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『勇者リリアと魔王のフィアンセ』Eden Force StoriesⅣ(第四部)  作者: 瀬尾 碧


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『第二話・4 もう一度ログインしたら、俺は勇者に戻れた』

もし、もう一度ログインすれば、再びあの世界に立つことになる。

もう戻れないかもしれない。死ぬかもしれない。


だが――

散らかったこの現実で、俺の帰りを待つ声は、どこにもなかった。


ここには、

俺を“勇者”と呼ぶ者は、ひとりもいない。


瞼の裏に浮かぶのは、剣を構えるセラフィーの横顔、背を預け合った仲間たちの姿。

あの世界では、自分は“勇者”であり、必要とされていた。


頬を涙が伝った。

胸の奥から、絞り出すように声が漏れる。


(……俺は……この現実じゃ、ただ生きているだけの抜け殻だ。

でも……向こうには……俺を必要としてくれる人がいるんだ……!)


颯太はベッドの上で膝を抱え、汗に濡れたTシャツを肌に張り付けたまま、荒い呼吸を繰り返していた。

心臓はまだ勇者リリアの戦場にいるかのように乱れ、震える手がシーツを掴んで離さない。


その時、階下から母の声が響いた。


「颯太ー? ごはんできてるわよー!」


日常の、当たり前の呼びかけ。

だがその響きは、今の彼にはあまりにも遠い。


返事をしようとした瞬間、喉が詰まった。

声が出ない。


ベッドの端に額を押し付け、震える唇で彼は呟く。


(……母さん……)


幼いころ、熱を出して寝込んだ夜。

試験に失敗して帰った夕暮れ。

友達に笑われて泣きじゃくった帰り道。


そのたびに台所から聞こえたのは、同じ声だった。


「大丈夫だよ」「ご飯あるからね」と笑ってくれた母の声。

その声が、何度自分を救ってくれたか。


――それなのに。


今、自分はベッドの上で背を丸め、答えることすらできない。


母の声に応えれば、食卓に座れば、きっと温かいご飯が待っている。

母は何も責めず、いつものように笑って迎えてくれるだろう。


それをわかっていながら、颯太は顔を上げられなかった。

それは温もりを裏切る罪であり、同時に自分を縛る鎖だったから。


(……母さん……ごめん……)


頬を視界が揺らぐほどの熱で濡らし、シーツに暗い染みをつくった。

嗚咽が喉を塞ぎ、胸の奥をえぐるような痛みが込み上げる。


母親の声がもう一度響いた。


「颯太? 聞こえてるの?」


その声は優しいのに、今は鋭い刃のように胸を突き刺す。

これが――永遠の別れになるかもしれない。

そう思った瞬間、涙が溢れて止まらなかった。


廊下の向こうから、足音が近づいてくる。

ぎし、と階段が鳴る。


母はただ呼びに来ているだけ――

それなのに、その一歩ごとに、別れの音が迫ってくるように思えた。


(俺、この世界じゃ……なんの役にも立たない。

でも……向こうの世界には……俺を必要としてくれる人がいるんだ……!)


声にならない叫びをシーツに押し付け、拳で震える胸を何度も叩いた。

母の笑顔が脳裏に浮かぶ。だが、それを振り払うように、涙で滲む視線をモニターへ向ける。


灰色の画面の奥――仲間たちが必死に剣を振るっている。

その姿に引き寄せられるように、颯太の手がゆっくりと前へ伸びた。


指先は震えていた。

だが、それでも。


赤いボタンに触れる瞬間、胸の奥で炎のような熱が燃え上がる。


そして、嗚咽混じりの息を吐きながら、颯太はその指先を“ログイン”の赤に重ねた。


胸はまだ震えていた。

だが、それ以上に――もう戻らない覚悟が、確かな熱を帯びていた。


「……母さん……ありがとう。――さよなら」


その囁きは誰にも届かず、ただ部屋の空気に溶けていく。


そして――逃げ道を断つように、颯太はゆっくりとマウスのクリックを押し沈めた。


瞬間、赤は液晶の光ではなく、生き物のように脈打ち、画面が裂ける。

黒と白の渦が部屋を呑み込み、畳も壁も境界を失って崩れ落ちていく。

風が逆流し、現実の空気が弾け飛ぶ。鼓膜を破る轟音とともに、世界そのものが反転していった。


母の足音が近づいていた。

けれど、その音はもう遠い。


代わりに耳を打つのは――仲間たちの悲鳴。剣を構える音。凍りつく風の唸り。レオの黒い笑い声。

まだ戦いは始まっていないのに、死の匂いだけが谷を覆っていた。


すべてが混ざり合い、俺を呼んでいた。


颯太は、現実という名の温もりを棄てた。


残ったのはただ、

“必要としてくれる声”へ、落ちていく感覚だけだった。


――その瞬間、彼は“引きこもりの青年”ではなく、再び“勇者”として世界に還った。


凍りつく谷の向こうで、セラフィーの唇が、確かに動いた。


『……リリア?』


――その声に応えるように、勇者の心臓が、確かに脈を打つ。


――戦場は、ただ一人の帰還者を静かに待ち続けていた。

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