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『勇者リリアと魔王のフィアンセ』Eden Force StoriesⅣ(第四部)  作者: 瀬尾 碧


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『第一話・6 : 呼吸を許さぬ者たち』


セラフィーの指先が、霧氷の谷にひっそり咲いた薬草へと伸びた──その瞬間、

大気そのものが、待ち構えていたかのように歪んだ。


霧がざわめき、凍てつく空気が一斉に逆流する。

胸を押し潰すような圧が押し寄せ、巨大な魔力の奔流が、世界の裏側から反転して落ちてきた。

それは、大地ごと叩き潰そうとする“力”だった


「な、なんやこの気配……!? ワイの頁、凍りついて粉々やぁぁ!!」

「インクまで……凍結してまうぅぅ!!」


次の瞬間、ブッくんの絶叫は、瓶の中でひび割れたインクが砕けるピシッという小さな音と共に、冷気に叩き潰された。


セラフィーは本能のままに剣を抜いた。


「……っ、嘘でしょう……!」


手の中の剣が、凍てつく気配に拒まれるように滑る。

彼女は歯を食いしばり、慌てて握り直した。


胸の奥に、氷刃をねじ込まれたかのような圧が走る。

皮膚の下を巡る血流が、途中で凍りつく感覚。

心臓そのものが、見えない手に掴まれている――そんな錯覚に、呼吸が詰まる。


大地が、敵意をもって呼吸している。

その鼓動が、足裏から骨へ、骨から全身へと伝わり、彼女の身体は、軋む音を立てて耐えるしかなかった。


剣を握る腕が震える。

それが寒さなのか、恐怖なのか、もはや自分の心臓の鼓動と、区別がつかない。


これは冷気ではない。

“存在そのものが放つ魔力”――逃げ場のない圧だった。


幾度も修羅場をくぐってきた彼女ですら、膝が折れそうになる。無意識に剣を構えようとした指先から力が抜け、氷の地面を叩く剣鳴すら冷気に吸い殺された。立っているだけで、抗っている。


そう自覚した瞬間、セラフィーは理解した。


――これは、戦いですらない。


空間が、悲鳴のような軋みを上げた。

黒と蒼の魔法陣が、凍りついた大地を侵食するように浮かび上がる。


紋様はゆっくりと、だが確実に回転し、

そのたび低い唸りが谷の奥まで染み込み、岩肌と氷壁を震わせた。


やがて中心が、白光を帯びる。

光は膨張し、閃光となって視界を一瞬、完全に塗り潰した。


――そして。

光が収まったとき、そこに“立っていた”のは、三つの影だった。


中央の青年は、ただ存在するだけで、

瘴気と冷気を渦のように巻き上げ、

谷そのものを軋ませるほどの魔力を放っている。

近づく必要はなかった。

見ただけで、理解してしまう。


――格が、違う。


その男こそが、

魔王カルマ=ヴァナスの血を継ぐ者。

レオ=ヴァナス。


(……だめ。桁が違う……!

 このままじゃ――本当に、全滅する……!)


セラフィーの胸を突き刺したのは、

勇者として積み重ねてきた経験そのものだった。


中央の男が一人いるだけで、すでに絶望的だというのに――

視界の端で、さらに“重さ”が増していく。

彼の両脇。

そこに立つ二つの存在が、この場を「戦場」ではなく「処刑場」へと変えていた。


魔王軍第三将・氷槍騎士ガルド=アイゼン。

黒鎧の巨躯が槍を突き立てるたび、大地は氷壁のような圧を受け、低く軋んでいた。


そして――

第六将・冷術士リセル=フロスト。

蒼仮面の術士は一言も発さぬまま、指先に灯した氷光だけで、霧そのものを凍り付かせていく。


逃げ場は、ない。


三つの影が放つ威圧は、すでに谷の隅々まで満ち、呼吸という行為すら“許可制”に変えていた。

一人の兵士が、堪えきれず肺から空気を漏らした音が、銃声のように響く。


今、この霧氷の谷を支配しているのは――

世界でも、軍でもない。

彼ら三人だけだった。


谷を圧していた沈黙が、音もなく沈み込んだ。

その底で、レオは冷えきった声を落とす。

誰も、続きを促さなかった。


「我が名は──レオ=ヴァナス。

魔王カルマ=ヴァナスの正統なる継承者にして……」


「──リリア・ノクターンの、婚約者だ」


名乗りは誇示ではなかった。

それはこの場にいる全ての存在に向けた、事実の宣告だった。

兵士たちは一斉に息を呑み、谷はざわめきと恐怖に呑み込まれる。


だが、レオの瞳は群れの誰も映していない。

視線はただ一つ。

仮面の兵士へ。


逃げ場を探るでもなく、抵抗を量るでもなく、

最初から“迎えに来たもの”を見る目で、視線は絡め取られた。


「迎えに来たぞ。我がフィアンセ、リリアよ──」


その呼びかけに、兵士たちは戦慄し、セラフィーの喉も、凍りつく。

静寂を引き裂くように、レオは淡々と、だが逃げ道を残さぬ声で告げた。


「天が裂けようとも、大地が砕けようとも──

リリアは、余の永遠だ」


それは誓いではない。

願望でも、狂気の独白でもない。

すでに決定された未来を、読み上げただけの声音だった。

その傲慢な音色に呼応するように、仮面の兵士の瞳が、凍てつく闇の中で小さく揺れた。

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