『第ニ話・3 : サーバー切断の向こう側』
颯太の意識は、暗い虚無の中に漂っていた。
――戻ってはいけない場所へ、引き戻される予感だけが残った。
上下も時間もわからない。
ただ冷たい闇だけが、全身を締めつけていた。
やがて、その闇が裂けるようにして、安っぽい蛍光灯の白い光が、容赦なくまぶたを射抜き――彼は目を覚ました。
そこは――あまりに色褪せた現実の世界だった。
「……は、あ……?」
掠れた息が、やけに重く喉に絡んだ。
吸い込んだ空気は、精霊のささやきが満ちた清涼なものではなく、数日取り替えていないシーツの脂臭さと、カビの混じった重い泥が、肺の奥にまとわりついた。
息を整えようと顔を上げたとき、視線の端に鏡が映る。
部屋の隅、ほこりをかぶった姿見。
ふらつく足で近づき、鏡を覗き込む。
――一瞬、認識が追いつかなかった。
映っていたのは、金色でもなければ、光に揺れるピンク色の髪でもない。
ただ、寝癖で跳ねた脂ぎった黒髪の青年。頬はこけ、目の下には死人のような隈が刻まれている。
そこに、勇者だった痕跡は――ひとつも残っていなかった。
見る影もなく疲れ切った、みすぼらしい自分。
颯太だった。
(……俺……あのしなやかな、リリアの指先は……どこへ行った……?)
あのとき、確かに剣を握っていたはずの感触だけが、空しく指の奥に残っている。
震える指で頬をなぞる。冷たい皮膚の感触が返ってくる。あのとき、仲間と分かち合った温もりも、肌をなでる精霊の加護も、指先をすり抜けていく。
胸に手を当てても、あの高鳴りも、光の奔流もない。
勇者の剣も、女神の祝福も消え失せ、残ったのは、“引きこもり”の青年の心臓が、頼りなく胸の内側を打ち続けている――ただ、それだけだった。
ただの肉体。
ただの呼吸。
——そこに、“勇者”の手触りだけが、どこにも残っていなかった。
(ピンクの髪……もう……どこにもない……)
指先に絡んでいたはずの鮮やかな残光も、もう残っていない。
鏡の中の自分を見つめるうちに、膝から力が抜けた。
ついさっきまで仲間を導く勇者だったはずなのに――今はただ、この狭い四畳半に閉じ込められた惨めで弱々しい颯太に戻っている。
この部屋の空気は、まるで時間が止まったように淀んでいた。
散らかったカップ麺の容器は乾いたスープを貼りつかせ、積み上げられたゲーム雑誌は端が黄ばんでめくれ上がっている。
机の隅には、半年前に買ったまま封も切っていない医学専門書。
父の背中を継ぐはずだったその重みが、今はただ、埃を被って机の端を占拠している。
閉め切ったカーテンは昼夜を遮断し、空気は湿った埃の匂いで満ちている。
ベッドの上で、颯太は汗に濡れたTシャツを肌に張り付け、荒い息を吐いた。
その光景のすべてが、英雄だった時間を――無言で踏み潰していた。
英雄だった記憶が――皮膚の下で腐っていくようで、胃の奥がわずかに痙攣した。
視界の先、パソコンのモニターにはログアウト画面。
冷たい文字列で表示されたのは“サーバー切断”。
つい先ほどまでリリアとして剣を握っていたはずのあの世界は、灰色の無機質な文字に、無造作に置き換わっていた。
(……なんでだ……? なんでログアウトしてんだよ……!)
喉の奥が、焼けつくようにひりついた。
背筋を伝う汗は、冷たい膜になって肌に張りつき、
胸の奥では、鼓動だけが場違いなほど暴れている。
(リリアは……王都は……みんな……どうなったんだ……)
デモリオンを倒した――
そこから先の記憶だけが、刃物で抉り取られたみたいに消えている。
気がつけば、布団の上。
見慣れた腐りかけの天井。
現実に戻ったはずなのに、胸を満たしたのは安堵じゃない。
底の抜けた容器みたいな空白だけが、内側に広がっていた。
(……俺、この世界じゃ……なんの役にも立たない)
父に会わせる顔はない。
母には、心配ばかり積み重ねている。
だからこそ——
あの世界だけが、自分を“必要としてくれた場所”だった。
ふと、視線がモニターへ引き戻される。
――そのとき。
あり得ない違和感が、網膜の奥に引っかかった。
灰色のログイン画面。
そこに表示されているはずの“サーバー切断”の文字が、わずかに、滲んだ。
ノイズだと思った。
だが違う。
画面の奥、
灰色の向こう側に、
本来あり得ない“深度”が生まれている。
(……なんだ……これ……)
瞬きする。
消えない。
滲みは、ゆっくりと形を結び始めていた。
切り立った岩壁に囲まれた、凍りつく谷。
白い冷気が、地を這うように流れている。
その中央に立っているのは——
背中を預け合って剣を構える、セラフィーと仲間たちだった。
(……嘘だろ……)
喉が、音もなく引きつった。
さらに、その向こう。
黒い霧をまとって現れたのは——
あの時、最後まで倒しきれなかった魔族の王子レオと、二人の将。
(……やばい……あいつら……!
レオは……今のあいつらじゃ、止められない……!)
心臓が、肋骨を内側から叩き割りそうなほど、激しくのたうつ。
指先の温度が、急速に失われていく。
画面越しのはずなのに、谷を吹き抜ける氷の風が、頬を撫でた気がした。
錯覚のはずなのに——
皮膚だけが、あちら側の空気を知っている。
仲間たちは武器を握りしめ、凍てついた地面に踏みとどまっている。
だが――
その肩が、ほんのわずかに震えているのを、颯太は見逃せなかった。
——あれは、
かつて自分の背中にも走っていた震えだった。
——その瞬間、
画面の向こうで、セラフィーの視線が、確かに、こちらを見た。
画面越しのはずなのに、
——視線だけが、こちら側に届いていた。




