ep.76 門番ヒルロックと『錆びた至宝』
夕闇に沈む相模湾の波濤が、江の島の断崖に打ち付けられ不気味な飛沫を上げている。
かつて恋人たちが愛を誓い、家族連れが賑わった観光の聖地は、今や異界の魔力によって「拒絶の要塞」へとその姿を変えていた。
折れ曲がった展望灯台の残骸は天を呪う巨大な指のようにそびえ立ち、島全体を覆う石造りの城壁はまるで生き物のように蠢きながら海面から突き出している。
本土と島を繋ぐ弁天橋は、かつての軽やかな面影を失い今は軍事拠点のような無骨な石造りの要塞橋となっていた。
だが、その「安息の地」の入り口が激しく揺れていた。
ドォォォォォンッ!!
金属が悲鳴を上げ、巨大な衝撃音が海風を切り裂く。
江の島の入り口に据えられた巨大な鉄門。
そこから響くのは、守衛たちの絶望に満ちた怒号とそれらすべてを圧殺せんとする肉塊の蠢動だった。
「……騒がしいな。ようやく辿り着いたというのに、閉館中か?」
一郎は、いぶかしげに目を細めた。
背後の5体のゾンビに命じて、怯える生存者たちを橋の端に待機させると自身は静かに騒乱の中心へと近づく。
そこには、既存の「ゾンビ」という概念を根底から覆す異常個体が存在していた。
身長は3メートルを優に超え、皮膚は引き裂かれ、その下からは病的に膨張した赤黒い筋肉が剥き出しになっている。
膨れ上がった腹部は、まるで今にも破裂しそうな巨大な膿袋のようだ。
そいつが丸太のような腕を振り下ろすたびに、厚さ数十センチはあるはずの鉄門が紙細工のように歪んでいく。
「……あの異形。もしや、ゲームの序盤でプレイヤーを絶望させた、あの肉屋か?」
一郎の脳裏に、かつて画面越しに見た記憶がフラッシュバックする。
ACT1のチュートリアルボス。
多くの新米冒険者をその怪力で粉砕してきた門番。
「……確か、名は『Hillock』といったか」
一郎の視線は、その巨漢の背中に釘付けになった。
ヒルロックの肥大化した背中には、まるで背骨の一部であるかのように一本の巨大な剣が突き刺さっている。
錆び付き、刃こぼれしたその無骨な大剣から放たれるどす黒い魔力の波動。
「……待て。あの剣、まさか……馬鹿な。あり得ん。あんな伝説級の代物が、こんな序盤の、それも現実の湘南に現れるというのか……!?」
一郎の独白は、再び響いた轟音にかき消された。
鉄門のヒンジが千切れ飛び、守衛たちの悲鳴が一段と高くなる。
このまま門が突破されれば、要塞内部は蹂躙され壊滅は免れないだろう。
「……やれやれ。目的地が廃墟になっては、わざわざ新宿から歩いてきた労力が水の泡だ。……仕方ない、少しばかり助力をするとしよう」
一郎は冷徹に、だがその瞳に確かな熱量を宿して前へ出た。
「行け。私の『足』を止める障害を、すべて排除しろ」
指示は短く。
だが、その一言で、一郎を囲んでいた5体のゾンビが一斉に地を蹴った。
STR520。
一郎の執念が宿ったゾンビたちは、並の死体とは比較にならない速度でヒルロックへと肉薄する。
「グオォォォォッ!!」
ヒルロックが咆哮し、背中から巨大な錆びた剣を引き抜いた。
その瞬間、周囲の大気が凍りつくような殺気が膨れ上がる。
最初の一体。
一郎のゾンビが放った正拳突きが、ヒルロックの膨張した腹部にめり込む。
だが、巨漢の肉厚な脂肪と筋肉は、その衝撃を飲み込み即座にカウンターの大剣が振り下ろされた。
「ガアッ!!」
一郎のゾンビの一体が、一撃で石畳に叩きつけられその身体の半分が粉砕される。
「……フン、個体としての出力はやはりあちらが上か。だが、戦争とは数なのだよ」
一郎の背後で、これまで一言も発さず、ただの荷物持ちのように沈黙を保っていた影が動いた。
全身を鈍く光る重装鎧で包み、主人の予備兵装をその身に纏った騎士――『守護者』だ。
一郎は視線を逸らさぬまま、静かに命じた。
「……荷解きの時間だ。その身に宿した鉄塊の重みを、あの肉屋に教えてやれ」
ガーディアンが応えるように、一歩、石畳を踏みしめる。
