『第ニ話・1 : 喪失の王都』
その頃、王都は大変な騒ぎになっていた。
最初に異変に気づいたのは医療塔の医師団だった。
深い眠りに沈んでいたはずのリリアの胸に宿っていた魂脈が、突如として計測符から消え去ったのだ。
「……反応が、途絶えた?」
「ちょ、ちょっと待て! もう一度だ、もう一度計れ!」
老医師の声は、確認ではなく独り言だった。
何度も扱ってきた符を見つめながら、それでも指先だけがわずかに震えている。
四十年来、どんな瀕死の患者でも一度は光らせてきたこの符が――
初めて、ただの石のように冷たかった。
若い医師が符を重ね、魔力を流し込む。
刻印は光らない。
二枚目も、三枚目も、沈黙したままだった。
「だめだ……何度やっても……消えてる……魂が、もう……」
「……魂脈が、ない」
誰かが、はっきりとそう言った。
「魂脈が……消えています。断絶じゃない。流失でもない。
“最初から、そこになかった”――そうとしか言えない……」
誰も、次の言葉を選べなかった。
若い医師が、喉を鳴らす。
符を握った指が震え、床に落としたことにすら気づかない。
「……さっきまで、あったんです……」
「昨日もこの符で脈を見て、『安定してます』って言ったんです……」
誰に言うでもなく、そう呟いて、崩れるように膝をつく。
ざわめきが塔の一室を駆け抜け、十数人の医師が一斉に詰め寄った。
「急げ、蘇生符を!」
「……だめだ。脈そのものが、ない。呼び戻せる段階じゃない」
声が重なり、手元の器具は次々に落ち、ガラス管が床で砕け散った。
誰もが信じられず、震える手で測定を繰り返すが、刻印板は沈黙したままだった。
そして次の瞬間――。
ベッドに横たわっていたリリアの肉体が淡い光を帯び、花弁が散るように、ゆっくりと透けていき――
「待て――!」と誰かの叫びが、形になる前に。
音もなく、消えた。
「に、肉体まで……!」
「……うそだ。目の前で……」
「勇者殿が――忽然と、消えた……」
それは、誰もが二度と口にしたくなかった結論だった。
リリアが消えたあとのベッドには、さっきまで彼女の体温を吸っていたシーツの窪みと、胸元に置かれていた小さな押し花の栞だけが残されていた。
つい数秒前までそこに「命」があったことを証明するものは、それだけだった。
無機質な照明が、その現実を逃がさぬように照らしている。
白衣の群れは総立ちになり、遅れて理解が追いついたように、悲鳴と怒号で室内は地鳴りのように震えた。
「記録にねえぞ、こんなの……!」
「……伝承にも、存在しない」
誰もが診断具を取り落とし、まるで足場を失ったかのように廊下へ飛び出した。
「リリア様がいない! 勇者様が消えたぁ!」
その叫びは、魂脈を伝う誤作動のように王都へ滲み出し、気づいたときには、街そのものが同じ震えを共有していた。
誰ひとり状況を理解しないまま、ただ“何かを失った”という感覚だけが、先に広がっていく。
──そこから先は、噂が噂を呼んで、腐敗した水が低きへ流れるように、理性の隙間を縫って街を呑み込んでいった。
「魔王軍にさらわれたんだろ!」
「いや、神殿が……勝手に天へ……!」
「城が隠してるんだ、そうに決まってる!」
「……死んだんだよ、もう戻らねぇ……!」
「……リリアさま、どこ行ったの?」
誰かの子どもの声だった。
その問いは、あまりにも小さく、そして真っ直ぐだった。
答える者はいなかった。
誰ひとり真実を知らない。
それでも「死んだ」という言葉だけが、選ばれ、繰り返され、人々の心に、冷たい刃のように突き刺さっていった。
「女神様が……死んだ……?」
「やだ……やだよそんなの……」
「あり得ねぇ……あり得ちゃ……ならねぇ……!」
市場の中央で、老女が地面に崩れ落ちた。
乾いた石畳に膝を打ちつけ、胸を叩いて泣き叫ぶ。
「女神様ぁ……どうか……戻ってきてぇ……!
あのお方がいなけりゃ……この王都は闇に沈む……!」
子どもたちは怯えて母親に縋り、母は震える声で「きっと帰ってくる、絶対に」と繰り返した。
何度も、何度も。
だがその言葉は、信じるための言葉ではなく、自分自身を必死に縛りつける祈りにすぎなかった。
そして恐怖は、人々の口から口へと移り、噂が噂を生みながら、言葉そのものが責任を失って転がり始めた。
「女神さまの中に封じられた、ザッハトルテの封印が……
もう、持たんようになる……」
「勇者様がおらんかったら……
王都防衛の封印は、次の夜明けまでもたねえ……」
「魔王軍が来たら……
終わりだ。逃げ場なんか、どこにもねぇ……」
その声は瞬く間に王都を覆い、人々の胸を冷たく締め付けていた。
「二度と勝てるもんかよ……
あの黒鎧の軍勢に……」
「前の戦で、どんだけ死んだと思ってんだ……
名前も残らず、消えたやつが……」
「次に攻められたら……
もう終わりだ。今度こそ、立て直せねぇ……」
嗚咽と恐怖は広場を震わせ、祈りと絶望がないまぜになって、王都そのものの心拍を乱しながら、街を呑み込んでいった。
──だが、その混乱が怒りへと転じるよりも、少しだけ早く。
──まずは静かな祈りがあった。
街角の教会に駆け込んだ人々が蝋燭の灯にひざまずき、涙で頬を濡らしながら震える声を重ねる。
「女神様……お願いだ、守って……」
「リリア様……もう一度でいい、あのお姿を……」
その声は嗚咽の合唱となり、壁を震わせながら、夜そのものに縫いつけられていった。
──だが、神殿の大広間では反発が始まっていた。
壇上の神官と巫女たちは必死に説く。
「試練だ……これは天が与えた試練なのだ」
そう言い切ろうとして、神官長は一瞬、言葉を詰まらせた。
「……信じるのじゃ。今は、それしか、道がない!」
壇上で、若い巫女が唇を噛みしめる。
「……さっきまで、生きていたのに……」
だが民衆は叫んだ。
「試練だぁ? ふざけんなよ!」
「なんで女神様を奪ったんだ!」
「見捨てられたってのか、俺たちは!」
「信じろ、だぁ?
――その言葉で、誰が救われたんだよ」
その問いに、壇上は沈黙した。
祈りは怒りに転じ、説教の声は嗚咽と叫びにかき消されていった。
広場には祈りの行列が生まれ、松明を掲げた群衆が「リリア様!」と声を合わせて夜を巡っていた。
その光景は荘厳でありながら、葬列のように痛ましく、王都全体が少女ひとりを悼む儀式と化している。
その列の端で、名も知らぬ兵士が兜を抱えたまま、最後まで顔を上げられずにいた。
松明の光が揺れるたび、兜の縁に落ちる雫が、地面に小さな輪を描いていた。




