練なのだ」

そう言い切ろうとして、神官長は一瞬、言葉を詰まらせた。

「……信じるのじゃ。今は、それしか、道がない!」


壇上で、若い巫女が唇を噛みしめる。

「……さっきまで、生きていたのに……」


だが民衆は叫んだ。


「試練だぁ? ふざけんなよ!」

「なんで女神様を奪ったんだ!」

「見捨てられたってのか、俺たちは!」


「信じろ、だぁ?

 ――その言葉で、誰が救われたんだよ」


その問いに、壇上は沈黙した。


祈りは怒りに転じ、説教の声は嗚咽と叫びにかき消されていった。


広場には祈りの行列が生まれ、松明を掲げた群衆が「リリア様!」と声を合わせて夜を巡っていた。

その光景は荘厳でありながら、葬列のように痛ましく、王都全体が少女ひとりを悼む儀式と化している。


その列の端で、名も知らぬ兵士が兜を抱えたまま、最後まで顔を上げられずにいた。

松明の光が揺れるたび、兜の縁に落ちる雫が、地面に小さな輪を描いていた。

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