ゾンビたちが「数」による面制圧を担うなら、この守護者は「質」による一点突破の矛。
一郎がこれまで手に入れた優良な防具の性能をすべてその身に同化させた、自律型の近接戦闘兵器が、ついにその沈黙を破った。
「ゾンビたちは四方から関節を狙え。ガーディアン、正面を受け持て!」
戦場は、一気にダイナミックな乱戦へと突入した。
5体のゾンビがヒルロックの巨大な足首や腕に縋り付き、その圧倒的な怪力を分散させる。ヒルロックが大剣を振るう隙を狙い、守護者が鋭い刺突を、その剥き出しの筋肉へと叩き込む。
「オォォォォォッ!!」
腕を貫かれたヒルロックが暴れ狂い、錆びた大剣を無造作に振り回す。
その一撃一撃が、周囲の石壁を粉砕し瓦礫の雨を降らせた。
一進一退の攻防。
個体としての圧倒的な質量差は、いまだヒルロックに分がある。
「……フン、暴れるだけ暴れるがいい。その『無駄なエネルギー』こそが、貴様の破滅を早める」
一郎は冷徹に戦況を分析し、絶え間なく魔力を注ぎ込みゾンビたちの損耗を補填し続ける。
ヒルロックの大剣が、拘束を試みたゾンビの一体を直撃せんとした瞬間、一郎の指先が高速で複雑な術式を刻んだ。
「『ボーンオファリング(Bone Offering)』――砕け、そして護れ!」
一郎の足元に転がっていた先ほど砕かれたゾンビの残骸が、どす黒い霧となって弾けた。
その霧は瞬時にゾンビたちへと伝播し、彼らの腐乱した皮膚の表面に、白骨のごとき硬度を持つ『魔力の結界』を形成する。
死体の残骸を「供物」として捧げ、死霊たちの防御能力(ブロック率)を爆発的に高めるネクロマンサーの防御奥義。
ドォォォォォンッ!!
ヒルロックの大剣が、結界を纏ったゾンビの腕に叩きつけられた。
だが、先ほどのように粉砕されることはなかった。
鈍い金属音と共に、大剣がゾンビの白骨結界に弾かれる。
ゾンビの身体は衝撃で数メートル弾き飛ばされたが健在だ。
即座に体制を立て直し、再びヒルロックへと縋り付く。
「……計算通りだ。ボーンオファリングによるブロック率の向上。これで、貴様の暴力も『許容範囲内』に収まる」
心臓が早鐘を打つが、一郎の表情には一片の動揺もない。
ゾンビたちが「数」と「防御結界」でヒルロックの暴力を封じ込め、『守護者』が「質」による一点突破の矛となる。
「……終わりだ、肉屋」
ヒルロックが大きくバランスを崩した瞬間、5体のゾンビがその巨体に一斉に飛びつき、動きを封じた。
そこへ、ガーディアンの全力の一撃がヒルロックの喉元を貫く。
どす黒い腐液が噴き出し、巨躯がゆっくりと、断末魔の叫びと共に崩れ落ちた。
沈黙。
激しい戦闘の余韻の中、一郎は倒れ伏したヒルロックへ歩み寄った。
その手には、主を失い地面に転がったあの巨大な錆びた剣がある。
一郎はそれを拾い上げ、入念に観察した。
「……やはり間違いない。この重み、この魔力。……これこそが、あの『オニゴロシ(Oni-Goroshi)』の……いや、今はまだただの『錆びた剣』に過ぎんか」
かつて伝説と謳われた名剣の影をその剣身に見出し、一郎は満足げに鼻を鳴らした。
これは、今回の遠征における最大級の『収穫』になるはずだ。
やがて、悲鳴を上げていた鉄門が内側から重々しく開き始めた。
おそるおそる顔を出したのは、血の気の失せた顔をした数人の守衛たちだ。
「……あ、あんたが……あんたが、あの化け物を倒してくれたのか?」
代表らしき男が、震える声で問いかける。
背後には、一郎が連れてきた生存者たちが安堵の涙を流しながら門の中へと駆け込んでいく姿が見えた。
一郎は守衛を一瞥し、血に汚れたままの剣を無造作に担いだ。
感謝の言葉も賞賛も彼にとっては不要な『無駄なやり取り』でしかない。
「……道が開いた。それだけだ」
一郎は動揺する守衛たちを泥舟でも見るかのような冷淡な瞳で無視し、5体のゾンビとガーディアンを引き連れ歩みを進めた。
背後で再び、巨大な鉄門が閉まる音が響いた。




