『第一話・6 : 呼吸を許さぬ者たち』
セラフィーの指先が、霧氷の谷にひっそり咲いた薬草へと伸びた──その瞬間、
大気そのものが、待ち構えていたかのように歪んだ。
霧がざわめき、凍てつく空気が一斉に逆流する。
胸を押し潰すような圧が押し寄せ、巨大な魔力の奔流が、世界の裏側から反転して落ちてきた。
それは、大地ごと叩き潰そうとする“力”だった
「な、なんやこの気配……!? ワイの頁、凍りついて粉々やぁぁ!!」
「インクまで……凍結してまうぅぅ!!」
次の瞬間、ブッくんの絶叫は、瓶の中でひび割れたインクが砕けるピシッという小さな音と共に、冷気に叩き潰された。
セラフィーは本能のままに剣を抜いた。
「……っ、嘘でしょう……!」
手の中の剣が、凍てつく気配に拒まれるように滑る。
彼女は歯を食いしばり、慌てて握り直した。
胸の奥に、氷刃をねじ込まれたかのような圧が走る。
皮膚の下を巡る血流が、途中で凍りつく感覚。
心臓そのものが、見えない手に掴まれている――そんな錯覚に、呼吸が詰まる。
大地が、敵意をもって呼吸している。
その鼓動が、足裏から骨へ、骨から全身へと伝わり、彼女の身体は、軋む音を立てて耐えるしかなかった。
剣を握る腕が震える。
それが寒さなのか、恐怖なのか、もはや自分の心臓の鼓動と、区別がつかない。
これは冷気ではない。
“存在そのものが放つ魔力”――逃げ場のない圧だった。
幾度も修羅場をくぐってきた彼女ですら、膝が折れそうになる。無意識に剣を構えようとした指先から力が抜け、氷の地面を叩く剣鳴すら冷気に吸い殺された。立っているだけで、抗っている。
そう自覚した瞬間、セラフィーは理解した。
――これは、戦いですらない。
空間が、悲鳴のような軋みを上げた。
黒と蒼の魔法陣が、凍りついた大地を侵食するように浮かび上がる。
紋様はゆっくりと、だが確実に回転し、
そのたび低い唸りが谷の奥まで染み込み、岩肌と氷壁を震わせた。
やがて中心が、白光を帯びる。
光は膨張し、閃光となって視界を一瞬、完全に塗り潰した。
――そして。
光が収まったとき、そこに“立っていた”のは、三つの影だった。
中央の青年は、ただ存在するだけで、
瘴気と冷気を渦のように巻き上げ、
谷そのものを軋ませるほどの魔力を放っている。
近づく必要はなかった。
見ただけで、理解してしまう。
――格が、違う。
その男こそが、
魔王カルマ=ヴァナスの血を継ぐ者。
レオ=ヴァナス。
(……だめ。桁が違う……!
このままじゃ――本当に、全滅する……!)
セラフィーの胸を突き刺したのは、
勇者として積み重ねてきた経験そのものだった。
中央の男が一人いるだけで、すでに絶望的だというのに――
視界の端で、さらに“重さ”が増していく。
彼の両脇。
そこに立つ二つの存在が、この場を「戦場」ではなく「処刑場」へと変えていた。
魔王軍第三将・氷槍騎士ガルド=アイゼン。
黒鎧の巨躯が槍を突き立てるたび、大地は氷壁のような圧を受け、低く軋んでいた。
そして――
第六将・冷術士リセル=フロスト。
蒼仮面の術士は一言も発さぬまま、指先に灯した氷光だけで、霧そのものを凍り付かせていく。
逃げ場は、ない。
三つの影が放つ威圧は、すでに谷の隅々まで満ち、呼吸という行為すら“許可制”に変えていた。
一人の兵士が、堪えきれず肺から空気を漏らした音が、銃声のように響く。
今、この霧氷の谷を支配しているのは――
世界でも、軍でもない。
彼ら三人だけだった。
谷を圧していた沈黙が、音もなく沈み込んだ。
その底で、レオは冷えきった声を落とす。
誰も、続きを促さなかった。
「我が名は──レオ=ヴァナス。
魔王カルマ=ヴァナスの正統なる継承者にして……」
「──リリア・ノクターンの、婚約者だ」
名乗りは誇示ではなかった。
それはこの場にいる全ての存在に向けた、事実の宣告だった。
兵士たちは一斉に息を呑み、谷はざわめきと恐怖に呑み込まれる。
だが、レオの瞳は群れの誰も映していない。
視線はただ一つ。
仮面の兵士へ。
逃げ場を探るでもなく、抵抗を量るでもなく、
最初から“迎えに来たもの”を見る目で、視線は絡め取られた。
「迎えに来たぞ。我がフィアンセ、リリアよ──」
その呼びかけに、兵士たちは戦慄し、セラフィーの喉も、凍りつく。
静寂を引き裂くように、レオは淡々と、だが逃げ道を残さぬ声で告げた。
「天が裂けようとも、大地が砕けようとも──
リリアは、余の永遠だ」
それは誓いではない。
願望でも、狂気の独白でもない。
すでに決定された未来を、読み上げただけの声音だった。
その傲慢な音色に呼応するように、仮面の兵士の瞳が、凍てつく闇の中で小さく揺れた。




