ep.75 鎌倉の蹂躙と『歩く防波堤』
「……神様……いや、死霊使い(ネクロマンサー)様! お願いだ、俺たちを江の島へ……! あそこなら、あそこの『要塞』なら安全だって聞いたんだ……!」
鶴岡八幡宮の巨大な朱塗りの鳥居。
かつては観光客が笑顔で記念撮影をしていたその足元で、十数人の男女が廃車の上に固まって震えていた。
鈴木一郎は、彼らの縋り付くような悲鳴を、ただの「雑音」として処理した。
「……五体。この端数が、これほどまでに世界の景色を変えるとはな」
一郎は彼らを見ることさえせず、背後に従えた五体のゾンビを見上げた。
かつての自分自身の肉体は、社畜生活で磨り減り満員電車に揺られるだけで悲鳴を上げる脆弱な器だった。
だが、今、脳内に刻まれた『STR:520』という数値は、この絶望的な世界において絶対的な物理的真実として君臨している。
「進路をこじ開けろ。一歩も止まるな」
一郎が短く命じると、五体のゾンビが地響きを立てて前進を開始した。
かつての若宮大路――由比ヶ浜へと続く段葛の両脇は、今やうめき声を上げる『動く死体』の海だ。
かつての観光客、修学旅行生、地元住民。
それらすべてが腐敗し、出口のない迷路を彷徨うだけの肉塊と化している。
ドォォォォンッ!!
先頭を行く一体が、ただ無造作に腕を振るった。
それだけで、進路を塞いでいた三体の腐乱死体が、まるで暴走する大型トラックに撥ねられたかのように宙を舞い、街路樹に叩きつけられて四散した。
STR500の壁を突破したことで、ユニーク兜『男爵(The Baron)』の秘められた力が、一郎の意志をゾンビたちの筋肉へとダイレクトに流し込んでいる。
一体一体が、もはや単なる歩く死体ではない。
岩をも粉砕する剛腕と、数トンの衝撃をものともしない骨格を備えた『重戦車』だ。
「……あ、ああ……すげえ、道が……道ができていく……」
廃車の上で呆然としていた男が、震える声で呟いた。
一郎は冷徹な一瞥を、その男へと投げた。
「……安全だと? ……まあいい。そこまで言うなら、私の歩いた跡だけを踏んで来い。そこから外れれば、次は貴様らが私の『盾』になる番だ」
一郎の声には、慈悲の欠片もない。
彼にとって、この生存者たちは「助けるべき同胞」ではない。
精々、背後からの奇襲を知らせるための「生きた警報器」か、いざという時の「時間稼ぎの肉壁」程度の価値しか認めていない。
一行は、凄惨な音を立てて進み続けた。
五体のゾンビが左右二体ずつ、および先頭に一体。
一郎を囲むように配置されたその陣形は、荒波を切り裂く船の舳先のようだった。
鎌倉の街を抜け、滑川の交差点を曲がる。
潮風が、街に漂っていた濃厚な腐敗臭をわずかに押し流した。
目の前には、国道134号線。
かつてはデートスポットとして、休日には色とりどりの車が数キロにわたって数珠繋ぎになっていた海岸線だ。
だが、今の134号線は、錆びついた鉄屑と砂に埋もれた『墓標』の列と化していた。
「……かつてはこの渋滞に、どれほどの人生が費やされていたことか」
一郎は独白する。
一分一秒を切り詰め、自らの自由な『時間』を買い戻すためにすべてを犠牲にしてきた自分にとって、この無残に放置された高級車たちの列は、滑稽なまでの無価値の象徴に思えた。
「今の私には、この五体こそが最も確実な『足』だ」
背後の生存者たちは、地獄のような光景の中を一郎の背中だけを追いかけて必死に走る。
道端の砂浜からは、波打ち際に打ち上げられた異形の海獣たちが、獲物を求めて這い上がってこようとしていた。
だが、一郎を護る五体のゾンビが放つ圧倒的な威圧感に、それら怪物たちでさえも本能的な忌避感を覚え、近づくことができない。
やがて、水平線の先に、目的の景色が見えてきた。
夕闇の中に沈む相模湾。
その海面に、不気味な青白い光を放つ巨大な要塞がそびえ立っていた。
江の島。
かつての観光展望塔は半ばから折れ、代わりに異界の石材で組み上げられた禍々しい監視塔が、天を指す死者の指のように立っている。
島と本土を繋ぐ弁天橋は、異界の魔力に侵食されたのか、石造りの堅牢な要塞橋へとその姿を変えていた。
かつての軽やかなアスファルトの面影はなく、今そこにあるのは外敵を拒絶し内側を護るためだけの冷徹な『関所』だ。
「……ようやく着いたか。私の『目的地』に」
一郎は、懐に隠した『薬品箱』と、まだ見ぬ報酬『クイックシルバーフラスコ』を想い、薄く笑った。
この荒廃した世界において、唯一信じられるのは自分の手で掴み取った『力』とそれを裏打ちする『数値』だけだ。
五体のゾンビを引き連れ、背後に十数人の「手荷物」を従えたまま、一郎は江の島の巨大な弁天橋へと足を進めた。




