『第四話・1 『霧の向こうは、笑えない』
温もりの輪から、ただ一人外れて──黒リリアことネイルは、蒼白な顔で固まっていた。
彼女は生まれたての小鹿のように膝を震わせ、倒れそうな足取りでリリアの前へとにじり寄ると、その場に深く頭を垂れる。
「……お、恐れ入ります……。先ほどの戦い……正直、直視できたものじゃ……。
俺は所詮、使い捨ての写し身。斬り捨てられても、文句など言えません……!」
声は震え、まるで死刑宣告を待つ罪人のようだった。
膝をついたまま、ネイルの肩がかすかに強張っている。
リリアは思わず苦笑し、首を横に振った。
「……いや、ネイル。あなたはわたしの“分身”なんだよ。姉妹みたいなもんでしょ? 粛清なんてするわけないじゃない!」
(何で俺が女言葉で喋って、女のネイルが男言葉なんだよ!!)
(見た目どおり女の子っぽく喋ろうと、こっちは必死に頑張ってんのに……おかしいじゃねえか!! 俺の努力どこいった!?)
リリアの口調には柔らかな響きが混じっていた。
「王国の近衛として、これからも頑張ってよ。……頼りにしてるから」
(もうわけわかんねーのはマジでこりごりだっつーの……)
――その一言が、ネイルの魂を根こそぎ奪い去ったかのように、彼女の瞳から力が失われた。
まるで、覚悟していた断罪の重圧が消え、中身が空っぽの抜け殻になってしまったかのように。
「……は……」
力が抜けたまま、かすれた吐息だけが、遅れて零れ落ちた。
――その瞬間、空気の奥で“何か”が小さく弾けた。
ぱんっと新しいウィンドウが浮かんだ。
《ネイル・ノクターン》
種別:分身アバター/黒リリア
Lv:47
HP:324/324
攻撃:236(地味に強い)
防御:186(リリア本体より高い)
称号:姉妹
特技:黒歴史の朗読
弱点:おやつに弱い
備考:構成成分の99%は、小指の爪
(……よりによって、備考そこ!? 作者の悪ノリだろこれ!!)
(しかもHPも防御も俺よりバランスいいってどういうことだよ!?)
(つか鼻くそゴーレムってのも、このノリで作った気がするけど……
あいつ今どうなってんだろ!?
これ、進化して“ウンコゴーレム”とかになってたら――マジで文明終わるぞ!!)
――そのとき。
ぽふ、とワン太の小さな前足が、リリアの頬に触れた。
見上げてくるつぶらな瞳が、まるで――“余計なこと考えてるでしょ”とでも言いたげに、ほんの少しだけ呆れているように見える。
(……お前、絶対わかってるだろ。てか今、ちょっと引いてなかったか!?)
ひと拍、場の空気が止まった。
直後、死んでいたはずのネイルの瞳に、パチリと恐ろしいほどの熱が灯る。
理解が追いついたのではない。都合の良い解釈が彼女を『狂信』へと突き動かしたのだ。
彼女は堰を切ったように息を吐き、胸に手を当てて深く、深く頭を下げる。
「リ、リリアさま……!」
その声音には、先ほどまでの怯えではなく――どこか、震えるような安堵が混じっていた。
「……このネイル、不覚にも……今、ようやく理解いたしました」
ゆっくりと顔を上げた彼女の眼差しは、先ほどまでとは別人のように澄み切っている。
「先ほどの御言葉……そして、そのお優しき御手。
……すべて、この身を案じてのご配慮だったのですね」
(いや待て、なんか勝手に話が神格化されてない!?)
言葉の意味が、遅れて胸に落ちたかのように――
ネイルの喉がかすかに震え、やがて堰を切ったように大きく息を吐いた。
胸に手を当て、深く頭を下げる。
「は、はいっ……! 必ず……! お国のために、いや――
リリア様のお役に立つことをお約束します……!」
「夜の伽でも、何なりといつでもお申し付けください」
(お前俺のことなんだと思ってんだ!? あと伽って、お前さっきまで俺を殺そうとしてた刺客だろ! 一足飛びに重すぎるわ!!忠誠の方向ちょっとズレてないかこれ……!?)
リリアは小さく笑みを浮かべ、柔らかに頷いた。
その仕草だけで、ネイルの強張っていた肩の力が、ほんのわずかにほどけた。
(……ま、本人が前向きになったなら、それでいいか)
(……変な方向に突っ走らなきゃいいけど。)
リリアは、まだわずかに震えの残るネイルの肩を一瞥し、小さく息を抜いた。
「それにしても、……ここまでレベルを上げて、よく頑張ったね。ネイルの努力は本物だよ」
(……って、俺めっちゃ優しい言葉かけてるけどさ!! 中身は“爪”なんだぞ!? どうやって努力とか積むんだよ!! いや、積んでるっぽいのが余計に怖いんだけど!!)
(つか冷静に考えてみろよ!? ただの小指の爪から別人格が生まれて、しかもちゃんと会話して成長してるってどういう理屈だよこれ!!)
(魂コピー? 魔力の残滓? いやいや、俺そんな大層な魔法かけた覚えねえぞ!?
……え、マジで自我芽生えたの……?)
(だとしたら――それが一番ホラーだわ!!)
――その、自問自答の戦慄が、一瞬で凍りついた。
ギャグみたいな寒気を上書きするように、もっと根源的で、冷酷な――生物としての本能が、言葉になるより先に『死』を悟る。
氷の針みたいな冷たさが、背骨の奥を――一瞬で貫いた。
――その瞬間。
谷の奥、霧の向こう側に、絶対にいてはならない「何か」の視線が、確かにこちらを捉えていた。




